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何も無い。 札幌から出た始発の列車の終着駅、留萌駅で降車する人間はまばらだった。車内に流れる車掌のアナウンスを聞き届けてから席を立った将未はホームに降り立ち顔を上げる。1番始めに目に入ったのは、降車したホームから線路を挟んで伸びるもう一本のホームの向こうに広がる景色だった。 道北近くに位置する街、留萌は小さな自治体ながらも市である。地方の市町村の多くがそうであるように過疎の現象は見られるものの、決して店舗や住宅が少ない訳ではない。インフラも小さな街なりに整っている。だが札幌、それもほとんどをススキノという大歓楽街で生きてきた将未が、目に映る曇天の下に広がるこじんまりとした風景に何も無いという印象を抱くのは必然だった。 手荷物も無くぼんやりとホームに立ち尽くす将未の姿に気が付いた車掌が微かに訝しげな眼差しを向ける。視線の気配に気が付き、慌てて改札口を示す看板を見付けて将未はようやく歩き出す。手にはヒデに渡された片道の切符を大切そうに握っている。 札幌から留萌までは2時間強程かかった。ヒデの言った通り、わからないことは切符を手に駅員に尋ねると丁寧に教えて貰うことが出来た。途中、どこかの街で列車の乗り換えがあったが、それも親切な駅員に促されて降車し、次に乗るべき列車を尋ねて事なきを得た。 将未にとっては札幌から出ることはおろか、列車に乗ることも別の街に行くことも生まれて初めての経験である。緊張しつつ視線を巡らせ、空いている2人がけのボックスシートに体を埋めると、やがてゆっくりと列車は動き出した。しばらくは、街を離れる感傷よりも勝った物珍しさに車窓から景色を眺めていたが、札幌を抜ける頃には背の高い建物はほとんど無くなった。曇り空の下に広がるのは、だだっ広いだけの雪原と、そこに点在する防風林や雪に押し潰されて半壊した廃屋等が散らばる田舎の風景だった。 席に慣れ、落ち着いた頃、ふと前の座席の背に備え付けられた小冊子が目に入った。駅が発行しているらしい。無料の文字に導かれて手に取り、ぱらぱらと捲ると、後ろのページに北海道の全体図を記した地図が載っていた。義務教育の間だけ受けた授業と、テレビのニュースで時折眺めた天気予報の記憶を頼りに札幌を探し、次に時間を掛けて留萌の地名を探し、驚いた。留萌という場所は道北に位置するらしい。札幌から随分離れた場所にある地名をなぞる。よくよく見ると路線図と思われる黒と白の線も引かれている事に気が付き、これが自分を運んでいる線だろうかとその線も指で辿る。留萌の文字は海岸線に重なるように記されていたが、将未が乗る列車は内陸を北上しているようだった。 こうして地図を見ないと場所もわからず、そこに何があるのかもわからず、ただヒデに命じられるままに札幌を離れた。列車に揺られながら改めて鞍瀬や神原が口にしていた事をゆっくりと繋ぎ合わせて考え、導き出した答えは自分はもう札幌には居られなくなったという事だけである。 雄誠会を破門になり、知らぬこととはいえ、豪能組の息が掛かった龍俊に関わっていた自分はススキノはおろか、札幌には居てはならないということなのだろう。札幌やススキノを離れることへの未練や名残惜しさという感情は将未には無い。ただ、電車が駅のホームを滑り出す瞬間、龍俊の顔が脳裏に浮かんだ。 ススキノにいられないのなら、恐らくもう、龍俊には会えない。 龍俊に会えないのならば、生きている意味などないとすら思う。だが一方で、命じられた事を拒否する理由も無かった。展望はない。将未は将未が幼少期からそうしているようにただ従い、流されているだけだ。 ヒデが口にしていた本城という人間の詳細も聞き損ねた。ヒデや、あるいは矢立の知り合いか何かだろうか。流されたその先で待っているというその人はどの類のーー自分に対してどの位置に立つ人間なのだろう。 捲った冊子を元の位置に戻し、将未は再び窓の外に視線を投じる。相変わらずどこまでも続く寒々しい荒野や、時々ぽつぽつと現れる町や集落のいずれもが初めて肉眼で見る景色だ。自分はあまりに狭い世界で生きてきたことを知る。文字通りに視界が開けるような心地を感じながら、将未は一睡もすることなく北上の旅を過ごしてしまった。 同じ列車に乗っていた人間達は既に駅から去ってしまったのか、閑散とした改札口で機械に切符を通す。ヒデに渡された頼りない紙片はシュッと音を立てるようにして機械に飲み込まれると、もう自分の手には戻って来なかった。ヒデや矢立との唯一の縁が切れてしまったようで、将未は悲しげに目を伏せつつ改札を通る。 留萌の駅は札幌駅に比べるとやはりこじんまりとしたものだった。目が回るように華やかで、ある種雑然とした商業施設や雑踏はここにはない。しかしその分視界は広い。辺りを見回すと出入口と思われる大きな扉があった。相変わらずどこかとぼとぼとした足取りでそちらへと向かい、押戸を開き、軽く目を見張った。 広がるのは小さな街並みと、曇天だ。札幌の所狭しとビルが密集し、ともすれば無機質に見えてしまう街中に彩りを添えるように樹木が植えてある駅前の風景とはまるで違う。駅の前には四角い店舗がぱらぱらと並び、空はどんよりとした灰色で覆われている。ロータリーと思われる場所にぽつぽつとタクシーの姿が見えたが、真冬の空の下を行く通行人は数える程しかいない。 自分はこの街でどう生きていけば良いのだろう。 あまりに漠然とした不安が将未を襲う。雪は降っていないものの、耐えず吹き付ける風の冷たさに肩を竦める。不意に、鼻腔に嗅いだことの無い香りが飛び込んできたが、その正体すら将未にはわからない。頼る場所や人がいない場所に放り出された心細さに、将未はただ立ち尽くすしかない。 強弱を付けて吹く寒風に体を撫でられ、将未は本能的に駅舎の中へと戻る。駅の隅にベンチが何台か置かれているのを見付け、そっと腰掛けた。待合用のスペースなのか、近くには簡易ストーブが置かれている。届く暖気に思わず淡い溜め息を逃した。醤油の香りに鼻腔を擽られて視線を向けると、狭いスペースに蕎麦屋の看板が出ている様子が見えたが、食欲はない。 自分はこのままどうなってしまうのだろう。心細さのまま身を縮める。ヒデが、留萌で待っていて保護してくれるという本城という人の顔もわからないが、相手の方も自分の顔は分からないのではないだろうか。果たして本城と巡り会うことは出来るのだろうか。 温まる体をベンチの背に凭れさせると、急速に眠気が襲ってきた。食欲はおろか、昨夜は一睡もしていない事すら忘れていた。そんな事は些細なことだと思う程に、昨夜は色々なことがあり過ぎた。 自分はどうなっていくのだろう。寄る辺を無くした心細さと、龍俊に向けられた言葉が交互に浮かぶ。 自分はもう要らないのだろう。神原も、矢立も自分を不要だと言った。棄てられることには慣れている。いつもその先があったのはただ運が良かっただけなのかもしれない。途切れた道はどこかに続いているのだろうかーー。 漠然とした思いを抱えつつ、将未はそのままうとうとと船を漕ぎ、やがて深い眠りの中へと落ちてしまった。 〇〇〇 「ーーヤクザさんかね。ほれ。指が無い」 待合用のベンチで熟睡する将未に始めに気が付いたのは、近くの街に出掛ける為に駅へとやって来た老婦人だった。時折舞う小雪の寒さにコートを着込んだ体を縮めながら何気なく見渡したいつも風景の中に、一人眠りに就いている青年の姿は異質なものとして在った。躊躇することなく歩み寄り、ただ眠っているだけらしいということを確認してから顔見知りの駅員に伝えると、駅員は帽子の上から頭を掻きつつ将未の元にやってきた。眠りこけるその頭上で会話が交わされても、将未は起きる気配がない。 「随分小綺麗だね。ハンサムだよ。札幌の人って感じだわ」 「…ああ…。そうです。札幌の始発から乗ってきた方です。何か用事があって来たんでないのかな?」 青年は見るからに上等なコートを纏ってよく眠っているが、このままでは風邪をひいてしまうだろう。幸い今日の天気では駅の利用者はあまり来ない筈だ。始発の時間を考えると、昨夜この青年はあまり眠っていないのかもそれない。このまま毛布でも掛けて寝かせておけばそのうち目を覚まして目的地へと向かうだろうか。眉を下げつつ思案していると、長身の男が1人やや早い足取りで構内に現れた。 「やあ。滄さん。珍しいな。朝に顔出すのは」 「……広瀬、という男が来ましたか」 滄さん、と呼ばれた男は四十代に手が届く頃だろうか。僅かに白髪が混ざる短髪や、羽織ったジャンパーは乾いているからここまでは自家用車でやってきたのだろう。人の良さそうな声をかける駅員に対してにこりともせず、仏頂面で尋ねる滄の様子はいつもの事なのか、駅員は動じることなく眉を下げた。 「広瀬?さあ…、」 「…札幌からの始発で、」 「ああ、この人かい?」 列車の乗り降りをする人間や駅にやって来る人間皆が名札をぶら下げているわけではない。ただ狭い町ではある為に、見慣れぬ顔は嫌でも目立つ。駅員は1度首を傾げたものの、男からのヒントを得るとその視線の先で眠りこける青年を見やってから再び滄の高い背を見上げた。 「身分証とかあるかねえ。この人、今朝の始発に乗ってきて降りたと思ったらそのままここで寝ちまったんだよ」 滄の、どこか昏い色をした眼差しが将未を見下ろす。自分より少なく見積っても10は年下だろうか。コートのポケットから僅かに覗く手が目に入った。真新しい白い包帯に包まれた手の、そのうちの指が1本欠けている事に気が付き、滄はやれやれという色を含ませて鼻から息を抜く。無防備な寝顔を見下ろし、初めて見る顔形を確かめた。 「…広瀬、だ。……多分」 間違っている可能性は低い。だが、矢立に命じられて迎えに来た広瀬将未であるという可能性が限りなく高いと感じたのは、どこか苦悶するような寝顔の中に、かつて自分が仕えていた男ーー矢立煇の面影を見た為だ。昨夜矢立から受けた電話の向こう、矢立が険しい表情をしている様子は見なくとも察することが出来た。自分のような一介の、それも組を抜けた部下に発しているとは思えない半ば懇願するような声音を思い出す。広瀬将未という男を、保護してくれ。 駅員は相変わらずにこにこと目元を緩めて滄を見上げている。将未と滄とを見比べ、うんうんと数回頷いて見せた。 「そうかい?それなら良かった。アンタの知り合いかなにかかい」 「…いや…、」 将未は目を覚ます気配がない。熟睡する男を両腕で抱えると、片腕を自分の肩に回す形で立ち上がらせた。戻る場所は駅からはそう遠い場所ではないが、車を出して正解だ。思っていたよりも上背があるがなんとか引きずって行けるだろう。将未の髪からほんの微かに香った煙草の匂いに鼻腔を擽られた。 「今初めて会った」 「……そうかい」 顔だけを振り返って答える滄に駅員が1度目を瞬かせてから小さな苦笑を寄越す。難儀だね。アンタも。肩を叩くような声を背に受けながら、本城滄はゆっくりとした足取りで駅の構内を出て行った。

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