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13-2
目を覚ますと、煙草の香りが鼻腔を擽った。
がばりと身を起こすと、知らぬ間に掛けられていた布団が半分ずり落ちた。自分の他に人はいない。自分は確か駅にいた筈だがと辺りを見渡す。夕暮れ時なのか、嵌め殺しの窓から薄ぼんやりと射す光が浮かび上がらせる一間の部屋には、自分が今いるベッドだと思われる物の他には家具らしきものはほとんどない。離れた場所に古びたソファーが1つと、ベッドに寄り添わせるようにして置かれた小さなストーブが1台と、1本足のサイドテーブルが置かれているだけだ。一瞬、僅かの間だけ根城にしていた雄誠会の部屋住用の部屋を思い出した。テーブルの上に置かれた灰皿の中には、短く吸った煙草の吸殻が数本転がっている。
掛けられていた布団を全て剥がして床に降り立つ。いつの間にか脱がされていたコートと上着はハンガーに掛けられて壁からぶら下がっていた。ストーブが炊かれている為か部屋は冷えてはいない。上に載せたヤカンから細く蒸気が上がっている。窓に歩み寄り、そっとカーテンを開けてみると外は相変わらずの曇天から小雪がちらちら舞っていた。空はやはり夕刻の色をしていたが、将未が知っている空の広さではない。遮る物ーー背の高い建物が無い空が、どこまでも遠くまで見渡せる程に広がっていた。
辺りの景色からして、この部屋は建物の2階辺りであるということがわかる。向かいには小さな食堂のような建物があった。ここはどこだろう。窓際から改めて部屋を見渡すと、1枚のドアを発見する。ふらりとした足取りで歩み寄ろうとするも、それより先に小さく音を立ててドアが開いた。
「…起きたか」
現れた男は将未の顔を見て小さく呟いた。将未が目を覚ますのを待っていたかのような口振りだった。飾り気のない白いシャツに黒のパンツを纏った男はやや体格がが良い。平坦な声音を発した男の手にはビニール袋が下がっている。じっと将未の顔を見つめる眼差しは自分よりも十は年上に見えた。
「広瀬、将未か」
「…はい、」
部屋を渡り、自分へと距離を詰める男の声の語尾が僅かに上がったことで尋ねられているのだと察する。こくりと頷く将未に男は目だけで頷いた後、手にしていたビニール袋を将未に軽く放った。将未はあと数歩の所で足を止めた男の手から渡されたビニール袋を受け取り、中身を見やる。
「とりあえず食え。…もうすぐ店を開ける時間だから、話は改めてする。食ったら…、…寝てろ」
疲れているだろうから。ぶっきらぼうではあるが、声音は至って柔らかい。こもりがちな低音ではあるが、家具は少なく、ストーブの音しかしない空間では真っ直ぐに将未の元へ届いた。
男はそれだけを言うと話は終わったとばかりに将未に背を向けてしまう。去ろうとする背中に将未がようやく我に返った。
「あの、」
「…本城。……ボス…、…矢立さんから、話は聞いている」
慌てて声をかける将未に顔だけを振り返った男が口にした言葉を飲み込み、将未は小さな安堵を覚える。本城という人間に会えたのだ、と気が付き曖昧に頭を下げた。自分を駅からここまで運んでくれたのも恐らくこの男だろう。昨夜眠っていないとはいえ、随分深く眠ってしまっていたらしい。
「…ありがとう、ございます」
「……」
礼を口にする将未に本城は1度微かに驚いた色を見せてから再び将未へと後ろ姿を向ける。そのまま来たばかりのドアを開き、部屋から出ていったかと思うとすぐに階段を降りている様子の足音が聞こえてきた。
再び1人になると、どこか緊張していたらしい体から力が抜ける。そのまま傍らのソファーの感触を確かめるように腰を降ろした将未は改めてビニール袋の中身を見る。コンビニで売っている形の握り飯が2つと、少し温くなったペットボトルの緑茶が入っていた。
状況こそ覚えてはいないが、どうやら自分は本城に会えたらしい。
寡黙というよりも物静かそうな年上の男だった。矢立のことをボス、と呼ぶからには本城もまた雄誠会にいた人間なのだろうか。店を開けると言っていたが、何か店を経営している人間なのだろうか。
あの人は自分をどう扱う人間なのだろう。
そんな風に考えるのはほとんど無意識のうちだ。自分を利用したい人間なのか。次の住処を与えてくれる人間なのか。良い人間なのか、悪い人間なのか。自分をーー棄てない人間なのか。
いずれにしても将未には差し伸べられた手の中に収まるしか術はない。流されていく中で身に付いた処世術は酷く消極的なものではあるが、将未にその自覚はない。自ら選ぶ術を持たないまま、将未は生まれた場所から随分遠くの街まで来たことになる。
ペットボトルの緑茶を取り出して握る。中途半端な温度が手のひらに伝わってきて、淡い息がこぼれ落ちた。
自分をここまで連れてきてくれて、食事を与えてくれる人間に、悪い人である理由があるだろうか。そもそも矢立を通して自分を保護してくれる人間だ。悪い人間には思えない。
ほんの一瞬、龍俊の顔が脳裏に浮かぶ。
何度痛い目を見ても、自分はきっと学習する術を持たない。
誰かを信用することで痛い目を見る事に慣れた訳では無い。何度繰り返しても、誰かに棄てられる時は途方もなく胸が詰まる。
龍俊は、将未にとっては悪い人間などではなかった。ただ、優しかった筈のの龍俊が最後に見せた表情が今でも信じられない。
全て偽りだったのだ。思う度に、胸が強く軋む。それ程までに強く、濃厚に将未に刻み込まれたのは龍俊の表の面なのか、それともーー。
龍俊の事を考えると胸や鼻の奥が熱くなる。泣き出しそうになる気配を堪え、将未はペットボトルの蓋を回した。
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