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翌日は昼近くになって目が覚めた。随分眠れるものだと自ら半分呆れていたが、深く長い眠りを貪る事が久方ぶりであるような気がした。
相変わらず何もない部屋ではやる事もない。勝手に外に出ることもいけない事であるような気がして、空いた腹を抱えながらベッドの縁にぼんやりと佇んでいる。あの本城という男はまたやって来るのだろうかと1度しか目にしていない顔立ちを思い起こそうとしていると、昨日と同じ静かな足取りで本城が部屋にやってきた。
「…起きたか」
本城はやはり昨日と同じように呟き、将未を見て緩く首を傾ける。何事かを考える間を挟んで、平坦な声音と共に将未を見下ろした。
「飯を、食いに行く」
部屋から出るとすぐに細い階段があった。小さな踊り場を経て本城の後に着いて降りるとその突き当たりにもまたドアがある。扉が開き、入り込む外気に思わずコートの肩を竦めるも、次に日差しの眩しさに目を細めた。この街で初めて見る晴れ渡った空を見上げつつドアを潜る。ブーツで深い雪を踏む本城は自分達が今までいた建物の縁を辿るように進み、表通りに出た。乗用車を1台やり過ごし、信号のない道路を早足で渡る。同じような早足で道路を渡り切ると、目の前には将未が昨夜窓から目にした小さな食堂が建っていた。
がらがらと音の鳴る引き戸を開く。暖房が利いた店内、迷うことなく隅を目指して歩く本城の後ろで将未はキョロキョロと視線を巡らせている。小さな食堂は札幌でヒデに連れて行って貰った記憶があるが、そこともまた趣が違う。大衆食堂というのか、古びたテーブル席やカウンターがあり、その間をソースや醤油が混ざり合った良い香りが隙間なく埋め尽くしていた。最も隅の、窓際の席を選ぶ本城の行動を熟知しているかのように、店員である中年の女性がグラスに入った水を運んできた。やや色あせた真っ赤なエプロンが鮮やかだった。
「あら滄さん。随分ハンサムなお兄さん連れてきたんでない?」
「…うちの、上に住むんで、」
よろしく。それと焼きそば2つ。どちらがついでなのかわからない口調で本城は答える。女性は一瞬だけきょとりと目を瞬かせたものの、余計な詮索をすることなくすぐにはいはいと愛想の良い返事を置いて去っていった。
「…あれが、俺の店」
奥の方で、女性が焼きそば2つ、と声を張り上げている。他に客はいない。将未と本城が座る席とちょうど対角線上にある壁にテレビが備え付けられていて、画面からは賑やかなワイドショーの音声が流れていた。
その音声に耳を傾けるでもなく、本城はおもむろに傍の窓に視線を投じる。窓の向こうには道路を挟んでさっき自分達が出てきた建物が見えるが、正面は何かの店の構えをしていることに将未は初めて気が付いた。建物自体は新しくないが店構えは古びていない。アンバランスな印象を受ける灰色の建物には横文字の看板が小さく掲げられていて、店名の上には「スナック」の文字が読み取れた。
「スナック、」
「…色々考えたんだが、お前は店の裏方として雇おうと思う」
本城は視線を合わせることなく淡々と向ける。明るい場所で見る顔は細面で、どこか窶れているようにも何かに疲れているように見えた。一見すると無愛想にも厳しくも見える眼差しに深い陰りが帯びている。僅かに白髪が混ざる黒い短髪が無造作にセットされていた。
「裏方…?」
「大した給料は出ないが、ただの居候でいるよりも良いだろう。雑用くらいしか仕事は無いが…雇用関係を結んでしまった方が、わかりやすい。俺もお前も妙な気の使い方をしたり気が引けたりすることも無い。…それに、」
寡黙そうな見た目に反して本城は訥々と語っていく。あらかじめ用意していたものなのかもしれない。裏方、という響きは随分懐かしいものに聞こえた。矢立に拾われて雄誠会に所属するまで、将未はススキノの風俗店の裏方、というよりも下働きをしていた人間だった。脳裏に浮かぶススキノの猥雑なネオンが酷く遠いものに感じた。
ただの居候では恐らく将未の方が引ける。自分自身も転がり込んできた青年の扱い方がわからない。本城はそんな風に考えたのかもしれない。給料などに頓着した事の無い将未は浅く頷きかけるも、本城が続く言葉を切った気配に目を上げる。厨房の方からソースの良い香りが漂ってきた。
「…それに、…何かをしていた方が、…忘れられるし、気が紛れることもある」
「ーー…」
朝起きてから忘れていた筈の小指の傷が鈍く痛んだ。
将未の脳裏に留まり離れないのは、ススキノのネオンではなく、龍俊の姿だ。
自分は忘れなければならないのだろうか。
忘れるべきなのだろうか。
嫌な記憶として、しまい込んで封をしてしまうことが正しいこなのだろうか。
龍俊を。龍俊がくれた、全てを。
それは嫌だ、と思わず頭を振ろうとした刹那、本城がひょいと将未に視線を戻した。了承を得ようと伺う眼差しに咄嗟にこくりと頷く。本城は僅かに安堵したように淡い呼気を吐き出して水が入ったグラスを手元に引き寄せた。
「あの、」
話が終わり、訪れようとする沈黙を厭うように将未は思わず声を発した。後に続く何かがあった訳では無い。それでも本城は静かな視線を将未へと向けて言葉を待っている様子が伝わってくる。じっと注がれる視線に、とりあえず見つけた言葉を口にする。
「本城さん、は、」
「…滄、」
「あお?」
ぼそ、と零れた声はテーブルの上に落ちた。唐突に口にする色の名に将未が緩く目を瞬かせる。本城は慣れた様子で反応を受け止めたかと思うと傍らに立てられているペーパーナプキンを1枚抜き、もう一方の手で自分が着込んでいるジャンパーのポケットをあちこち叩き、ボールペンを1本見つけ出す。書きにくいペーパーナプキンの上に短く何かを書き付け、テーブルクロスの上で紙を将未へと滑らせた。綺麗に整った字をしている。
「本城滄。俺の名前だ」
「…あお、さん」
「滄、」
受け取った紙には将未が目にした事の無い漢字が書かれている。この字は「あお」と読むのかとまじまじと字を眺めては口にする将未に本城滄はすかさず訂正を入れる。威圧的ではないが、拒否権は無さそうな声音だった。
「…あお、」
仕方なくぽつりと復唱する将未に滄は静かに、だが それで良しという年配者らしい動きで顎を引く。
名を呼んだ手前、何かを尋ねなければと気が付いた将未が再び慌てるより先に、賑やかな足音と共に店員の中年女性が2人分のソース焼きそばを運んできた。2皿とも盛大な大盛りであったが、それが特別なことなのか普通であるのかはわからない。
食え、と呟くように促しつつ滄が割り箸を手に取る。初めて嗅ぐはずだが、どこか懐かしさを感じるソースの香りにも惹かれて将未もまた箸を割る。紅しょうがが乗った焼きそばを口に運び、熱さに目を細める。久々に食事らしい食事を口にした。
「…俺は常にあそこにいるわけじゃないから」
「……」
物静かな顔立ちには似合わず、滄は大口を開けて焼きそばをかき込む。目線だけを窓の向こうに向けて口の中のものを咀嚼して飲み込み、発せられた声はテレビの音声にかき消されてしまいそうで、将未も手を動かしながら耳を傾ける。
「家は別にあって、店には夕方になってからしか来ない。あの2階は俺の仮眠室だったがほとんど使っていなかった。お前はあそこを好きに使っていいし、腹が減ったらここや、近くにコンビニもあるから。自分で出来ることは自分でしろ」
自分で出来ることは自分で。それは確かに真っ当なことだ。だが、将未はそんな真っ当なことも縁が遠かったのだと気が付いた。
住む場所はどんな環境であれど流された先にとりあえずは確保され、食事はーー幼少期以外はーーなんであれ誰かが用意してくれたり面倒を見てくれていた。今までの自分は運が良かった。この先は本当の自活だ。思わず、カウンターの上に貼られている油の滲んだようなメニューを見やる。並ぶメニューはラーメンや丼物など脈絡のないバリエーションに飛んでいて、どれも安価な値段だった。
「…ススキノのから来たのなら、何も無いように見えるかもしれないが一通りの店はある。足りない物は揃う筈だ。家財道具で置きたいものがあったら言うといい。…当面ーー少なくともほとぼりが冷めるまではここに居ることになるんだろう。金は、あるか」
痛いところを突かれた思いだった。手持ちの金以外は全て龍俊のあのマンションに置いてきてしまった。せめて荷造りくらいして出てくるべきだったのだろうか。あの局面ではそんな余裕も無く、思いつく筈もない。仕方なく、ゆるゆると首を横に振るも滄は動じることなく浅く顎を引いた。
「入り用があったら言うといい。給料の前貸しとーー、…そうだった。ボスが、当面の生活費に困るだろうから幾らか送金すると言っていたから。後で通帳を作りに行く。身分証明書みたいなものはあるか」
てきぱきと、だが淡々と告げる滄が、途中で思い出したように言葉を切った。視線が将未に向けられるも、将未はますます痛い場所に触れられた思いで肩を竦める。生まれてこの方、身分証明書と呼べるものは持ったことがない。これまで不自由してこなかったとの方が不思議なくらいだ。いよいよ首すら触れなくなった将未を観察するような視線を送っていた滄が、そうか、と呟いてグラスの水を飲み干した。
「俺の名義で作れば良いだろう。もしくはボスに俺の通帳に振り込んで貰えば済む話だ。…気にするな」
珍しくはない、と締める言葉は慰めるような色をしていた。将未は小さく目を見張った後、滄のあまり変わらない表情にやはり安堵を覚える。いつまでも人のーー矢立や、この滄の世話になってばかりだ、と思うものの、そのどちらも自分を責めるような事は言わない。自分を組から追い出した矢立が自分に対してそのようなケアを施す理由はわからなかったが、矢立の顔を思い出すと、それは不自然なことではないように思えた。
「…ありがとう、ございます」
ぺこりと頭を下げた。滄は軽く目を伏せて箸を置く。空になった皿を眺めた後、その上に答えにするべき言葉を見付けたかのようにほんの小さな声をその上に落とした。
「…ボスの、頼みだから」
「……」
静かな声音だった。滄の脳裏には矢立の姿があるのだろうか。緩く首を傾ける将未にちらりと視線を向けてはまた逸らす。財布を取り出しつつ、それが義務であるかのように付け足した。
「ボスには、恩がある」
だからお前を助ける。滄が立ち上がる。将未は慌てて残りの焼きそばを平らげて後を追う。
矢立に恩があるのは将未も同じだ。だがきっと滄のそれとは性質が異なる。まだ出会ったばかりの年上のこの男が背負うものの重さは、どこか陰鬱な眼差しが語っているような気がした。
〇〇〇
「ーーああ。わかった。後からで構わないから番号をFAXしておいてくれ。週明けにでも振り込んでおく」
短く応答を続けた後、少しだけ増えた口数を最後に矢立がスマートフォンから耳を離した。浅い息を鼻から抜いて通話を切り、顔を上げると正面で煙草を吹かす鞍瀬と目が合う。何の因果なのか、互いにあまり顔を合わせたくない時に限って鞍瀬が支部にやって来る細かい雑用が多い。
幸いと言うべきか、広瀬の件はほとんど大事にはならなかった。雄誠会にいた違法薬物を所持していた人間は《2名》とも破門に処したこと、鳳勝会の幡野からの情報を得てからの行動が迅速だった為に以前のように警察に踏み来れるような事態にはなっていない。その幡野がつい先程会長を通さず鞍瀬に直接寄越した電話の中で、豪能組が新種の違法薬物を札幌に持ち込んでいるというネタを警察に垂れ込んでおいたと嬉々として報告してくれた。豪能嫌いのあの男の半分私怨めいた嫌がらせは幾らか豪能組を慌てさせるだろうか。
その一方、豪能組と繋がっている筈の神原の尻尾は、掴めていない。
「ヤクザがオレオレ詐欺に遭ってんなら末代までの恥だぞ」
「……本城からです」
鞍瀬とてそんなことは想像がついている。にこりともせずに口にした冗句に、矢立もまた表情を変えない。ふん、と鼻を鳴らして吸いかけの煙草を灰皿に押し付けた。
「破門した奴に金まで送ってやんのか」
「……当面の生活費に困る筈ですから。…それに、…2年前、本城にも同じことをしました」
そうだったか、と髪をかくものの鞍瀬はさほど、興味はない。破門した人間がその後どうなろうと知ったことではない。1度でもヤクザ組織の中に身を置いた人間がカタギとして世間を渡っていくのは困難だ。路頭に迷った末、再び元の組織や他の同組織に舞い戻る人間や、つまらない犯罪を犯して捕まる者は決して少なくはない。
それを知ってか知らずか、自らヤクザを辞めたとしても、上からの処置でそうなったとしても、全て身から出た錆というやつだと鞍瀬は思っている。だが矢立は違うのだろう。組の所属では無くなった後の身を案じ、人や状況によっては遠くからでも世話を焼く。ーー殊更今回は、自分がシンパシーを感じて拾ってきた自覚のある広瀬将未だ。必要以上に手を貸す事態になるということは、鞍瀬はどこかで予想していた。
矢立は、自分には成れないと言った。だが鞍瀬もまた矢立にはなれない。死んでもなろうとは思わないが、矢立もまた、鞍瀬のようになろうとも思っていないのだろう。
自分は非情にはなれない。要らない者を要らないと突き放すことは出来ない。
それならそれで構わない。筋や芯が通っていれば問題はない。鞍瀬には理解が出来なくとも、矢立には矢立なりの筋や芯があるのだろう。そして1度でも自分の中の情を押し殺し、可愛がっていた部下を破門にするという経験を踏んだということは矢立にとって無駄にはならない筈だ。ーー無駄にされては、困る。
広瀬の背を見送った雪の日、遠ざかる広瀬の背の手前にある矢立の背中を眺めつつ初めてそんな風に思った。この男には、この男なりの筋がある。
天井を仰ぎ、今しがた矢立が口にした男の顔を思い起こす。本城。自分よりも年上の、律儀で真面目な男だった。支部の所属であった為にあまり面識はない。最後に顔を見たのはーー。
「…本城は、エンコ詰めさせたんだったか」
「……いえ。…退職、という扱いにしましたから」
ヒデが運んできた茶を啜る矢立が鞍瀬の声に目だけを上げる。矢立は僅かに陰鬱そうに目を泳がせ、小さく呟いた。
ヤクザに退職もクソもあるか、と内心で毒づいたものの、雄誠会という場が職場であるのなら本城は退職という言葉が相応しいのだろう。あの男自身が何かをしくじった訳では無い。
「本城、なあ。…アイツ、《ちゃんと》生きてんのか?」
いつも人の後ろに静かに佇んでいる男だった。年齢がものを言わせていたのか、妙に落ち着き払っていて、どこか飄々としているようにも、達観しているようにすら見えることがあった。声を荒らげるような姿が想像がつかない辺りは矢立に似ているだろうか。ーー芯があるという話ならば、本城の方が芯が通っているか。融通が効かないと言っても良い。
矢立が目を瞬かせる。世間話のネタにするにはやや重たい話題だ。茶碗から唇を離し、テーブルの上に置いた。
「…本城は、やる事がありますから」
「くたばりぞこないの所にくたばりぞこない住まわせて大丈夫なのかよ」
「……」
矢立の返答を聞いているのかいないのか、鞍瀬は独り言のような口振りで確実に矢立に事実を突き付ける。
神原から離れ、街を彷徨う広瀬は今にも死地に赴いて行きそうな顔をしていたというのはヒデからの報告だ。神原と離れることは広瀬にとって、住処を失くすよりも、雄誠会を破門になるよりも痛みを伴うことなのだろう。その痛みに敗け、死に損ないのような広瀬をなんとしても死なせない。だから留萌の本城の所に行かせた。だが、その本城もかつてはいつ死んでもおかしくないような顔をしていた。自分が片翼だと思っていたものを失った人間達は、留萌の空の下で低く飛び続けているらしい。
困惑したように眉を垂れた矢立の表情を眺めては片眉を上げ、卓上に放り出したタバコの箱から1本抜いた。
「お前よォ」
低く落ちる声に反射的に矢立の背が伸びる。これは叱られる空気だと察して顔を強ばらせる矢立に鞍瀬がライター越しに舌打ちを寄越す。ビクビクした顔見せてんじゃねえよと口に出して毒づき、深々と溜息を吐き出した。
「今度拾ってくるならヤクザに向いてる奴拾って来いよ」
「……」
正面から煙が届く。矢立はゆっくりと視線を泳がせた後、はたと何かを思い付いたようだが、すぐにいかにも気まずそうに目を伏せた。
「……ヤクザに向いているような人間は…、…行き倒れて道端に落ちてはいないような気がします」
「……こういう時だけ一発で正解出してんじゃねえよ」
道端で死を待つように眠ろうとする人間は、確かにヤクザには向いていない。
バイタリティーに欠け、迷いの多い若頭の差し向かいで鞍瀬は先日まで雄誠会に所属していた広瀬と、昔籍を置いていた本城の顔を思い浮かべる。雄誠会の支部はヤクザどころか生きることに不得手な人間の通過点か何かーー。嘆かわしいとばかりに吐き出される溜息に、矢立が再びびくりと肩を跳ね上げた。
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