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札幌に比べると留萌の夏は幾分か気温が低い。日本の最北端と札幌との中間に位置するようなこの街の夏は、海の香りを含んだ涼しい風が吹いている。スナックの仕事を退けた早朝などは羽織りが必要な日すらあるが、今日のように昼近くになって外に出る頃には気温は上がっている。二階の窓の外から覗いた通りには燦々と夏の日が照っているようだった。起き抜けの洗顔の際に濡れた前髪がまだ乾いていなかったが、店の外に出て夏の日差しと気温に包まれるとすぐに乾くだろう。額に落ちた前髪の露を払いつつ、将未は相変わらず交通量の少ない道路を渡り、向かいの食堂へと足を運んだ。
「いらっしゃい。ああ。将未ちゃんかい」
ガラガラと引き戸を開けると、いつものように年配の女性店員が出迎える。初めてこの店に連れられてきた際に座った席の隣は、まだ誰も客のいないこの時間に訪れる将未の指定席のようになっていて、店員は今日も早足でグラスの水を運んできた。
「また髪伸びてきたね。次の休みにでもまた切ってあげるよ。今日は何にする?そうそう。今日から冷やしラーメン始めたよ。アンタ食べたことないしょ」
「…冷やしラーメン、」
お喋りで世話焼きの店員が指を指す方向に目をやると、そこには昨日までは無かった張り紙が貼られている。知らない料理を勧められることは最早珍しくはない。こくりと頷く将未に店員は嬉しげに頷いて背を向け、声を上げながら厨房へと戻って行った。
アンタは何を食べさせても残さないから良い子だね、と将未を褒めた店員の名はサチヨと言うらしい。幸な世界と書くのだと教えてくれたサチヨは、盛んに将未の世話を焼いてくれていた。
滄が始めに将未を紹介してくれた事が良かったのかもしれない。幸世は将未の境遇は何も聞かない。ただ、昼時の混み合う前に店に訪れる将未に「今日のオススメ」を紹介し、料理を運んできてくれる。夕方には、店にやって来る滄と将未二人分の食事の足しに、とその日の余り物を持ってきてくれることもある。
幸世には将未と同じ歳くらいの息子が二人いて、その二人ともが都会に出ていってしまったが彼らが小さい頃はこうして髪を切ったのは私だと言っていた。暑い日には熱中症に気を付けろと言い、寒い日には灯油の心配をする幸世は、将未を息子の代わりだと思って世話を焼いているのかもしれないと思うが、それは互いに口には出さない。
何より有難かったのは、身一つでふらりと街にやってきた将未についてあれやこれやと詮索したり噂話をしたがる輩を、少なくともこの食堂の中ではそれこそ母親が叱るようにぴしゃりと窘めてくれたことだった。
気の毒な身の上、とでも滄に聞かされているのかもしれない。そのような眼差しを受けることは幼少期から慣れてはいた上に将未は生来鈍感な質である。蔑みや哀れみの眼差しはほとんど気に留めたことがない。だが、慣れない街で慣れない一人暮らしを始めた将未を、幸世は程よい距離から案じてくれているようだった。
注文から十分も経たないうちに冷やしラーメンが運ばれてきた。大振りの、少し窪んだ皿の上に、黄色い麺が山に盛られ、更にその上に載せられた胡瓜やハム、紅しょうがの色合いが鮮やかだった。彩りに見蕩れる将未に幸世は腰に手を当て、自慢げに鼻を鳴らす。
「うちのは美味しいよ。ちょっと大盛りにしといたからね。タレと混ぜて食べるんだよ」
「…ありがとう、ございます」
アンタは細いからたくさん食べな、が幸世の口癖だった。今日も注文してはいないきんぴらが入った小鉢が添えられている。
明け方近くまでスナックの裏方として働き、そのまま店の上で眠りに就けるとはいえ、目が覚めるのは昼近くだ。元々不規則な食生活には慣れている将未はともすれば朝も昼も食べずに過ごす。ひょんなことからその事を知った幸世に叱られて以降は、朝食兼昼食はこの店を訪れる事がほとんどだった。
皿の上の麺と胡瓜とを軽く混ぜる。幸世の言う通り、全体に何かタレのようなものが掛けられているらしい。混ぜ合わせたものを箸で持ち上げ鼻を近付けると、少し酸っぱいような匂いと醤油の匂いが漂った。
口に運び、啜って咀嚼する。胡瓜の青臭さと、玉子味の麺、そして醤油をベースとしているらしいタレが混ざり合い、口の中に広がる美味さに将未は緩く目を瞬かせる。
「美味しいしょ、」
「はい。美味しい、です」
初めて注文したメニューを口にした時には、幸世は必ず将未の反応を確かめる。将未は基本的に何を食べても美味いとしか言わないが、それでも幸世は満足そうに微笑んでから厨房へと戻って行く。厨房の奥では、あまり顔を出さない幸世の亭主が忙しくなる前の時間を新聞を広げて過ごしていた。
幸世が壁に設置されたテレビの電源を入れる。昼食を求める客で混み合う時間帯の前のこの時間を店主と女将が堪能するのもまたいつもの事だった。合わせたチャンネルではローカルニュースを扱っている。落ち着いたアナウンサーの声が、ススキノ、と口にしたような気がして将未は反射的に顔を上げた。
ニュースは昨夜ススキノで起こった交通事故について伝えていた。今日は特に大きなニュースはなかったのだろう。事故自体はさほど大きなものではなかったらしく、その事が時間を埋める為のニュースであることを証明しているようだった。画面には、将未の見覚えのあるススキノの街角の風景がテロップと共に映し出されている。
将未がススキノを離れて半年近くが経っている。眺める風景は将未の知っているものと変わらない。あの街は──あそこに住む矢立やヒデはどうしているだろうかとぼんやりと思ったその次には、否応なしに龍俊の顔が浮かんだ。
あれ程同じ時間を過ごしたというのに、今は半年も顔を合わせていないことが嘘のようだと思う。そして、もう二度と会うことが出来ない事が、その理由が、未だに嘘のようだと感じられる。
一体いつになったら忘れられるのか。
龍俊の事を思うと未だに胸が軋む。奥底から熱くなり、どうしようも無い焦燥感や寂しさに襲われる。鞍瀬や、龍俊本人の口から自分は騙され、利用されていたのだと聞かされている。その事実は飲み込み、仕組みも理解した。だが、感情が追い付いていない。
あれ程自分の中に色濃く、鮮明に存在を刻みつけた人間は今まで会ったことがなかった。例えそれが将未にとって酷い結末であっても、幸せだと感じたその時間を忘れることは出来ない。あの夜龍俊と対峙し、口にした言葉に偽りはない。「幸せ」は衣食住が満ち足りていた故のことだけではないだろう。龍俊の傍にいることが、幸せで堪らなかった。
胸の中にあった渇望は再び頭を擡げている。龍俊がかき消してくれた飢えは、龍俊と離れたことでまた熱をぶり返したように将未の中に存在するようになった。そしてそれは、いくら幸世や、滄の元で親切にされた所で消えないことは経験が知っている。
自分はこの先ずっと、龍俊やススキノから離れた場所でこの渇望を抱えて生きていくしかないのだろう。痛みはそのうち消えるのだろうか。半年でダメなのであれば、一年、それとも数年かけて消え去るのだろうか。その時は、龍俊を思って焦がれることも無くなるのだろうか。
それは、自分の幸せなのだろうか。
考えた所で埒が明かないことはいつまでも将未の中でぐるぐると巡り続ける。物理的な距離が縮められない今、何を思い巡らせても意味が無いこともわかっている筈なのに。こぼれ落ちそうな溜め息を飲み下し、テレビの画面から目を逸らした。手を止めてしまった箸を動かし、今度は卵焼きと麺を頬張った刹那、店の引き戸ががらりと開いた。
「いらっしゃい。あら滄さん。今日は早いんでないの」
外で街を包み込んでいる夏の日差しとは裏腹な、普段にも増して鬱蒼とした趣で現れた滄は幸世に目だけの礼を寄越してからいつもの席へと向かう。反射的に顔を上げていた将未と目が合うも、表情は変えずに椅子を引いた。肩を並べて座る形になった滄に、将未は軽く頭を下げる。幸世の言う通り、昼食の時間が滄と重なることは珍しかった。
「…おはよう、ございます」
「…ああ、」
幸世が言うには将未が正午の最も食堂が混み合う時間を避けて訪れるのならば、滄はランチが終わり、夜のメニューに切り替わる頃の時間に店のドアを潜るらしい。そこで早い夕食を済ませ、そのまま道路を挟んだ自分の店に出勤し、スナックの開店の準備をしているようだった。
「あら。なしたのさ、ここ」
水を運んできた幸世がやや高い声を出した。不思議そうな眼差しで店員を見上げる滄を指さした幸世が、触れるか否かの距離で客の左頬を示す。ああ、と小さく呟いた滄が自分の頬を撫でるも、将未の位置からは幸世が示した箇所が見えない。
「…殴られた。…今の時期はどうしても調子が良くない。焼きそば、」
将未にも聞き取れる声だった。耳に入った単語に、聞かない方が良かったのでは無いだろうかと慌てて視線を逸らすも滄には気にする素振りはない。幸世は眉を下げて苦笑し、そういうこともあるさと独り言のように残して去っていった。
この店ではほとんど焼きそばしか注文しない滄が、午前中や昼間に自宅にいるわけではなくどこか別の場所に行っているのではないだろうかと感じたのは春先の頃だ。
将未がスナックの2階に住み着いてから当初は、滄は何かと心配しているのか将未の元へと顔を出し、居候——基住み込みの従業員の方からは口には出さない生活に必要なものを買い揃えてくれた。この半年のうちに将未の部屋には街の電気屋で滄が購入してきた電子レンジや小さな冷蔵庫等の家電が増えた。
その滄は、いつも昼過ぎに将未の部屋へとやってきた。この食堂を訪れる前だったのか、夕方近くになる事もあったが、滄は決して午前中には店に訪れない。将未は昼近くまで眠っている。滄も同様だと思っていたが、核心には触れず、断片的な世間話を口にする幸世の話を合わせると、ふとなにかの折に滄はどこかに通っているのではないかと思うようになった。
元々人を詮索する性格ではない。滄もまた自分のことはほとんど話さない。幸世が言うには滄もまた何年か前に1人この街にやって来て住み着き、勤め先として見つけた古いスナックの店主が店を閉めようとした際に譲り受けて今に至るという話で、将未が滄について知っているのはそれくらいだった。
それにしても、殴られたというのは穏やかでは無いだろう。詮索こそしないが、自分の雇い主を案ずる意識はある。眉を垂れ、何か物言いたげな将未が横目で見やる気配に滄が気が付いたらしい。
「……、」
目が合う。咄嗟に逸らし、ラーメンを啜る将未を滄はじっと観察したかと思うと、窓の外に視線を投じて自分の店を眺めている。白いシャツの肩を軽く上下させて鼻から息を抜いた。
「……海にでも、行くか」
「……」
「飯の後、」
滄は口数が少ない。唐突に零れた単語に将未は目を瞬かせたが、再び目を合わせるとどこか脱力したようにも見える滄の左頬に薄い痣がある様子が見えた。あまり物を言わない滄の提案は拒否する理由も見当たらない。訳がわからぬままに頷く将未の動作を確かめた滄もまた一つ顎を引き、水の入ったグラスを引き寄せる。会話は、それきり途絶えてしまった。
〇〇〇
臨時休業したところで困る人間はいない。言い訳のように呟いた滄が食事を終えるのを待ち、揃って食堂を出た。訪れた時と同様に道路を渡り、表から店に入った滄は本日臨時休業と記した古い紙を手に戻ってきた。店のドアの真ん中にセロハンテープを使って几帳面な手つきでその紙を貼り付けると、目で将未を促して歩き出す。裏口へと回ると、駐車してある四駆に手を掛けた。
滄が車を所有していることは知っていたが将未は乗ったことがない。──正確には、乗った記憶がない。滄が言うには将未が街に降り立った当日、駅で眠る将未をこの車まで担ぎ、店に連れてきたというから1度は乗車したことになるのだろう。促されるままに高い位置にある助手席に乗り込むと、程なくして古びたエンジン音と共に車が動き出した。
2人きりの車内で所在なく室内を見渡すと、ふと後部座席が取り外されていることに気がついた。元から備わっていないのか、それとも取り外されているのか、代わりに何かを固定するようなパイプのような金具が両脇にあり、そこに何か荷物を固定する為なのか太いベルトが伸びていて、そこにも金具が付いている。それが何をするものなのかはわからない。運転席の滄は真っ直ぐに前方を見てハンドルを握っている為に、尋ねることもはばかられた。
簡単に人の車に乗っちゃダメだよ。
不意に、以前龍俊に言われた言葉を思い出したのは、車に乗る行為自体が久方ぶりだったからだろう。あれはヒデの車に乗せて貰った時のことだ。結局、龍俊が口にした「ドライブ」にも行くことは無かった。あれもまた自分に仕掛けられた罠だったのか、それとも——。
車内には龍俊のものとは違う煙草の残り香がある。相変わらず、些細な記憶を拾うように龍俊の事が紐付けられる。こうして誰かと狭い空間にいてもなお、自分の中からさることの無い龍俊の影に胸が緩く締め付けられる。
意識を逸らすように視線をちらりと横に向けた。滄の左頬の痣は時間が経つにつれて濃いものとなっていくように見えて痛々しいが、表情自体は変わらない。殴られた、というからには将未の知らない場所に、滄に手を出すような人間がいるということだろう。
店主が唐突に店を休んで海に行こうと言い出したのには恐らく理由がある。その理由は将未の為ではなく、滄の為であるような気がした。
数十分程車に揺られていると、道路に人気はほとんど無くなってきた。平日の午後だ。小さな歓楽街を離れた場所に出ると人の影は徐々に薄くなる。 眺める景色の中に点在していた建物すら少なくなってきた頃、窓の外で視界が開け、遠くの地面が見えなくなった。
代わりに、青色が唐突な印象で現れた。見たことの無い風景に将未は思わず窓に張り付くように身を乗り出す。深い青と、淡い青の海と空が少しずつ近付いていく。
やがて、果てのない青色が間近に迫った頃に車が止まった。滄が運転席を降りる様子に従うように将未も車を降りる。コンクリートの上に足を着けると潮の匂いが強く鼻をついた。街を歩いていると時折鼻腔を擽る香りの正体はこれだったのかと将未は初めて知る。
「──」
滄が車を停めたのは漁港の、防波堤の縁に近い場所だった。目の前に広がる光景に将未は息を飲む。
雲が見当たらない夏の空の下、どこまでも広がる青色は見たことの無い青色をしている。空とくっきりと色を分けた海は濃い青や、青緑が混ざり合った複雑な色をしていて、小学校の頃に使った絵の具を満遍なく塗り広げたように見えた。見渡す限り、とはこのことを言うのだろう。青色は尽きることなく凪いでいて、遠くには水平線が見える。音は、防波堤に打ち付ける波の音と、どこかでカモメが鳴いている音しか聞こえない。少し離れた場所に小さな船か何隻か泊まっている。静かな夏の海だった。
「……綺麗、だ、」
高い位置から照り付ける太陽の光が反射して、水面はキラキラと輝いている。テレビの画面で見た事のある海の景色とは比べ物にならない。眩しさすら覚えるその光景に思わず呟くも、滄は何も言わずに胸ポケットから取り出した煙草を咥える。ライターを使う音の次に、将未の立つ場所にも煙が流れてきた。
煙に誘われるように滄を見やる。ぼんやりと煙草を吹かす滄の横顔は、どことなく寂しげな影がある。将未と同じく海を眺めているようではあったが、その眼差しはどこか遠くを見ているようにも思えた。
「…初めて、見た。綺麗なんだな。海は。…知らなかった」
視線を海へと戻したものの、今度は物言わぬ滄に届くように声を発する。滄は僅かに間を置いてから将未を見やる。微かに驚いた目と視線が重なったが、滄の目から先に逸れた。白筒を唇に寄せて深く息を吸い、空に向かって長く煙を吐き出した。
「……今日は天気が良いからな。日本海だ。冬は荒れる。……良かったな。見られて」
「…うん、」
驚きはするものの、それを揶揄することも笑うこともせずに呟く滄の声は、凪いだ海と風のように柔らかかった。痣が刻まれた頬がほんの微かに和らぐ。あまり表情を変えることの無い滄が笑ったように見えたことが、海を見たことと同じくらいに嬉しかった。
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