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運転席でハンドルを操りつつふと隣を見遣ると、将未がうとうとと船を漕いでいた。普段車に乗ることのない人間だ。振動に揺られて心地よくなったのかもしれない。無防備が過ぎるような寝顔を横目に静かな車内で1人鼻から息を抜き、運転席の窓を下げる。赤信号でハンドルから離した片手で喫煙具を探り、茶のフィルターを一本唇に寄せた。紫煙が立ち上がるのを待っていたように信号が青に変わり、再び人気のない道を走り出す。 将未を「保護」して半年が経つ。ある日突然掛かってきた矢立からの電話はほとんど将未の事を語らなかったが、顔を合わせ、時間を掛けて観察してみたところの将未の印象は当初思っていたよりも自分の身の回りのことが出来ていて、そして思っていたよりも世間を、というよりもあらゆる物事を知らない男だというものだった。 空のまま遊ばせていた店の2階にはほとんど物がなかった。暖房器具以外にはあらゆる家財道具を欠けていた事が逆に幸いしたのか、将未はそろりそろりと手探りで一人暮らしへと滑り出し、本人の気質なのかのんびりしたペースながらも順調にその術を身に付けているようだった。始めの頃こそ生来の——遠ざけていた世話焼きの血が疼いて頻繁に様子を見に行っていたが、最近ではその機会もほとんどない。そもそも店の上だ。面倒を見てやろうと思えばいつでも出来るが、将未から何か困り事や要求を訴えてきたことは記憶にはない。 将未があまりに物や金銭の類を要求して来ない事に不安になったのはむしろ滄の方で、あまりに不便だろうと電子レンジや簡易コンロ等の必要最低限の家財道具、それと当面の衣類は矢立から送られてきた金を使って街で調達した。商店街への買い物に伴った将未は終始困ったような顔をしていたが、あれは自分には分不相応だと思っていたのだろうということが今ならわかる。将未は、何かを人に要求する事を知らないのかもしれない。スナックの近くにあるコンビニも、やや離れた場所にあるコインランドリーもいつの間にか自分で通うようになっていた。始めに店の向かいの食堂にいる面倒見の良い女将に会わせたのも多少なりとも効果があったのだろうか。 将未が——札幌での深手を元に引きこもってしまうような人間であれば滄も手を焼いたかもしれないが、将未には将未なりの好奇心や経験や胆力のようなものが存在するらしい。何かしら困り事が起きた際にも誰にも言わずに黙って解決への道を探っている。それはこの男が今まで生きてきた中で身に付けた生きる術のようだった。 矢立は将未について「身寄りのない部屋住みが、神原にハメられて破門にせざるを得なくなった」とだけ説明した。せざるを得なくなった、という物言いが矢立らしいなと感じ、かつての上司の気性を思い返しては懐かしさすら覚えた。滄がその仔細を矢立にも将未本人にも尋ねていないのは、矢立が「神原」という名を口にしたからに過ぎない。雄誠会だけが絡む話であるのならともかく、神原の名前が出てくるということは百発百中で豪能組が絡んでいるだろう。豪能は手段を選ばない。破門にした矢立本人が将未を札幌から遠ざけたいというのはおかしな話ではあるが、矢立の性分を思うとなんら不思議ではなかった。 神原が絡んだ男を札幌の外へ逃がしたい。ただそれだけの事が、滄に了解と言わせた。 吐き出す煙が窓の外に流れていく。目を上げ、バックミラーの中に映る後部座席の代わりに設えた装置を見やった。 ——午前中の出来事を思い出し、深く息を吐き出す。日課の出先から戻ってもまだ気は晴れることは無く、空とは裏腹な曇った思いを抱えたまま店を開けることは出来ないような気がした。 海にでも行くかなどと口にしたのは、どこでも良いから気が紛れる場所に行ってしまいたかっただけだ。そこにたまたま将未がいた。一人でも構わなかったが、将未を誘った理由を滄は見つめたくはない。 本当に海に連れていってやりたい男は、将未ではない。 後部座席の装置は車椅子を乗せる為に使用されるものだ。この街に住み着いてすぐにこの中古車を購入し、矢立から送られてきた金を使って迷うことなく後部座席を払い、車椅子ごと人間を載せられるスペースを作り、機械を取り付けた。 この車に載せる筈だった男は、四角い窓からの海しか見たことがないだろう。否、彼は海は愚か、窓からの景色すら眺める意志を持っていない。虚のような、抜け殻のような男に会いに行く事への虚しさはない。だが——時折、無性に寂しくなる。 この街に自分と男が訪れてから3年が経つ。男が夏に不穏になるのは毎年のことだ。いつものように病室を訪れた滄が声をかけると、男はいつになく反応を見せた。虚ろだった眼差しが不意に力を持った事に驚き、声を重ねようとした所に飛びかかられてそのまま加減を知らない力で左頬を殴られた。 職員に取り押さえられた男の長く伸びた前髪の向こう、暗い目は確かに自分を見据えていた。物を言わない男は、呆然と立ち尽くす滄を睨み付けていた。 お前の所為だ。 全て、お前の所為だ——。 左頬を撫でる。それでも、何があっても滄の意思は変わることは無い。本当は、後部座席ではなく、この隣の助手席に彼を載せたかった。だがきっと、そんな願いは永劫に叶わない。自分の胸の寂しさや虚しさなど、彼の現在に比べれば些細なことだと滄は思っている。 伸びた灰を筒型の灰皿に落とし、まだ長いままの煙草を揉み消してぱちん、と音を立てて蓋を閉めた。隣で眠りこけていた将未の肩が揺れたかと思うと、青年ははっとしたように目を開けてきょろきょろと周囲を見回す。滄の横顔に視線が掠めたかと思うと、ようやくはっきりと覚醒したらしい将未は済まなそうに眉を垂れた。 「……寝てた…」 「…寝てても構わないが」 自分が運転しているのに寝るな等と了見の狭い事を言う性分ではない。悲しげに呟く将未に思わず目を瞬かせたが、気にするなと声音を和らげて呟きを返す。そんな訳にいかないとばかりに将未が姿勢を正し、指先で眉間を揉んでいる。野良のわりに躾が行き届いていて、義理堅い。滄は将未に抱いていた印象をもう1つ思い出す。 ようやく西陽が射しそうな時間に差し掛かっている。あのまま港にいたのなら素晴らしい夕陽が望めたかもしれない。今日はこのまま将未を店に送り届けて家に帰るつもりだった。海風に吹かれたことでほんの僅かではあるが気も晴れ、店を開けようと思えば開けることが出来たが一度休みと決めてしまうともうその気にはなれなかった。 凭れていた背を起こし、何やら真剣な顔をして前方を見つめている将未の横顔に久方ぶりに笑いが込み上げそうになる。身寄りがない境遇の上に、この街にやって来た経緯のわりにはどことなくぼんやりしている男だと思っていたが、他人に気を遣う事は出来るらしい。それでも時折目を瞬かせている様を見ると完全に眠気は飛んでいないようにも見えた。そうだ、と滄もまた前方を見やったまま口を開く。 「…七月の四週目の土曜は休みだから」 細かい日付は忘れてしまった。だが、今日のように急な休み以外は伝えておいた方が良いだろう。将未は少し驚いたようにゆるゆると目を瞬かせた後、滄の横顔に向かって顎を引く。 「わかった、」 「……夏祭りが、あるから。…その日は開けてもどうせ誰も来ない」 理由も聞かない聞き分けの良い従業員につい言い訳のように足してみたが、休業の理由は嘘ではない。七月四週目の土曜日は留萌市に昔から伝わる大規模な夏祭が開催され、滄がこの街を訪れ、店に勤めてから初めての夏もその翌年もスナックは休みだった。その日は滄の店だけではなく、向かいの食堂も、飲み屋街に並ぶ小さな店も皆揃って店を閉めてしまう。日頃スナックや居酒屋を溜まり場にして呑むような連中もそうでない市民も、その日はこぞって祭りの会場に集まり、二次会に流れるでもなく北の街の短い夏を満喫する為にそのまま朝まで飲み明かすのが慣習となっているようだった。 滄の言葉に将未は今度はぱち、と瞼を上下させた。眠気は飛んでしまったのか、それでもどこかピンと来ていないような横顔をしている。聞いた事のない日本語を聴いたと目が語っていた。 「…夏祭り…」 「……行ったことは、…あるか」 将未の視線が上向く。ある程度の予想はしていたが、将未の首は小さく左右に振られた。——どうせその日は何の予定も無いのだ。滄も狭い天井を見やった後、再び前方に視線を戻す。バックミラーに車椅子を搭載する為の器具が映っている。記憶が1つ掘り起こされる。 夏祭りが好きな男だった。 将未の住処は近くなっていた。夕方になるに伴い歩行者の増える広い通りを徐行しつつ、ミラー越しに将未の目を覗いた。 「…行くか。…夏祭り」 短い一言に、将未の目が微かに輝く。ほんの小さく滲ませた喜びと好奇心の気配に、まるで散歩に誘われた犬のようだと思ってはまた不意に込み上げそうになる笑いを堪えた。

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