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夏祭りの会場は店からそう遠くない駅前の広場だった。 7月も終わりに近付こうかという土曜の夕方、相変わらず極端に口数の少ない滄の後に着いて広場に足を踏み入れて眺めた光景に将未は早くも圧倒されてそのままぽかんと立ち尽くす。まず目に入ったのは広場の中心鎮座した見上げるほど大きな櫓だった。大太鼓が載せられた櫓のその周囲には先に催された子供盆踊りを終えたばかりの子供たちがまだ楽しげに集っている。色とりどりの浴衣を纏った小さな子供もいた。 櫓をぐるりと囲むように、それでいて隙間なく並ぶ屋台からは良い香りと煙や、威勢の良い呼び込みの声が流れ、潮の香りと共に会場中に充満していた。この街にこんなにも人がいたのかと思う程の群衆は、屋台を品定めしながらそぞろ歩く。熱気や人の声が行き交う広場の端には簡易の飲食スペースが設えられていて、夕方になったばかりであるにも関わらず既に酒を飲んでいると思しき人達の声が柔らかい風に乗って将未の耳にも届いてきた。 ススキノの夜を彷彿とさせる雑踏と、それとは正反対にあるような田舎の祭りの風景に将未の唇がすごい、と動く。それを横目で見つつ、滄もまた周囲を見渡す。時折、背の高い滄をスナックの客が発見し、短い挨拶を交わしてまたどこかへと消えていく。屋台から漂うソースの香りに鼻腔をつかれて思い出したようにポケットから財布を取り出し、千円札を3枚程取り出して将未へと手渡そうと顔を見下ろした。 「…これで…好きな物を買って食うといい。…せっかくだから」 口にすると完全に将未の保護者のような心地になるも、初めての祭りとはそういうものだろう。これも1つの経験だ。滄の言葉に将未は驚いたように小さく目を見開いて札を受け取ろうとするも、少し傾けた体にとん、と誰かがぶつかった。振り返ると、人波に押されて将未にぶつかったと思しき青年が済まなそうに眉を下げた苦笑を浮かべて小さな詫びを入れつつ去っていく。将未は再び滄の手元を見やった後、軽く首を振って見せた。 「……はぐれたら、…困る気がする」 「……」 ぽつりと落ちた言葉に最もだと滄もまた周囲を見回す。滄はともかく、将未は携帯電話を持たない。その事を知った滄は冬が明ける頃に1度、買っても良いが、と伺ったが将未はそれを断った。 「…もしはぐれたら…店に…」 「…滄も、」 店は遠くはない。経験が少ないとはいえ将未も子供ではない。よく知った職場を集合場所にすれば良いと差し出そうとした案は途中で将未の声によって制された。珍しく人の言葉を遮った将未は真っ直ぐに滄を見上げ、眉を垂れて口を開く。 「滄も行こう。…せっかくだから、」 自分1人では心許ない。将未呟くように口にしたのはそれだけが理由ではないような気がして、滄は僅かに躊躇した後にやはり保護者のような心境で浅く頷く。半歩後ろに下がる将未の気配を覚えつつ、手元の札をジーパンのポケットに捩じ込んだ。 スナックという種の店を切り盛りしているにも関わらず滄は酒を呑まない。店を訪れる客は常連がほとんどである為か、カウンターの向こうに立つ店主に勧めることもしない。今も、将未にビールでも呑むかと尋ねた本人は屋台に並べられた赤い缶の炭酸飲料を選んでいた。 将未が目を惹かれて足を止めた屋台はたこ焼き屋だった。うちのタコはそこらのタコとは違うと胸を張る地元の漁師が店を出している。専用の鉄板の上に整然と並ぶ球体を、ピックを使ってくるくると手際良く焼き上げる様子を真剣に見下ろす将未を横目に、滄は焼きたてのたこ焼きを1パックと、炭酸飲料、それと将未が選んだオレンジの缶ジュースを購入した。 将未に缶を持たせ、パックを携えて飲食スペースへと向かうも、既に賑わっているそこに空きスペースは見当たらない。既に食べ物を手にしてしまっている滄は辺りを見渡し、喧騒とはやや離れた場所、駅前の広場の隅に常時設置されているベンチへと歩む。 屋台が並ぶ喧騒をすり抜け、辿り着いた硬いベンチに腰を降ろす。離れた場所から眺める祭りの会場は、日がほとんど暮れかけた淡い色の空の下、広場を囲む祭りの提灯の灯りが祭りの雰囲気を濃いものにしている。将未と滄が肩を並べるベンチの周辺はそこだけ切り取られたように静かな空間で、ともすれば夢や幻のような世界と自分達とは見えない何かに隔てられているようにも感じた。 「ほら、」 互いの間にたこ焼きのパックを置き、滄が爪楊枝を差し出す。手にしていた缶と引き換えに楊枝を受け取った将未は遠慮がちながらも、湯気の上がるたこ焼きを一つ摘み上げて口に運ぶ。 「美味いか」 一口で頬張った将未の口の中で熱い生地がとろりと溶ける。火傷をするのではないだろうかと思う程の熱にきゅっと瞼を閉じる将未は滄の問いに答えられない。それでもはふはふと息を逃しながら深く頷くと、横目でそれを確かめた滄が浅く鼻から息を抜いて肩を上下させた。手にした缶を開けて口の中を冷やす将未は相変わらず少し驚いたような目をしてたが、やがて嬉しげに双眸を細めた。 「…滄も、」 缶を手にぼんやりと祭りの喧騒を眺める滄に気付いた将未が、口の中のものを飲み込んでから目を上げる。たこ焼きのパックを軽く押して示す指と、自分ばかりが食べていてはいけないと訴える目に逆らう理由が無く、滄は指でたこ焼きを摘んで口に放り込む。屋台の男が語っていただけの事はある、大きなタコが口の中で顔を出した。 滄と同じように缶を片手に将未は惚けたように夏祭りの光景を眺めている。初めて目にする喧騒や雑踏、知らない香りや灯りの色が全て新鮮なものに映る。大勢の人間が行き交う様はススキノでも目にしてきた。だが、目の前の光景はススキノのそれとは色や空気が違う。物心ついた時から——札幌を去る時もまた、大都会で生きていながらも「何も無い」と感じ続けていた自分の中に、札幌やススキノとは違う場所での経験や体験が少しずつ蓄積される感覚は心地よかった。 空が随分暗くなってきた。遠くからの仄かな灯りを頼りに手元を動かしている自分に気が付き、何気なく視線を映したその時だった。どん、と一つ響いた地響きのような音に将未は肩を跳ね上げる。聞き慣れないそれに何事かと辺りを見回した将未の正面、駅の向こうに広がる空に、ぱっと白い火花が花開いた。 「ーー…」 濃くなりかけた紺色の空に、綺麗な正円の形をした幾つもの点が瞬いては消えていく。腹の底から響くような音と、遅れて聴こえるバチバチという音に、花火だ、と気付いた側からまた低く、大きく音が鳴り、空に光の粒が舞い上がる。思わず滄のシャツを引いていた。 「滄、」 「……ああ…」 「滄。花火だ」 祭りの花火はこの街の慣習なのか、滄も祭りの会場にいる人々も将未のように驚いている様子はない。将未だけは、テレビの画面の中にあるものでしかなかった花火にぽかんと口を開けて見蕩れている。 幼少期から少年期の記憶は薄い。札幌にも夏祭りや花火大会というものはあったと聞いているが、十五になった後は、祭りの夜も花火の夏も身近にあれど遠いものとするススキノの陰の風俗店の中で夜を過ごしていた。音くらいは聞いた事があるのかもしれない。だが、将未には夏の風物詩に心を留める余裕も、気を払う時間も存在しなかった。その経験が欠けていると教えてくれる人間と巡り会うことも無かった。知らないことが、当たり前だった。 初めて見る花火は次々と夜空に開き、儚く消えていく。花が咲く瞬間に周囲で上がる明るい歓声も、遠くから風に乗って届く火薬の匂いや煙も、何も知らない将未にこれが花火なのだと教えてくれているように感じる。盛大な花火大会は終わらない。将未は滄のシャツを指先で摘んだまま、惚けたように夜空を見上げている。 ふと、滄はどうだろうかと目を向けた。自分の中にまた1つ経験を積み上げてくれた滄もまた、自分と同じように花火を見上げているだろうか。夜空から視線を移して見上げた滄の横顔が花火の明かりに照らされて浮かび上がる。そこに露わになった表情に、将未は大きく瞠目した。 「ーー…」 滄は花火を見上げていた。だが、その目尻には明らかに水の粒が溜まっている。軽い瞬きに、その雫が頬を伝う。頬が濡れた感触に、滄はようやく我に返ったようにはっと目を見開き、慌てて目元を擦った。 「…滄、」 将未の手がシャツから離れる。二人の間にある食べかけのたこ焼きのパックをそっと、ほんの数センチだけ避け、滄の手を探った。 理由はわからない。滄が何を思っているのかもわからない。だが、何故かこうしなければいけないと思った。ベンチの上をさ迷った後に触れた滄の指先を、遠慮がちにそっと握り締めた。 「ーー…」 滄の手が、驚き離れようとする。だがその後すぐに微かな逡巡の間を置き、将未の指が握り返された。 痛みを感じる程に将未の指を握り返した滄は再び空を見上げる。閃光のように散っていく火花を見つめる目は今にも涙が滲んでしまいそうであったが、滄はそれを堪えるようにきつく眉根を寄せ、固く唇を結んでいる。 花火を見上げていた滄が泣いた理由はわからない。 轟音のような打ち上げ花火の音は響き続ける。未だ濡れて光る滄の瞳に映る花火を見て、将未はその時初めて、滄のことをほとんど知らないのだという事に気が付いた。

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