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暗い底の中、何度も同じ景色を見る。 気が付いた時には目の前で、母が血に染まった刃物を手に立ち尽くしていた。周囲ごと闇に包まれた中ではその表情は垣間見ることが出来ないが、母の美しい瞳がはっきりと自分を見据えている事だけは判る。 逃げなければ。噎せ返るような血の臭いの中、刃物の存在に本能的に背筋を震わせ、踵を返そうとするが何故か足元がぬるぬるとしていて覚束無い。血溜まりだ、と脳の隅で察したものの、状況を知るだけでは何も改善しない。自分はいつまで経っても上手く走り出すことが出来ない。 龍俊さん。 流れる汗を更に冷やすように、ひやりと背を撫でるような声で名を呼ばれ、鳥肌が立つ。逃げなければ。あの刃物から、母から、この血溜まりから。自分は早く、この家から逃げなければ——。 動き出そうとする龍俊の衣服の襟元に母親が指を伸ばそうとする。皺のない、洗いざらしのシャツの白い襟に母の綺麗な、血に濡れた指が触れるか否かの刹那、急速に景色が反転し、龍俊は——目を覚ました。 「…ッ…!」 飛び起きたのは無闇に広いベッドの上で、龍俊は掛けていた布団を握り締めて荒く息を吐き出す。夢の中と同じ様に暗い部屋の中、自分の呼吸の音だけが部屋に響き、気持ちの悪い汗が裸の背を伝っていく感覚がある。瞠目する瞳は自分の拳の上を注視している。 酷い夢を見た、と咄嗟に思う傍らで、寝起きの頭は完全に覚醒していない。空いていた左手が、無意識にシーツの上を探った。 「将未、」 ひとつの名を口走り、自分の声に龍俊はようやくはっきりと覚醒する。隣には、昨夜ススキノの路地裏で適当に引っ掛け、一晩中身体を交わらせていた年若い青年が明るい茶色の髪を上下させながら寝息を立てているだけだった。 似ても似つかない——。 伸ばしかけた指を引く。同時に目を逸らし、深々とを吐き出した。数時間前に見た青年の細い四肢と、甘えるような嬌声、愛らしいと表現する事が相応しい大きな瞳を潤ませて自分を見つめ、腰を振って行為を強請る様を思い出しては奥歯を噛む。 将未が家を出ていってから半年、龍俊は似たような男ばかりを引っ掛けては欲を発散していた。甘える眼差しも柔らかく淡い色の髪も、全身で自分にもたれ掛かるように甘える様は、いずれも将未の影も空気も喚起させることのない男ばかりだ。それは——自覚のない反転だった。 街を歩いていても、気が付くと将未に似た男を目で追っている。顔立ちや背丈、酷い時には雰囲気が似ているというだけで龍俊の視線は知らずそちらへと引き寄せられる。 その事を自覚したのはいつの事だったか。ススキノの街角に立つ男に将未を彷彿とさせる男を見つけては歩み寄ろうとした自分に気が付いた時にはその場に呆然と立ち尽くした。将未が部屋を出ていってからもう半年も経っているというのに、などということは龍俊には関係がない。以前ならば、利用して棄てた男などほとんど日が経たないうちに忘れていた。記憶の中に留めることすらしなかった。だが現在の龍俊は、時折安樂から渡される仕事も以前ほど身に入らず、適当に処理してはまた無為に街を彷徨い、見知らぬ男のおざなりなセックスを重ねる日々を過ごしている。 どうしていつまでも将未を忘れられないのか。 悪夢で目を醒ますことはそれ程少ないことでは無い。だがその頻度は次第に増えていて、その上自分は目を覚ました後に咄嗟に隣で眠っている筈の将未を探している。 ——いつかの夜、悪夢に魘され飛び起きた自分を将未は両腕で抱き締めた。あの夜の記憶だけを何度も掘り起こし、やがて今度はその記憶を胸に抱き締めるようにして体を丸めて眠りへの道を探っている。 こんなことは、全く自分らしくないだろう。 将未の純粋な目を思い出す。最後に告げられた言葉も、背も、未だ鮮明に龍俊の中に在り続けている。静かな将未の声が、胸の奥どころか、中心に留まり根を張り、蝕んでいる。 こんなものは自分じゃない。 後悔を抱えるなど、ただの時間と精神の浪費にしか過ぎないとすら思っている。 そんな風に思えば思う程に、こうして悪夢を見た夜に将未に抱き締められた腕を思い出してはどうしようもなく胸が苦しくなる。近頃は、呼吸が浅くなるような感覚さえ宿り始めている。 その場では気が付くことのなかった怪我が、後に重大な後遺症を残すような感覚だ、と過ぎっては、また苛立たしさに首を振った。 「…くそ、」 こんなものは自分じゃない。小さく呟き、ベッドから降りる。怠惰な動作で散らばった衣服を拾い集め、帰り支度を始めた。適当な男と寝る時はいつも適当なホテルにしけこんでいる。将未に貸していたあのマンションには、あれから誰も招いていない。

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