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最北に近いこの街の夏は、祭りが終わるのを待っていたように足早に過ぎていこうとする。留萌はまだ8月であるというのに涼しい日々が続いていた。将未は肌を露出することを好まないのか、長袖のシャツの袖を肘の下まで捲りあげている事が常だ。その、幾分か薄手のシャツを纏う背が、店の壁に貼ってあったポスターを見上げている。そっと触れ、慎重な手付きで剥がす将未の背を眺めていた滄は再び手元のグラスを磨き始めた。 夏祭りのポスターは毎年、街の商工会が店舗に貼ってくれと持ってくるもので、祭りを終えた後は用済みだ。店を開ける前までに剥がしておいてくれと将未に頼んだものの、どうせ丸めて捨てるのだから適当で構わないと言い足すことを失念した。煙草の煙のヤニで黄ばんだ壁にセロハンテープで貼り付けたポスターの角を破いてしまわぬように丁寧に紙を剥がす将未は恐らく真剣な目をしているのだろう。 広瀬将未はよく働く男だった。 雄誠会の部屋住であったということはしばらくの間は下働きであったことは確かだろう。空気や、他人の感情の機微を読む事は得意では無さそうだったが、あまりバックヤードから出て来ない将未には関係がないように思っている。そもそも滄自身が愛想を振りまく事が得意な性格ではない。およそ接客業に向いているとは思えない店主が経営するこのスナックがやって行けている理由は、この街にこの形態の店が少ないから、というものだけである。 将未には、将未が雄誠会に入る前の境遇は尋ねていない。何故雄誠会という日の当たらない世界に身を投じたのだという旨は1度だけ聞いたことがある。困ったように視線をうろつかせた後に呟かれた、矢立に拾われた、という短い返答に妙に色々なものが腑に落ちた。この男が札幌の片隅のどこかで途方に暮れている様も、それに声を掛けた若頭の姿も、想像することは難しくはなかった。将未の事はほとんど知らなくとも、矢立とはそういう人間であることを滄は知っている。 将未は恐らく雄誠会に入る前も下働きのような事をしていたと推測される。勘は鈍いが動きは悪くはない。その場の雰囲気を察したり読んだりする事が全く出来ないというわけでもないらしい。——やはりそもそも、滄の方も空気を読め等と口にする程人を使うことに慣れている訳では無い。自分の方こそこの店に雇われ、その雇い主が隠居した後に譲って貰ったこの店を1人で切り盛りしてきたのだ。雄誠会に所属していた頃も部屋住みに毛が生えたような立場だった。誰かの上にた立ち、誰かを使うことをしてきた訳では無い。 時間を掛けて剥がされようとするポスターに目を向けると、丁度花火の写真の上に将未の手の甲が乗っている。その様が、あたかも将未が手の中に小さな花火を包み込んでいるようだと思った。 祭りの夜からずっと、滄は花火を見上げて泣いた理由を探しては、見付けたそれから目を逸らす振りをしている。 花火など毎年音だけは聴いている。ましてや将未のように初めて見たわけなどない。——花火は、見た。 ある年の夏、祭りが好きな男に誘われて人混みを掻き分けた河川敷、芝生に直接腰を降ろし、肩を並べて花火を見上げた。あれはあの男と過ごした何度目の夏だったか。 自分の隣、人混みに押されて寄り添うようにしながらあの男は確かに言った。滄、花火だ、と。 横目で将未を見遣る。記憶の中のあの男と似た所はほとんど無い。ひょろりと高い背も、シャツの中に隠された細身も、やや長めに整えられた黒髪も、纏う空気も、静かで——純粋な、眼差しも。 それでも、将未の呟いた一言が何かの引き金を引いたように落涙を呼んだ。声も、呟いたトーンも似ていない筈なのに。 似ていないと感じたから、引き受ける事の決め手となっていたのに。 眉間を揉む。今更感傷に浸る性質でもない。日々に流され、感傷に浸る余裕も知らない。ポスターを剥がし終えた将未が手にした大判の紙を丸めながら足早にバックヤードに歩いていく。開店まであと数分だ。ポスターをどこかに据えてきたらしい将未は今度は何も手にせず戻ってくる。 「開けます、」 「ああ」 いつの頃からか習慣になった短いやりとりを経て、将未はいつものようにドアの前のスタンド型の看板を押しながら外に出ていった。前の経営者の代から使っている、角型の、ライトが仕込まれたレトロな物だ。少し猫背気味の将未の背をぼんやりと眺めつつ、滄はくしゃりと前髪をかきあげる。 夏祭りの夜、帰り道を共に歩く将未は何も聞かなかった。 自分でも理由のわからない涙を見せた気恥しさに、いつも以上に黙り込んだ滄から半歩下がって黙々と歩く姿が有難いと感じた。 将未が大きく感情を揺らす様はまだ目にしていない。先日の気まぐれな海行きや夏祭りの際に見せた表情はこの半年の間に時折見せていた。大人しげな表情に僅かながら光が射すような、少し目を瞬かせ、初めての経験を享受する表情だ。それ以外の感情を将未はあまり見せない。それは果たして意識して隠しているものなのか、生まれ持っての性質なのか、それとも——生きていくうちに、身に染み付いてしまった性なのか。 いつも何処か遠い目をしているのは、まだ将未の中に神原が住み着いてるからだろう。初めて会話を交わした日、滄は「何かをしていた方が忘れられる」と口にした。あれは無意識に口にしたものであったが、後に自分の言ったことを振り返って密かに苦笑した。どの口が、と。 看板を出しに出た将未が、すっかり夏の色に染まった風と共に店へと戻ってきたが、滄は別の気配を感じて軽く目を上げる。二つ重なる足音に、気の早い客が開店を待っていたのだろうかと思うも、困ったように眉を垂れた将未の後ろからやって来たのは客ではない。ポロシャツ姿の五十代半ばの痩身の男が、カウンターの奥に立つ滄に向かって親しげに手を掲げた。 「やあ」 「…どうも。お世話になっています」 街の商工会の役員をしている男だった。人は悪くは無いが、ややお節介が過ぎるところがある男だ。その役職と人格故の事なのか、この男は、少なくとも商工会に加入している店舗のオーナーに関して知らないことは無いと聞くが、それを鬱陶しいと思う人間も存在するという。しかしながら、田舎の商工会の類には付き物であるとされる、逆らっても良いことは無い、とされている人間だった。生来のものなのか、愛想の良さを全面に出した男は片手には何か用紙を持っている。真っ直ぐにカウンターへと足を向け、手にした用紙をファイルごと滄へと向けた。 「滄さんこれね、この間の祭りの時の決算。滄さんとこは出店は出してないけど協力金出したりしてくれたから今年も一応、」 いかにも業務連絡といった風情でカウンターに滑らせる用紙に目を落とし、滄は浅く頷く。そう言えば昨年もこんな事があったかと思い返しつつ、わざわざどうも、と短い礼と共に用紙を引き取った。 「それじゃあね。来年はなんか出店出してよ」 早くも用が済んだ男が踵を返すも、すぐにはドアには向かわずカウンターの手前に置かれたソファーの前、ローテーブルを拭く将未へと歩み寄る。滄から表情は伺えないが、その挙動に無意識に滄の眉根が寄った。 「しっかし兄ちゃん、こうして見ると本当に細いな」」 距離を詰める男に振り返りかけた将未へと半ば呆れたように声を掛けながらも、男はさっき滄に向けて掲げた掌を軽く持ち上げた。その動作に過ぎる嫌な予感に滄が足を踏み出すより先、男の手が将未の小ぶりな双丘をつるりと撫で上げた。 「…っ…、」 「ちょっと、」 無遠慮な手付きで身体を触られた事で将未が身を固くする。同時に、滄が大股でカウンターから出てくる。珍しく足音を立てる滄の様子に男は悪びれもせずに眉を寄せ、すぐに乾いた笑いを漏らした。何もおかしなことは無い。ますます深く眉間に皺を刻んだ滄が、将未と男の間に立つ。 「…やめて、貰えますか」 「別に減るもんじゃねえんだ。…女みてえな腰とケツしやがって。やっぱりアンタ、滄さんの新しいオンナか」 なおもしつこく、将未の薄いシャツ越しに男の手が触れる。腰骨を辿るように撫でられ、将未は困惑して息を詰める他ない。 将未は言わば矢立からの預かりものだ。下卑た笑いを浮かべる男に無闇に触らせて良い人間ではない。 滄の顔色が、途中から冷えたものに変わった。将未と男の間に半ば体をねじ込むようにしつつも瞠目する滄に対する男の態度や口調はぞんざいな物になる。ちらりと将未を見遣り、鼻を鳴らした。 「俺は心配してんだぜ。滄さん。アンタもいつまでも気狂いの世話焼いてても仕方ねえだろ」 「——…、」 今度は滄が絶句する番だった。男が口にする言葉の意味はわからない将未が目を瞬かせ、男と滄の顔を見比べる。滄は、その場に立ち尽くす形になった。 「もう何年になる。アンタが独り身でいるワケは男が好きだからなんだろ。それはそれで仕方ねえ。この田舎でちょっとばかりやりにくくなるのはアンタだからな。…けどな、カレシだかなんだか知らねえが、この先も病院から出られる見込みどころか正気に戻る気配もねえ野郎の面倒見てて、アンタはどうなる。一生独りで病院通い続けんのかって、他の皆だって心配してんだ」 滄は言葉を失っている。だが、男はそれでも口を挟む余地を与えまいとするかに一息に言い切った。 「他の皆」も、「心配」も、滄にとっては全て遠い事に感じる。真実味など欠片も見いだせない。小さな街だ。そこに数年前、突如現れ住み着いた自分のような男に関する噂など、尾ひれを付けてすぐに広がる。ここに来て3年が経つ。その間ずっと、雨の日も雪の日も、滄があの病院に通っていることを知らない人間などいないのではないだろうかと思う程に話は流布しているのだろう。隠すことではない。だが、声高に、まして人の口の間に昇るべき話でもない。これは自分1人だけの話では無いのだ。もっと言うのなら——滄自身の、問題ではない。 「なあ、滄さん。アンタずっと一人でいる気か」 最後に発した男の声はどこか同情するような色を含むようになっていた。滄は一度目を逸らし、両手で拳を作る。言葉を、探した。 「——自分で、」 掠れた声が漏れる。将未が顔を上げ、視線を送る気配があった。誰とも目を合わせず、呟いた。 「俺が、自分で選んだことですから」

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