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滄は、通常通りに店を開けた。 幸いというべきか、今日の客は長居をしない二、三人程度しかやって来なかった。だが、忙しい方が良いこともあるのだろうと将未は思っている。いつもの通りにカウンターに立つ滄はどこかもの思いに耽っているようにも見える。 将未は相変わらず自分からは何も聞かない。忠実に、いつもの仕事をするだけだ。だがそれでも、頭の片隅では開店前にやってきたあの男が滄に向けて言っていたことを考えている。気狂い、病院、面倒、——ずっと、一人。 カウンターの前で呑んでいた最後の客が引き上げた。グラスを下げに将未がバックヤードから出てくる。滄は少し目を上げてちらりとドアを見遣ると、どこか観念したような深い溜め息を吐き出した。 「…看板、下げるか」 「…はい、」 時刻はまだ閉店には遠い。だが将未は頷いて外の看板を下げに行く。ライトを消し、何気なく顔を上げた。晴れた夜空に、ススキノではおよそ見ることの出来ない数の星がちらちらと瞬いている。 店内に戻ると、滄はカウンターから出て古いソファーに腰を下ろしていた。傍らに客が使用してそのままになっている灰皿を置き、背を丸め、手の中にあるライターを弄んでいる。ぼんやりとした眼差しのままひしゃげた小箱を揺らし、煙草を一本抜いて火をつけた。 「——雄誠会にいた頃、」 ドアに内側から鍵を掛け、ソファーへと距離を詰める将未の姿に僅かに視線を寄越し、ぽつ、と滄が口を開く。将未に向けて聞かせているようで、どこか違う誰かに言っているようにも聞こえる。将未はそっと歩み寄り、少し逡巡してから滄の隣のソファーに腰を下ろした。 「いつもつるんでいる男がいた。…甲野という、たまたま同時期に組に入った男で、同じ時期に支部で部屋住みをしていた」 甲野は自分より一回りは年下で、ススキノの水商売のアルバイトをしていた縁からの成り行きで構成員となった滄とは違い、若さと性分が由来した危なかしさと野心とを手荷物に自ら進んで雄誠会に入ってきたという。 髪を鮮やかな金色に染め上げた甲野は小柄で、祭りと喧嘩が好きで、喧嘩もカチコミも祭りと同じだと嘯きどんなに荒れた場面でも喜んで出ていくような男だった。その一方で祭り好きの血も騒ぐのだと笑う甲野は滄を誘い、共にいた数年の間は毎年夏祭りや花火大会に揃って顔を出していた。 甲野がまだ若く無鉄砲で、何かと言えば危険な橋を渡りたがる性分であることは、矢立の他幹部たちは当然のように見抜いていた。偶然時期が重なっただけの縁ではあるが、常に冷静で激高することもない本城滄を添わせておくことによって、甲野は危険な局面からは回避出来るだろうという目論見だったことは滄自身は感じていた。だから、滄もまた誰に命じられた訳でもなく、自らの意思で甲野を守るように常に後ろに着き、行動を共にすることを選んでいた。 「…本当に、いつも一緒にいた。…それなのに、…気付くのが、遅かった」 将未は滄の話にじっと耳を傾けている。身動ぎもしない将未に気付いてはいるものの、初めて誰かに告白するという行為を途中で止めることは出来ない。独白のようなものだと思った。 「……神原は、」 ようやく、将未の肩が小さく揺れた。視界の端で、顔を強ばらせている様が滄に伝わる。滄は目を伏せ、音を立てて煙草の煙を吐き出す。足元に淀みが溜まり、消えていく。 「神原は、俺たちより後に雄誠会に入ってきた。ホスト上がりだと言っていたが、今となってはそれが本当かどうかはわからない。男前だった上に、入ってきた時から羽振りも気前も良く見えたから、異質と言えば異質だと思った。——だから、甲野が惚れたんだろうと、思った」 神原——当時は別の名を名乗っていた男はとにかく華やかな印象があった。身につけているものも、容姿も煌びやかで華やかななその様子は、ヤクザ組織に所属する人間としては異質な物に映った。だが、だからこそ好奇心が旺盛だった甲野は神原に興味を持ち、年季だけで言えば舎弟にあたる神原を連れ回して歩くことが多くなった。甲野が神原の潤沢なシノギの分け前を貰っていたという、歪な関係が築かれていたことも滄は知っている。 自分達と同じ部屋住みという扱いではあったが、若頭である矢立が自宅や事務所に部屋住みを置いて奉仕させることを嫌ったこともあり、神原もまた外から通っていた。嫌な予感を覚えたのは、神原が住んでいるというマンションが豪奢であることをまるで自分の事のように語る甲野の姿を目にした時だ。神原が誘ったのか、甲野が望んだのかは今となってはわからない。だがそれを知った時には、甲野は自分の知らないうちに神原の住処に上がることを許された男になったのだと感じた。 「…気が付いた時には、甲野は神原と付き合っていた。甲野の様子を見ていた限りでは、終盤は半同棲していたようなものだった。…だから、」 だから。そう続けた先には言い訳しか生まれない。滄は飲み下し、眉を寄せる。指に挟んだ煙草が短くなっている。灰皿を引き寄せて揉み消し、空になった両手を膝の上で組んだ。 「……神原は、豪能からシャブを預けられていた」 「——…」 将未が今度こそ瞠目する。 普段大きく表情を変えることの無いこの男が留萌に流れてきた理由は詳しくは聞いていない。だが矢立は確かに自分への電話の中で神原の名を口にした。将未の件にも神原が絡んでいる。だから、話さなかった。話す必要はないと思っていた。話すことは、酷だと思っていた。——神原は、この男一人騙して利用することなど、容易に出来る筈だろう——。 「神原が豪能に絡んでいたことは後から知ったことだ。薬物を禁止している雄誠会に入り込んで、シャブを使って内部を掻き回したり警察に踏み込ませることで組を弱体化させることだけが目的だったのだろう」 それは全て、事が済んだ後に矢立に聞かされたものだ。結末のみしか見えていなかった滄にとっては、何ら意味のない事だった。 「神原に惚れ込んでいた甲野はあっさり絆されて、神原から持たされたシャブを言われるがままに組の中でこっそり流通させた」 装飾品や衣服に興味のない甲野が、妙に高価なものを身に付けている様を見るようになった。当時は周囲も滄も、大方神原のシノギの分け前があるからだろうという見解だったが、恐らくそこが境目だった。御法度とされている薬物が組の中で出回っていることに幹部が気が付かないはずはない。甲野は呆気なく問い詰められ、覚醒剤の出処を吐いたが、その時はもう既に時は遅かった。 「…流通させているだけなら、まだ良かったんだ」 いつも自分は甲野の後ろにいた。あの細くて華奢な背を見守り、放っておいてしまえば何処か飛んで行って戻らなくなりそうなあの男を守らなければと思っていた。甲野が神原に惚れた後にも感じていたその思いは、それでも神原の懐に甲野が収められた時からいつしか叶わなくなっていた。 邪魔をするまいと思っていたのだ。 自分の思いを押し殺してでも、甲野が満たされているのならそれで良いと思っていた。それが、正しいと思っていた。 ——全て、気が付くのが、遅かったのだ。 「甲野は自らもシャブを常用していた」 「……」 無意識に指に力が篭もる。ぎゅ、と音を立てるように、掌を合わせた。 「神原に打たれたのか、自分から手を出したのかはわからない。ただ全てが明るみになった時にはもう甲野は立派な薬物中毒患者になっていた」 ——神原が将未に対しても同じ手を使ったのなら、将未は運が良い方だろう。少なくとも、こうして正気を保っている。身体的には何処も、何も奪われることなく正気で、自分の足で立っている。将未の脳裏に、龍俊から手渡された錠剤が思い出されていることは滄は知らない。 「甲野と神原は揃って破門になった。」 薬物に侵された甲野と、神原には適正な処分がくだされた。指を詰めた後に組を追い出された神原の行方は知れない。滄自身はそれどころではなかった。 薬物が無ければ生きていくことの出来ない——廃人のようになった甲野を、それでも雄誠会に置いたままには出来ないと言ったのは本部詰めの鞍瀬だ。状況を把握し、規律は規律だと主張する鞍瀬に対し、頭を悩ませたのは矢立だった。雄誠会には置けない、だがススキノに放り出してしまえば、即座に豪能に囲い込まれて薬物の摂取を重ねながら利用され続けるか、もしくは口封じに殺される。警察に引き渡したのなら薬物は抜いてもらえるかもしれないが、出所した後にはどこにも行き場は無い——。 「…甲野は今、留萌の精神科に入院している」 慄然として佇む将未を視界の隅に置いたままの独白は続く。タバコの箱に指が伸びたが、逡巡してすぐに止めた。店内には空調の音が低く響いている。 「ボスが探し出してきた。設備の整った大病院だが…施設云々の話しではなく、札幌から逃げ出せること、薬物の治療が出来ることが条件だったんだろう。……1つは、手遅れだったが」 組の人間によって留萌に移送される頃には、甲野は完全に廃人となっていた。目は虚ろで、声は言葉にはならない。自分が置かれた状況を理解しているのかもわからない男は今、車椅子に乗って街の大きな精神科に住んでいる。 澱んだ、暗い目をした甲野はもう滄のことすら認識していない。それでも時折気が狂れる時には、自分を責めるような眼差しを剥き出しにして殴り掛かってくる。——それは、甲野の全ては、自分が甘んじて受け入れるものであると滄は思っている。 「…ボスに、頼んだんだ」 「……」 「…甲野の世話をするために、留萌に行かなければならないと思った。…全部、俺のせいだから」 真夏の陽射しや、夏祭りの夜が何よりも似合う男だった。快活に笑う強気な目が堪らなく好きだった。その男がたった一人きりで、知らない街に連れて行かれ、病院に閉じ込められることになる甲野が不憫でならなかった。不憫で、可哀想で——どうして、気付けなかったのだろうと、自分を恨んだ。 自分がずっと傍にい続ければ良かった。年長であるということを理由に、殻として纏い続け、神原と甲野の間に立つべきだった。そうして傍にいたのなら、神原の怪しさに気付けたのかもしれない。傍にいて、神原の逆側から甲野の手を引けば良かった。甲野の手を引き、自分の方へと戻し、そして——ずっと、抱えていた想いを口にすれば、全ては変わっていたのかもしれない。幾年が経っても、そう思わずにはいられない。 破門にしてほしいと土下座した自分に、矢立は寂しげな目をしていた。指を詰める、と申し出た滄に矢立は首を振った。お前のせいじゃない。あの大人しげで、だが静かな眼差しを持つ若頭は滄の心中を見抜いていたのかもしれない。だから——ほとんど秘密裏に組を抜けさせ、滄を留萌へと送り出してくれたのだろう。 「…俺は、待っているんだ、」 深く息を吐き出す。握り締めた指に一層力が注がれた。この指は、車椅子のハンドルを握る指だ。脳裏には甲野の暗い瞳がある。いつも見ていた背を車椅子越しに見る日々は3年経ってもまだ続いている。そこに苦はない。あるのは。 「甲野が、正気に戻る時を待っている。いつか戻るかもしれない。一生戻らないかもしれない。だが、俺はずっと待っていなければならない。…だからここにいる。誰に何を言われても、ここにいて、甲野の傍にいようと決めた。…全部、自分で、選んだことだ」 長い独白が終わった。だからそこに苦は無いのだ。組んでいた手を解き、額から顎までを掌で撫で下ろす。隣で、潜めるような色で深い呼吸をする音がした。ようやく視線を持ち上げると、目を伏せていた将未が悲しげな目で、自分を見つめていた。あの夜、冷たい床に身を伏せて頭を下げた自分を見る矢立の瞳を、思い出した。 「……寂しくは、ないのか…?」 「——…」 問われた意味が、わからなかった。意味を伺うように軽く眉間に皺を寄せて見上げる滄に、将未が小さく首を傾ける。相変わらず純粋な、ある意味では、真意の読み取れない目をしていた。 「…滄は、寂しくはないのか…?…ずっと、一人で、」 言葉を選ぶ間がある。将未自身も何かを考えながら言葉を紡いでいる気配を感じた。 「…一人で待っているのは…、多分、…寂しい、と思う、」 想像していなかった反応に、無防備になっていた胸の奥が突かれた思いがした。突かれた、というよりも、胸の奥深くに沈みこませていた感情の表面を撫でられるような手付きだった。静かで柔らかなそれは水面を撫でるようで、広がる波紋によって、滄の中にあったものが浮上し、熱を帯びてせり上がるのを感じる。ぐ、と詰まる呼吸を飲み下した。そんなことは無い。緩く首を振ったつもりが、発した声は裏腹なものとなって零れ落ちた。 「——寂しい、」 飲み込んだ筈の熱が収まりきらない。呟く、というよりも漏れた声が掠れた。喉元が、鼻の奥が熱くなる。相貌を見られぬように急いで顔を伏せると、重力に従うように落ちた水滴が自分の手の甲を濡らした。その様にすら瞠目し、瞬かせた目からはぱたぱたと滴が落ちていく。 「……」 将未がソファーを軋ませた。空けていた距離が詰められ、近付く体温の気配に無性に呼吸が苦しくなる。ぎゅっと瞼を閉ざした。 「寂しい、」 案ずるような瞳が痛々しそうに歪む。そっと、背に触れられた。拠り所を探すように浮いた滄の手を、将未の手が受け止めるように握り締めた。 「…寂しい…、甲野…っ、」 吐き出した言葉が濡れる。誰にも語らなかった事を口にした後の反応を予想するなどしたことはなかった。胸中をさらした自分はあまりに無防備だった。ぼろぼろと落ちる涙はもう枯れたものだと思っていた。もう自分すら見ていない甲野の顔が浮かぶ。 正気に戻ることのない甲野。 その甲野に、今度こそ寄り添おうと思ったのは自分の意思だ。 償う為に、埋める為に選んだ道だ。 だが、時々果てのない時間に押しつぶされそうになる。 選んだ道はどこまで続いているのか。 自分はいつまでこうして甲野の傍にいられるのか。 返らない反応を、甲野の正気を、自分はいつまで待ち望んでいるのか。 甲野の傍にいるのは自分しかいないと、魔が差すような優越感は否めない。だが、今の甲野は自分を必要としていないどころか、自分のことすら認識していない。そこに孤独が無い筈はない。 あらゆる思いは尽きない。だがその一方で、甲野の手を取り、あらゆるものから護り抜こうとする意志を凌駕するような、どうしようも無い孤独に蝕まれてしまいそうになる。 甲野は今自分だけのものだ。だが、自分が欲しかった甲野は今の甲野ではない。——甲野の身に起こった全てが自分の所為だと思うのは、自分が全ての想いを甲野に告げなかった後悔だ——。 「…滄、」 衣擦れの音がした。顔を上げた時にはもう、将未の腕が目の前にあった。抗うより先に、将未が滄の頭部を緩く抱き締める。きつく、目を閉じた。 「——…、」 薄い胸板に頭部が引き寄せられ、不器用な手つきで包み込まれる感触に、再び滄の中が熱くなる。声を噛み殺し、シャツに包まれた将未の腕を濡らしながら、滄はそのまま静かに肩だけを震わせていた。

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