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ほとんど無為に過ごした夏が終わり、気付いた時には北国の短い秋も終盤に差し掛かっていた。北国といえど近頃は温暖化の影響なのか、初雪は年々遅くなっている。だが、雪が降らない晩秋や初冬というものはただただ気温が下がるのみでそこに情緒のようなものは感じられない。相変わらず怠惰、というよりも無気力を引き摺り、自宅にいてもどこで眠っても悪夢を見る鬱陶しさ眉間に皺を寄せて夜のススキノを当てどなく彷徨う龍俊の上等な秋のコートに風はひたすら吹き付ける。 時折気だるげに顔を上げ、無意識に影を探す将未の姿は見当たらない。もうこの街にはいないのか、それとも龍俊のあのマンションから出た後に独りどこかで死んだのか、将未の生存の有無すらわからないのだと気が付いた時にも、龍俊はまた呆然と立ち尽くしたものだが、その思考とは裏腹に、脳は——龍俊の奥深くが将未の姿を求め続けている。 会ってどうしようなどとは考えてはいない。 詫びる気は無い。帰ってこいと乞う気もない。 人ひとりと別れただけで、こんなにもかき乱される自分に苛立ちも覚えている。 ただ、悪夢を見て飛び起きた夜、隣に将未がいない事に押し潰されてしまいそうになる。 ただでさえ長い夜が、秋と冬という季節によってより沈んでいくようなものへと変わっていく。暗がりの中に立ち竦む龍俊の元に、豪能組の安樂から連絡が入ったのは、遅い初雪が降った日、11月の末の夜のことだった。 ●●● 待ち合わせに指定された場所はいつもの焼肉屋だった。地下に降りる階段から既に立ち上ってくる肉が焼ける香りに否が応でも鼻腔が擽られるが別段食欲は湧かない。声を掛け、食事に誘ってくる辺りが近頃何につけても無気力な己を見透かされているようで居心地が悪いが、安樂からの命令は断れないという擦り込みが龍俊の中には築かれていた。 ほとんど客のいない店内が昨今の不景気を示しているようでまた居心地が悪い。他に人が居ないのであればどこの席でも構わないだろうと思ったが、安樂はやはりいつもの個室を押さえていた。 「よう。ご無沙汰、」 薄いカーテンで仕切られた個室の中には安樂とそのボディガードが座っていた。部屋は既に安樂が吐き出した煙草の煙が満ちている。どうも、と短く礼を向ける龍俊の態度にボディガードが一瞬神経を尖らせる気配があったが、躾なのか訓練なのか、安樂が軽く窘める掌に逆らう真似はしなかった。 「腹減ってそうな顔してんな。好きなもん食えよ」 ——本当に腹が減っているだけに見えるのだとしたら、この男は人を見る目が無いのではないか。 一瞬、龍俊の中に思いが過ぎる。ちら、と視線を向けた表情は普段と変わらない不遜な余裕が漂っている。初めて出会った時もそんな風に声をかけられたことを思い出す。これは安樂の口癖か、人に飯を奢る前の常套句なのかもしれないと、頭を擡げた思いを胸中に収めた。 注文を済ませた後、しばらくの間は安樂の一人語りが続いた。内容はほとんど世間話の域を出ず、龍俊はそれに耳を傾けながら安樂の誘いの深意を探るも、安樂もまた、その龍俊の様子を観察しているようにも思えた。やがて肉や酒が運ばれたが、龍俊はほとんど手を付けなかった。空腹ではある気がするが、肉の匂いを嗅ぐだけで胸焼けが起こるような気配があった。 テーブルの上の肉をひとしきりさらった後、手にしていたグラスの中の酒を飲み干した安樂に目を覗かれた。回っている筈の酔いは一切感じさせない。——やはり、初めて出会った時の事を思い出した。 「——本題な。…お前、俺と正式に盃交わせ」 「——…」 全く脈絡なく投げ掛けられたのは命令だった。提案ですらない。龍俊は断らないだろうと信じ込んでいる安樂の言葉を龍俊はどこかで予想をしていた。 これまでも、安樂は龍俊を幾度か豪能組に引き込もうとしていた。それはほとんど軽口の一環で、冗談の域を出ることはなかった。龍俊は何処かに所属することは無い。付き合いを重ねていく中で、互いの間に生まれた暗黙の了解だ。だが今の安樂の眼差しは違う。本気だ、と語る目に、龍俊が目だけで続きを促す。炯々と光るような安樂の目が微かに光り、また静かに口が開かれる。 「お前幾つになった」 「…34、です」 安樂の目が丸くなる。だがその表情は一瞬で引き、酒で湿らせた唇が動き始める。 「いい加減、腹括ったりどっかに根っこ下ろしてもいい頃じゃねえのか。…ウチの中でも中堅になりゃあお前くらいの歳の奴はいる。まあ組織は年齢じゃねえけどな」 年季だ、と呟いて喫煙具を探る。隣のボディガードがそつの無い動作でシルバーの着火具を取り出して待っている。フィルターを唇に寄せ、他人の手で火を灯す動作が、この男の人生を語っているようだと明後日の意識で思った。 「年季だが、今更お前に部屋住みからやれなんて言わねえよ。それなりのポストとそれなりにちゃんとした下を付けてやる。…んな顔すんな」 自分は今どんな顔をしていたのだろう。ふ、と苦笑する安樂を前にぼんやりと思う。 龍俊は組織のポストにも有象無象の舎弟を従えることにも興味がない。そんな事にも気が付かない男では無い筈だ。やはり深意を掴めない。怪訝に眉を潜める龍俊に勧めるように、安樂の指が軽く灰皿を押しやった事に気が付いたが、龍俊は指を動かさない。 「なんで今更、みてえな顔してんな。…お前、初めて会った時と同じ顔してんだよ」 瞠目する龍俊の前で、安樂は長く煙を吐き出す。さっきまで上がっていた肉を焼く煙とは別の香りの紫煙が天井に留まっている。龍俊の反応を一時でも見逃すまいとするような安樂の目は、もう笑ってはいなかった。 「…去年の冬くらいからか。で、今日会って改めて思った。つうか思い出した。死んでも構わねえみてえな顔してススキノの地下にいたガキ拾って、その後に金があるのを良いことに好きにさせっぱなしでここまで来た。お前の手練と金を利用させて貰ってたことも否定しねえ。…けどな、ここ1年くらいのお前見てるとな、初めて会った時の顔と同じ顔してるんじゃねえか、って事にこの間気付いてよ」 「——…」 1年。 この1年弱の間、自分が何をしていたのかを具体的には思い出せない。 ただ無為に過ごしてきた。空虚のように生きてきた。悪夢にうなされ、飛び起きては空のベッドを探る。どうでもいい男を引っ掛けた所で空虚は一向に埋まらない。 先には進めない。後ろを振り向いても将未はいない。立ち尽くすのは一人きりの闇の中だ。それは——ちょうどあの夜、荷物だけを手に生家に背を向けて駆けた夜の景色を、思い起こさせた。あの時と違うのは、自分は駆けることすらしていないことだろう。 「…そんな、こと、」 安樂と初めて会った時のことを思い出す。 家族を失くし、家を捨て、金と体以外の全てを棄ててススキノにやってきた。あの時の自分は、何を考えていたか。疲れ果てた末に、何を考えてススキノの地下に蹲っていたか。死にたくはない。だが、生きている理由も見当たらない。 自分は、何も持ってはいない。 「…俺はな、お前を拾った責任がある。死んでも構わねえと思ってたガキを生かしておいた責任がある。簡単に死なせる訳にはいかねえんだよ。…わかってんだろ。今更カタギには戻れねえんだ。——龍俊」 正式に俺の所に来い。 テーブルの上に据えたままの龍俊の喫煙具は放置されている。龍俊は、ただ呆然と安樂の目だけを見つめている。 以前の——安樂と出会って間もない自分であれば、安樂の誘いに乗っただろうか。 何も持たない自分に住む場所と職を与え、ススキノで生きていく上でこれ以上ないと言っても過言ではない後ろ盾になった安樂の誘いを、若かった自分は断らなかったかもしれない。家族は要らない。だが、拠り所の1つは求めたことがあるかもしれない。それほどまでに、自分は何も持たなかった。安樂だけが拠り所だった。盲信はしていなかっただろう。自分は安樂の部下ではない。だが、一瞬でも、安樂の中に「家族」の影を重ねた事がなかったといえるだろうか。それ程までに、自分は安樂と繋がっていた。 そんな安樂の言葉は、今の龍俊には安樂の言葉が驚くほどに響かない。それどころか。 「——ヤクザには、…なれねえ」 無意識に、ぼんやりとしたまま唇だけが動いている気がした。煙草のフィルターを挟む安樂の指が、ぴくりと痙攣する気配までもが伝わってくるような静寂があった。 「——あ…?」 安樂はヤクザなのだ、と久方振りに意識した。安樂の口にする「ウチ」は豪能組のことだ。脳裏の片隅には、雄誠会での記憶がある。かつて身分と名前を偽りながら所属し、古臭い慣習の元で指一本を残して去った雄誠会。その雄誠会と再び関わったのは、間接的なものだった。——は、雄誠会に所属する部屋住みだった。豪能も雄誠会も、どちらも立派なヤクザ組織だ。 不意に、呼吸が浅くなるのを感じた。嫌な汗が噴き出すような感覚に軽く頭を振り、顔を上げようとするも上手く行かない。眉を寄せ、呼吸ごと吐き出すように呟いた。 「…俺はヤクザにはなれない。…もう、ヤクザにら関わらない」 力の無い、声だった。 自分が虚空を彷徨うように生きている理由の根本は既に気付いている。 だが、それを認める事で自分の根本が揺らぐことにも気が付いている。 全くヤクザらしくない男だった。 だが、あの男は確かに雄誠会に所属していた。だから近付いた。安樂の命令の元、雄誠会という組織に近づく為にあの男を利用した。 ——出逢わなければ。 あの男が雄誠会にいなければ。 再び雄誠会に近付く理由がなければ。 分岐はいくつもあった。紐解いて行こうと思えば何処までも遡ることが出来るような気がした。しかし、遡ってしまえば、いつも目の前のこの男に行きあたる。この男は。安樂、は。 「…龍俊、」 「ヤクザには関わらない。もう、…たくさんだ、」 絞り出すような声だった。脳裏に留まる笑顔と声が去らない。悪夢を見てうなされた後のような息苦しさがある。知らなければ良かった。出逢わなければ、済んだことだったのに。 ただ、たった1人を突き放しただけ。そう思い続けられれば、良かったのに。 「——そうか、」 わかった。安樂の小さな呟きに、我に返った。 自分は今何を口にしたのかと思うと同時に、サッと血の気が引く。自分は今、ヤクザを目の前にして何を言ったのか。 龍俊の指が、まだ半分残る吸いかけの煙草を灰皿に押し付ける。あくまで静かな動作であったが、声音のトーンは下がっている。龍俊の背に、言いようのない寒気が襲いかかってきた。 「…それじゃあ、これまでだ」 「——…」 安樂の目が自分を射る。先程までの幾分かでも親心のような色を浮かせた空気はそのには無い。突き放すような、温度を無くした眼差しに、今度こそ背が震えた。 「盃どころか、ヤクザに関わりたくねえって言うのなら、俺とも豪能組との関係もこれまでだ。そういうことだろ。お前のことはもうどうでもいい。俺は駒にはならねえ人間は要らねえ」 尋ねられてはいない。安樂はいつも断定的にものを言う。目を掛け、育て、可愛がっていた人間に拒絶された怒りをあからさまに顕にしないのはこの男の性分なのか年の功なのかはわからない。それでもあくまで静かに睨めつけられ、震え出しそうな龍俊に、呆れたように鼻から息を抜いた安樂が立ち上がった。呼吸を合わせたようにボディガードも腰を上げる。背に当てられたコートの袖に腕を通しつつ、安樂が龍俊を見下ろす。 「…なぁ、神原」 テーブルの上、龍俊の視線が落ちる景色の中に安樂の手が乗る。思いのほか、綺麗な指をしていた。わざとらしく潜めた声を直接吹き入れるように、安樂が身を倒す。きつい煙草の香りが間近で漂い、龍俊を包み込んだ。 「金があるだけじゃあ、ススキノでは生きて行けねえってこと、お前はよくわかってる筈だよなァ ?」 耳元で鳴る声が、獣を彷彿とさせた。

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