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思えば、誰かや何かを捨てることは幾らでもあった。
人を騙すことも陥れることも利用することも、全ていつも躊躇なく遂行することが出来ていた。その末に、ここから先は不要だと感じた人間はすぐに自分の傍から切り離すように捨ててきた。それは龍俊にとっては生家やこれまで生きてきた道を捨てることに等しかった。だから躊躇することなく行えた。
だが、人から捨てられる事は初めてだったのだ。
安樂は、自分を不要だと言った。
このススキノの地を踏んで間もない頃に自分を拾い、利用しながらもこの街で生きる後ろ盾となってくれていた男は他でもない安樂だ。拠り所など無いつもりで——持つものなど無かった筈の自分は、知らぬ間に、無意識に安樂の庇護の元にいたということなのだろう。失ってから初めて気が付くなど、陳腐な言葉だ。だが、今の龍俊にはそうとしか思えてならない。
自分は将未を捨てた。
不要だと判断し——自分から遠ざけようと思った。だがその深層にある理由を考える時、龍俊の胸の奥が疼くように拒絶する。
マンションを出た後の将未は何を思ったのだろう、と考える。自分に捨てられた後、何を思い、どこをどんな風にさまよったのか。同じ思いをしたい訳では無い。自分とあの男が同列だとは思えないし、思わない。失うことで湧き上がる感傷に浸りたい訳でもない。だがどうしても、将未の背中が脳裏から離れていかない。
あの時もし、将未が泣いて自分に縋ったのなら、自分は将未を捨てただろうか。
夢想のような「もし」を思うことに慄然とする。自分は安樂には縋らなかった。将未もまた、自分には縋らなかった。——縋って、欲しかったのか。
少なくとも安樂はそうは思っていないだろう。安樂の言う通り、自分は安樂の駒の1つだった。それだけのことだ。
幾度も巡り、繰り返す思考を手にし、街を彷徨する。俯いたままススキノの喧騒をすり抜け、当てどなく歩く龍俊の頭上を見慣れぬ光が照らした。原色に近いその色に何事かと顔を上げる。足は知らぬ間に大通り公園に差し掛かっていた。
「——…」
公園いっぱいに、キラキラとした光の粒が瞬いている。イルミネーションだ、と理解するまでにやや時間を要した。この街の風物詩である冬のこのイベントのことは知識としては知っている。だが、こうして無意識ではあるが、自発的に足を向けたことは初めてだった。夜空の下、眩い程の光に包まれながら家族連れは歓声を上げ、恋人たちは肩を寄せ合っている。全ての景色が近くにあるはずなのに、龍俊の中では酷く遠いものとして目に映る。うっすらと掛かるBGMに軽い頭痛を覚えた。
ここは眩し過ぎる。
公園の脇を足早に抜ける。少しでも暗い場所を選ん歩き、地下へと続く出入口に踏み込む足取りは、明るい場所からの逃避のようでもあった。
音を立てて階段を降り、地下を進むに連れて全身が温もりに包まれる。暖気に息を抜き、口元まで上げていたマフラーを下げる。札幌の地下は東京程ではないがいくつもの分岐と出入口が存在する。冬には雪に埋もれる街のインフラとしての地下道は地下鉄大通り駅を挟んで札幌駅とススキノ駅を繋げている。差し掛かった分岐は、無意識にススキノの方面を選んだ。
安樂との決別の後、龍俊はどこにも帰っていない。自宅にも、あの大通りの側に構えるマンションにも帰ることなくただひたすら街を彷徨している。夜は適当なホテルを見付けては飛び込み、人工的な香りに包まれてひたすら眠りを貪る日々を重ねていた。時折こうして寒さから逃れようと地下に入り、包み込む暖気に顔を上げた先に——安樂が立っているような錯覚に囚われた。惚れていた訳では無い。安樂は龍俊にとって、あれ程作ることを拒んだ家族であったのかもしれないと気が付いた時、龍俊はまた呆然と立ち尽くすこととなった。
地下にある商店街は閉店の時刻が近付いていた。大通りからススキノ方面へと向かう人の波はそう多くはない様子に、今日は平日の夜だろうかとぼんやりと考える。曜日も日付も考える必要が無かった。働かずとも手元に金があることは却って皮肉なことだと思えた。自分はこれから先、どこでどうやって生きていこう、と考えてみるも、何の展望も、先も見当たらない。
何も持たないのは、振り出しではない気がする。
自分は今も昔も、ずっと何も持たないままだったのだろう。
——不意に、安樂が最後に告げた言葉を思い出したのは、自分が鳴らす革靴と同じリズムで着いてくる足音に気が付いたからである。
道の端に寄り、足を止める。いましも店のシャッターを閉めようとする男性店員に視線を向けられたが、構うことなくまた歩き出す。硬い床を蹴る足音は距離を保ったまま止まることがない。顔を持ち上げて辺りを見回す。紛れる程の人混みは無い。その脳の片隅で安樂の言葉を反芻する。最後の言葉を額面通りに受け取るのならば、自分は——豪能組の内側を知り過ぎている部類に入る自分は——豪能組に、消される。
咄嗟に、走り出していた。
案の定、足音もまた龍俊と同じように一層高く床を蹴り上げた。ススキノへと向かう方向に振り向きもせずコートを翻しながら龍俊は走る。人の目はあまり無いが、大の大人二人が走る様は異様なのだろう。先程と同じように閉店の支度をする店員たちがぎょっとした視線を送っているのがわかった。それでも龍俊はひたすら足を左右に踏み出すことしか出来ない。
相変わらず、生きている理由は無い。
もとより何も持たない身だ。生きている理由はないが、相変わらず死にたくはないだけだ。この地に降りる前もこうして独り駆けていた。雪のない、ただ乾燥のみがある冬の街を駆け、気が付いた時には空港に辿り着いていた。自分はいつも——またこうして、誰かかから逃げなければならないのか。乱れる息の中、思い至っては途方に暮れる。安住の地は、安樂が与えてくれていたものだと思っていた。それはただ、思い込んでいただけだということに龍俊は気が付いているはずだった。
足がよろめく。寝不足と、空腹と、放浪する日々の疲労がここに来て如実に現れ始めている。追っ手とどれくらいの距離が空いているのかを確かめる余裕はない。汚れた革靴の先が、地下の硬い床を蹴り損ねた。体が前に傾く。転ぶ、思った刹那、前方に人の影を見た。
「——っと、」
肩が、柔らかい感触にぶつかった。布地だと判断しつつ顔を上げる。長身の男が自分を見下ろしていて、その様がほとんど瞬発的に怒りの形相へと変化する様を見た。
「どこ見て歩いてんだテメェ!!」
「…っ、」
明らかにカタギの男ではないことは嗅覚が告げる。浴びせられる怒声に一瞬身を固くするも、ヤクザに怯むようなタチではない。こんな人種は嫌という程見慣れている。男のロングコートの中にはいかにもヤクザ然としたスリーピースのスーツが覗いていた。耳にはいくつものピアスが光っている様が目に入った。龍俊もまた反射的に相手を睨み上げるも、今衝突した男の隣で歩いていた人物が、微かに驚きを含んだような声を発した。
「——神原、」
今度こそ、血の気が引く。自分の名を口にした男の顔を確かめ、龍俊は呼気を詰める。知り合いとは言い難い。スリーピースの男の隣には、雄誠会の若頭、矢立が呆けたように立ち尽くしていた。
「アァ!?」
矢立が呼んだ名前に、始めに龍俊を怒鳴りつけた男が目を瞬かせる。背後からは。相変わらず、豪能組の舎弟と思しき男が猛然と迫っている。どちらにも関わる訳にはいかない——龍俊は再び足音高く駆け出した。
「あ!おい!テメェ!」
「鞍瀬さん。追ってください!神原です!」
背後で再び名を呼ばれた。振り向いている余裕は無い。1拍の間を置いた後、自分を追う足音は別の色に変わった気配があった。
〇〇〇
神原だ、と咄嗟に判断出来たもの、その次の動作は迷いがあった。
寄り合いの帰り道である。たまたま本部と支部の代表が珍しくも揃って顔を出し、多少の酒が入ったものの、近場であるが故に迎えの車を呼ぶことを面倒くさがった張本人である鞍瀬が仏頂面で矢立の隣を歩いていた。何が悲しくてお前と2人連れて歩かなければならないのだとボヤく鞍瀬を横に、矢立はボディガードを兼ねてヒデを連れてくるべきだったと後悔していた。互いに支部と本部、もしくは自宅に戻るにはまだ分岐がある。矢立の方は別に構わないが、鞍瀬の文句にはもうしばらく耐えなければいけないと溜め息を噛み殺したその時だった。
あまり人の無い地下街の、大通り公園駅の方面から走ってくる男の姿は確認していた。矢立はともかく、鞍瀬は人に道を譲るような真似はしない。矢立もまた染み付いている性、というよりも自分を目にした時の人間の対応は心得ていて、カタギの男であれば自分達のような風体の男は避けるだろうと予測していたが、それを裏切る形で男は鞍瀬の二の腕に衝突した。衝撃を受け、すぐに大声を発する鞍瀬はこれまでに踏んだ場数が違う。きん、と耳をつんざくような低音に矢立は眉を垂れ、頼むからカタギに迷惑を掛けないでくれ、と間に入ろうとするも、鞍瀬の体に当たった男の顔を見て大きく瞠目した。
神原だ。かつて雄誠会を掻き回そうとして組に入ってきた男の顔を矢立はよく覚えている。派手な顔立ちと身形だった。ヤクザとしては明らかに毛色が違った。入ってきた時のことは正直よくは覚えていない。だが、この男を破門にした時のことは十分過ぎる程に記憶している。それだけではない。神原は数年後に——。
「——神原、」
思わず名を口にしていた。神原の方もまた、矢立の姿を確かめた後に明らかに顔色が変わっていたから、自分の事を認識したのだろう。しかし、矢立が何か声を発するよりも先に神原は再び駆け出した。前方からは明らかにチンピラといった風情の男が迫ってくる。神原は逃げているのか。男の隠しもしない殺気に悟り、振り返った。
「鞍瀬さん。追ってください!」
「ああ!?テメェ俺に命令すんじゃねえよ!!」
咄嗟に口から出た言葉に矢立は瞬時に後悔した。鞍瀬に命令出来るなど鞍瀬が仕える自分の父親くらいなものだ。案の定、鞍瀬は盛大な悪態をつきながら、それでも逃げるものを追いたがる本能なのか、神原の背中を目掛けて猛然と駆け出した。
鞍瀬もまた、神原という名に心当たりは1人しか無いのだろう。恐らくあの様子では神原はすぐに捕えられる。以前目にした時や、数年前に雄誠会に所属していた時に比べると、随分とやつれた顔をしていた。いつも乱すことなく入念にセットされていた髪型や、気を遣う、というよりも自分を飾る為に纏っていた華美なスーツ等は見る影もない。その上、人目も気にせずに地下街を駆けるなど、およそ矢立がイメージする神原の姿とは噛み合わない。矢立の知る神原はひたすら卒がなく、スマートで、自然に振舞っているつもりでもどこか芝居かかった雰囲気を漂わせていた男だった。
その神原に何かがあった。直感に近いものが知らせていた。
ともかく神原は鞍瀬に託す形となった。さて、とチンピラ風情と向き合うも、請け負った仕事に無意識に溜め息が漏れる。男が一介のチンピラであるという見立ては間違っていないだろう。今の鞍瀬のように、ただ肩が当たっただのつまらない因縁で神原を追い掛けているのであればまだマシである。だが、この男が——どこかの組織に所属しているのであれば、話は別だ。
「おい!どけよ!なんなんだよアンタ!」
道の真ん中ではない。だが、じっと押し黙るように立ち塞がる矢立の顔立ちと風貌だけが男を怯ませている。矢立の方は脅すつもりも威嚇するつもりもない。むしろ自分の性格と明らかにヤクザの幹部であるとわかる風体との乖離に嫌気が指す。
相変わらず自分はヤクザには向いていない。——だがそれでも、抑揚も少ない自分の気性や言動が役に立つことはたまには、ある。
「…どうしてあの男を追っていた」
「アンタに関係ねえだろ。どけ!」
「関係は、…ある。……あれはウチの所属だ。何か…粗相があったのか」
神原を守る義理はない。だが、鞍瀬に追って貰った理由を後から捻り出した時に何故か、神原をこのどこぞのチンピラに手を出させる訳にはいかないのだと思い当たった。神原の様子に絆されたのかもしれないが、今はまだ判断は出来ない。男がわかりやすく片眉を持ち上げる。半分はったりのようなセリフではあったが効果はあったのか、完全に足を止めると長身の矢立を怪訝そうに見上げ、拗ねたように唇を尖らせた。
「ウチって…アンタどこの誰だ。つうか俺は何も聞いてねえ」
言葉尻を捉え、行きずりのトラブルでは無いことを確信し、矢立は矢立で男を改めて上から下まで眺め回す。どこかの組織に所属しているとしても一介の舎弟だろう。あまり利口そうには見えない。元々雄弁ではない自覚はある。見た目と空気だけで押し通し、男が自ら口を滑らせるのを待った。
「俺はただ安樂さんから神原って奴を殺れって言われただけだ」
「——…、」
安樂、というどこかで予想していた名を聞くことが出来た。だが、現段階では構図はわからない。豪能組で子飼いとして使っていた神原を始末したい理由が出来たということなのだろうか。それにしても、この煌々と灯りの点る地下街で相手を追いかけ回すような悪手を取るような男を刺客に出す辺り、さほど真剣に神原を消そうとはしていないということなのだろうか。
いずれにしても、神原が狙われているのであれば、尚更この男を通す訳にはいかない。
「…雄誠会、と聞いてわかるか」
商店街はいよいよ閉店の時刻を迎えたのか、あちこちで降りるシャッターの音が会話をかき消してくれている。互いの声が届かないと意味がない、と半歩前に出た矢立に、男は勝手に気圧されて後ずさる。会話が噛み合わないことに苛立ったか、あからさまに眉間に皺を寄せた。
「雄誠会だあ?腰抜けの若頭がいるってウチの偉いさんが言ってた組だろ」
挑発したつもりではないだろう。この男は矢立の正体を知らない。そうでなくともそんな言葉はとっくに聞き慣れている矢立は眉ひとつ動かさない。男の方は男の中で何事か優位に立ったらしい。雄誠会、と聞いた瞬間に固くなった表情が緩んだ。いくら目の前の男が自分よりも威圧感や雰囲気があったといえど、腰抜けがいるような組には大したことは出来まい。矢立を見下したことは目が如実に語っている。
矢立の顔こそ知らないまでも、雄誠会の名を知っているのであればこの男は一介のチンピラではない。ウチの、と口にした辺りはやはり豪能に所属しているのか。金を貰って神原殺しを請け負った子飼の捨て駒でないのであれば、暴力沙汰は抗争の種になりかねない。どうしたものかと内心で首を捻ってみるも、表情を変えることの無い矢立に男は焦れたように続ける。
「さっきも言ったけど俺は何も聞いてねえんだよ。雄誠会?神原が?いつから…」
「……昨日、」
危うく、さっき、と口走りそうになったがそれも違う。咄嗟に出た言葉に男はいよいよ可笑しそうに噴き出した。余裕を滲ませ、さっき後ずさった足を踏み出す。じり、と矢立との距離が縮まった。男が薄汚れたジーンズのポケットの中に手を突っ込んだ。出てくるのはナイフかそれとも銃か。注視する矢立のコートの中、腰の辺りで何かが震えている。携帯電話だ、と意識するも応じている局面ではない。
「…ウチがどんな組だと思われているのか知らないが…、ウチの人間に手を出すような真似をするならば即座に豪能に報復をする。安樂もお前も、それを覚悟してのことなのか」
何から何まで性に合わないはったりと脅しを口にしている。矢立は抗争など望んでいない。
「関係ねえや。腰抜けが若頭に立つヤクザと揉めた所でウチは…、——っ、」
「——誰が腰抜けの若頭だって?」
余裕綽々、を絵に描いたような表情を顔に張り付けていた男が突然背後によろめいた。危うく後頭部を打ち付けるのではないかという勢いで体を引かれて瞠目する男を見ると、薄っぺらいジャンパーの首根っこを掴まれている。男の後ろに立つ男を見やった矢立が小さく呟いた。
「…ヒデ」
普段はどちらかと言えば緩い風貌で、気の良い弟分であり部下であるヒデの額の隅に青筋が立っている。掴んだ首元をそのまま強く引き、男の体を反らせた。硬い床に、男が声もなく引き倒され、今度こそ強かに頭を打ち付ける。どさ、という音と男の悲鳴と共に、男のポケットから滑り出した小さなナイフが軽い金属音を立てながら床に転がった。
「…てめえ誰に向かって口きいてると思ってんだ」
倒れた男の手にヒデのブーツの底が触れる。何すんだ、と辛うじて上がる抗議の声は届かないとばかりに手の平を踏み付けた。店の営業は終わり、人通りは少ないとはいえ、ここは立派な公共の施設だ。遠巻きに見ている人間が増えつつあった。矢立が大股で歩みを寄せる。
「ヒデ。ここで騒ぎは…」
「すぐ近くでラーメン食ってたら鞍瀬さんから電話貰ったんすよ。ボスが出ないってキレ散らかしてましたけど。神原を捕まえた。ススキノ駅のどん詰まりにいるって」
静止をかけようとする矢立の声を遮る形でヒデが口を開く。普段であれば矢立の行動を遮るような男ではない。鞍瀬からの電話を受けてすぐ、雪のない地下に入り、そのまま駆けて来たのだろう。呼吸こそ乱れているが、上司を侮辱されたことで滲み出る怒気がヒデの足元に込められる。男の悲鳴は、指の1本でも折れたのだろうかと矢立は内心で顔を歪めた。
「ったく…こっちは食いかけのラーメン残して来たんだよ。おまけにウチのボス馬鹿にしてるとかふざけんじゃねえぞ」
「ボス、って、」
ようやく明確な声を漏らした男の脇腹をヒデのブーツの爪先が蹴り上げる。加減をしたのか、男が小さな悲鳴を上げて体を丸めた。腰に足を乗せることで逃がさない構えだけを取ったヒデが矢立に顔を向ける。
「…で?コイツどうします。——若頭」
慣れない単語であるものの、いつになく低く発した言葉に、男が愕然と表情を変える様を見た。
〇〇〇
駆け付けたススキノ駅の構内は歓楽街の最寄り駅だというだけあり、平日の夜にも関わらずそこそこの人で賑わっている。人混みの中、改札を手前にした地上へと続く出入口の端に寄り、悠然と佇む鞍瀬の姿が見えた。その足元、床に横たわる形で投げ出された足は神原のものだろうと察した矢立の顔が青ざめる。鞍瀬もまたこの衆人環視の中で荒っぽいことをしたのだろうかと足早に歩み寄ると、声をかけるより先に鞍瀬が矢立に気が付いた。
「テメェ輝!俺全力で走らせるとかいい度胸じゃねえか!」
「…すみません。神原は、」
鞍瀬が矢立に不服を申し立てるのは挨拶に近い。その証拠に矢立の返答はほとんど気に留めることなく、眉間に寄せた皺をそのままに人払いの方が大変だったと鞍瀬はぼやく。膝を折ってしゃがみ込んだ足元に神原が寝かされていた。顔を覗き込む。やはり先程矢立が感じた通り、酷く疲労困憊し、やつれているような面立ちを無防備に晒したかつての色男はただ熟睡しているように見えた。
「…あの…手は…」
「出してねえよ。つうか追いかけるまでもねえって感じだったぞ。コイツ」
鞍瀬が言うには、追っ手が豪能組のあの男から自分に代わった後、商店街とススキノ駅のちょうど境目にあたるコンコースの入り口で神原は力尽きたように体勢をよろめかせた。転倒する、と咄嗟に伸ばした鞍瀬の手は神原の長いコートの裾を掴み、怪我は免れた。鞍瀬に抱えられる形となったその時には、神原の意識は無くなっていたという。
「ヒデはどうしたよ」
「あの男をサツの前に置いてから来ると言っていました。酔っ払いの喧嘩を仲裁したとかでっち上げると、」
「…無理あんだろ」
矢立も同じことを言ったが、なんとでもなるとヒデは言っていた。幸いあの場所は地上に上がれば近くに交番があるはずだ。酔ったチンピラがナイフを手に「一般人」に危害を加えようとしている現場に「たまたま」遭遇しただけ、という証言は間違ってはいないが、果たして警察に信用されるかどうかはわからない。
人の目を気にとめることなく、矢立が神原を挟む形でしゃがみ込む。駅構内は禁煙、と記された看板を憎々しげに見上げた鞍瀬が、そのままの表情で矢立を見やった。
「で?コイツどうすんだ」
1度破門にした男をどうするつもりだ、と鞍瀬は聞いている。矢立はここに来て困ったように眉を垂れて思案する。
「…神原を追っていたのは豪能の人間だそうです」
「関係ねえだろ」
己の投げた問いに明確な返答をしない矢立に鞍瀬の声が苛立ちを覗かせる。神原がどこの所属であり、どのような状況でどこの誰に追い掛けられているかなど自分たち雄誠会には関係がない事だ。まして1度破門にした上に、数年後に部屋住み1人を破門に追い込む形で嵌めた男だ。所属も、生き死にも自分たちには関係がない。——だが矢立は、すぐにそんな風に見放すことは出来ない。
「…とりあえず…支部に運びます」
「コイツ拾うような真似すんならお前はいよいよどうしようもねえな」
呆れる、というより忠告するような声音だった。鞍瀬が案じているのは矢立でも神原でもなく、雄誠会という組織だけだ。拾いません。きっぱりと言葉にして呟いた矢立の声を聞き届け、鞍瀬が鼻から息を抜く。
地上に続く階段から降りてくる足音があった。通行人であれば避ける必要があるだろうかと腰を上げかけるも、現れた顔を見てようやく少し目元が緩んだ。
「遅くなってすんません」
「ヒデ」
先程よりも更に息を切らせ、ヒデが神原の側にしゃがみ込む。矢立の指示も待たず、というよりも呼吸を汲んだように運びますか、と目で問い、神原の頬をぺち、と打った。
「——っ、」
冷えた手で触れられた神原が薄く目を開ける。未だ朦朧とした眼差しが泳いだかと思うと、瞳が、顔を覗き込んだ矢立を捉えた。
「…将未…?」
「……、」
唇が動き、消え入りそうな声が溢れた。だが、矢立ははっきりと耳にした。じっと矢立を見上げた神原が、何処か安堵したように目を閉じて再び眠りに落ちてしまう。大きく溜め息を吐き出したヒデが、寝息を立てる痩せた体を抱え上げ、片腕を首に掛ける体勢で引き摺るように神原を運び始める。同時に立ち上がった鞍瀬が一瞬思案げに視線を持ち上げた後、物言わずに矢立とヒデの後に着いた。
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