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16-3

瞼が開き、始めに目に入ったのは知らない天井だった。喫煙者である龍俊でさえも不快になる程の紫煙が充満している空間は霞ががっているようにも見える。頭と体が重たい。不意に思い出す空腹感に眉を寄せつつ起き上がる。着いた手の下に古びたソファーと思しき革のざらついた感触があり、スプリングが軋んだ。 「——あ。起きましたよ、」 頭上で誰かの声がした。見ると、丸坊主の小柄ではあるが体格の良い男が自分に背を向けて誰かを呼んでいる。ここはどこだ、と見回す龍俊の視界に、長身の男が割り込んできた。 「よお。ご無沙汰、」 今まで手持ち無沙汰だった自分にようやく出番が来た。そんな風情で現れた男はどこか狩りの前のような目を着ていた。龍俊を見下ろす視線には遠慮の欠片もない。それなりの時間を掛けてセットしているらしい洒落た短髪、その下に覗く耳には数個のピアスが輝いている。ここはどこでこの男は誰だ。まだ霞むような頭の中でここに至るまでの記憶を起こそうとするもあまり上手くはいかない。改めて見上げる男が纏うスーツは決して安価なものではないだろうとぼんやりと思う。自分へと対峙する態度と、安樂のようなヤクザが好むスーツに、この男の身分に確証を得る。うっすらと見覚えのあるこの男はヤクザだ。それも、チンピラと紙一重にあるような低い地位などには立っていない人間だ。 「アンタは、」 「口の利き方に気を付けとけよ」 有無を言わせない低音がヤクザそのものでうんざりする。ヤクザはもう沢山だ、と安樂に啖呵を切ったばかりだというのに、と更に眉間の皺を深くした後に、はたともう一度周囲を見渡す。ここは豪能のシマか。それとも別の——。 「俺の事はどうでもいい。神原だな」 「どうでも良くねえよ。誰だかわかんねえ奴に名前なんて教えられるかよ」 この場がどこかもわからず、目の前の人間の正体がわからないまま気を失う直後の記憶を今度は必死に手繰り寄せる。地下街で、豪能の手先であると思われる男に追われていた。逃げる途中、別の男と肩がぶつかった。直後、また別の男に自分の名を呼ばれた。神原、と。 呼んだ相手を思い出す。一息に過ぎる嫌な予感に目を瞬かせて自らの覚醒を促した。帰る、とソファーから降りようとするも、相変わらず目の前に男が立ち塞がっている上、床に着地させた足がふらついた。今まで意識を失っていたことと、空腹が上手く体を稼働させない。ぐらりと上体を傾けた龍俊を目の前の男はただ眺めているだけだったが、その脇から腹部を抑えるように手を差し出された。 「…っ、」 体を支えるように添えられた手の平はちょうど腹部の古傷に触れた。触るな、と手を払い除ける動作はほとんど無意識である。それでも驚くような気配すら見せない男を睨み上げて相貌を確認し、龍俊はいよいよ呼気を詰めた。 「——神原、だろう、」 「…矢立、」 伺う声音が静かで、久方振りに顔を合わせる矢立の印象は以前雄誠会に籍を置いていた時とほとんど変わっていなかった。歳を食ったのは双方同じことだろう。矢立は相変わらず物静か、というよりもヤクザ——それも組の上に立つ若頭というポストの名のもとには大人しすぎる印象がある。時折他より聞き及ぶ矢立の様子は、大人しい、物静か、弱腰、と言ったもので、安樂が隙あらば雄誠会を潰しにかかろうとする理由も頷けるというものだ。 だが、矢立にはどこか有無を言わさぬ圧に近いものがあると神原は感じている。それが神原だけが感じているものなのか、それとも矢立がこの世界で生きてきた中で培ってきたものなのか、はたまたま生来から備わっているものなのかは神原には判らない。いずれにせよ、今は矢立が訪れた事で脇に引いた男に代わって龍俊の正面に立つ矢立は一挙一動を見逃さないとするかのようにじっと龍俊を見下ろしていた。 「…お前を追っていたのは、豪能組の人間らしい。…どうして豪能がお前を狙う、」 龍俊が豪能と繋がっているということは既に知るところなのだろう。当然だ。自分は2度も豪能からのスパイのような形で雄誠会に関わっている。しかし情報が遅い、と内心で苦笑した。自分はもう豪能とは切れている。しかしそれも教えてやる義理も理由も存在しない。 「アンタに関係ねえだろ、…っ、」 吐き捨てるように、嘲笑を添えて呟いた龍俊の頭に、瞬時に圧が掛かった。矢立の隣に立つ男が龍俊の頭頂部に手の平を添え、五指に力を込めている。頭蓋骨が軋むような音に顔を歪ませたまま睨み上げると、男は咥え煙草の唇を歪めていた。片手は不精にも、ポケットに突っ込まれたままだった。 「おい。口の利き方に気を付けろって言ってんだろ。これでも一応ウチの若頭だぞ」 「知るかよ!離せ!」 どことなく軽口めいた声音を落とす男に、矢立が浅く溜め息を吐き出す。男に視線を流し、鞍瀬さん、と呟きつつ制する声にはどこか諦めの色が混ざっている気がした。 一方で龍俊は、鞍瀬、と言う名を耳にして記憶を甦らせる。確か雄誠会の本部に詰めている男だった。矢立との上下関係は判らないが、恐らく同等程度だろう。この男は、雄誠会に入り、その時にターゲットと決め、薬漬けにした男と共に自分を処分した人間だ。 今なら当時のような失態は犯さずに組を抜けられるだろう。あの時は不運が重なった。目的は遂げたが自分は薬物を持ち込んだことが露見し、処分を決める為の土壇場に据えられた。元から本心で所属したいなどと思っていない雄誠会を破門になることなど当然痛くも痒くもない。小指をくれてやる程度で済むのであればと殊勝な態度を取った事で龍俊は雄誠会から解放された。 あの時に雁首揃えて自分を見下ろしていたのが、矢立と鞍瀬だった。 その鞍瀬が舌打ち混じりに龍俊から手を離す。髪が乱れているであろうことは最早頭にも過ぎらない。 「……俺達も、お前のことはどうでもいい」 「——…」 あくまで静かな物言いに、龍俊の脳天が突かれたような感覚があった。 誰かにどうでもいいなどと言われたことはなかった。——否、この言葉を向けられるのは2度目だ。最後に安樂に会った時だ。組に入ることを断った時、安樂は自分に向かって同じことを言い、そして自分を手放した。 生まれてからずっと、大切に、ひたすら大切にされて育ってきた。 何不自由なく、金も母親の情も存分に浴びて生きてきた。 お前は必要だと母親は言っていた。 家を捨て、この札幌に足を着けた後も、あの安樂が自分を必要だと口にし、傍に置いていた。 必要が無いと言われたことなどない。 どうでもいいと言われたことなどない。 自分は誰かに求められている。 求められ続けて、いた。 ——不意に、将未の笑顔が頭に過ぎった。 最後の夜。あの冬の夜。自分は、将未に何を嘯き、何を突き付けたか——。 「確かめたい事があるだけだ。…広瀬将未を知っているだろう、」 龍俊の胸中を見抜いた訳ではあるまい。だが、矢立は降らせるようにその名を口にした。思わず目を瞬かせる龍俊の反応を確かめ、肯定と受け取った将未が一度目を逸らしてから、また龍俊の瞳を覗く。どこか寂しげな色をした目に、不思議と口を挟もうとは思わなかった。 「…お前が広瀬と繋がったのは、広瀬が雄誠会に所属していると知っていたからか、」 「……」 「それとも、広瀬は豪能やお前と繋がった上で うちに部屋住みとして志願してきたのか」 矢立の中で答えは出ている。確信めいた物言いであることが発する言葉の端々に感じられた。だが、それを自分に問うからには理由があるだろう。これはなんだ、と龍俊は考えこもうとする。矢立は確信を持っている。そうであるのならこの問いは——自分の思いを確かとする為の問いなのではないだろうか。 「…お前の為じゃない。…俺は、広瀬の為に確かめたい」 「——…っ、」 訥々とした物言いが、却って冷えた刃物のようだと思った。冷めたようにも見える矢立の瞳に向けられたナイフに呼気が詰まる。 2度も同じことを言わなくていい。 2度と同じことを言うな。 気が付いた時には、食いつくように言葉を吐き出していた。 「…っ、アンタらには関係ねえって言ってんだろ!将未あの馬鹿、」 文字通り、堰を切ったような声だった。矢立が軽く瞠目することで初めて表情が変わる様を見た。だが、龍俊は自分の発する言葉をコントロールする理性を失っている。体を前傾させたままの姿勢で、言葉の礫が床に向かって吐き出されていく。 「アイツが馬鹿なんだろ。ちょっと声掛けただけでふらふら着いて来やがって。世間知らずもいいとこだろ。なんなんだよ。俺が言うこと為すこと何一つ疑いもしねえで、何でもかんでも受け入れて、…っ、それで嬉しいとか、ありがとうとか、」 息が乱れる。 伴うように乱れる感情と吐き出す言葉が併走しているようで、そうでないような気も知る。だがそれも明後日の、頭の片隅で思うだけだ。 脳裏からは将未の笑顔が離れていかない。今にも消えてしまいそうに微笑む癖に、決して消えることは無い。色濃く、鮮明に浮かぶ将未の姿に胸が締められる。喉から熱いものが込み上げてくる。泣いてしまうのではないか、と思うも止める手立てがわからない。ただきつく眉間に皺を刻み、ぎり、と唇を噛み締めた。 「……幸せ、だとか、…ほんと、馬鹿なんだよ。何が幸せだよ。幸せなんかあったかよ」 幸せなどない。 将未がそう感じて享受していたのは、龍俊が作った幻想だ。 それを最後の夜に、龍俊は種を明かして壊してやった。それでも将未は口にした。 幸せだったと。 幸せだったと言って笑った。 離れないのは、その時の将未の姿だ——。 息を吐いては吸う。息苦しさに胸を掻く。熱さは、退いていかない。 「…っ、あんな騙しやすい奴いねえだろ。騙せるから使ってやっただけだ。騙される方が悪いんだよ。アンタらヤクザだってそうやって金とか——ッ、」 突如、左頬に熱いものが打ち付けられた感覚があった。龍俊の体がソファーの背もたれに強く叩き付けられる。殴られた、と意識した時には既にシャツの胸ぐらを掴まれていた。 「——うちの人間を侮辱するな」 目の前に矢立の顔があるが、その相貌は先程までの大人しい犬のようなものとは全く様相が異なっていた。額に青筋が浮き、大人しげだった目が吊り上がっている。ああこの男も激高することがあるのだ、と思うも、抵抗するような気力は残っていなかった。ぐ、とシャツを引かれる。 「…広瀬はうちの部屋住みだった。その人間を侮辱するような事は許さない」 「…たかが部屋住みだろ、」 また頬に熱が走る。今度は至近距離から飛んできた矢立の拳に、奥歯が軋む音がした。折れたかもしれないな、と目を逸らした視界の端で、矢立の右腕を鞍瀬が止めている様子が見えた。 「…鞍瀬さん、」 「豪能の獲物うちで殺ったなんてバレたら後がめんどくせえからやめとけ、」 鞍瀬の声音にはさほど威圧感はない。制止は気持ち半分といったところなのか、振り切るなら振り切れとばかりに矢立の手首を緩く掴んでいるのがわかる。 それでも矢立は我に返ったのか、深く息を吐き出してから掴んだままの龍俊の胸ぐらを解放した。目を伏せ、咄嗟に取った自分の行為を恥じ入るように右手の甲を見詰めつつ、軽く眉を寄せて呟いた。 「…部屋住みだろうがなんだろうが、…一度組に入った人間は、…家族も同然だ」 殴った理由は家族を侮辱されたから。矢立の中では簡単な仕組みなのだろう。だが龍俊にとっては、酷く——遠い単語を耳にした気がした。 家族、なんて。 無意識に口角が歪むも、殴られた箇所が痛む。唇の端が切れたのか、それとも口内が傷付いているのか、唾液に鉄の味が混ざって不快だった。 「…家族なんて、…簡単にぶっ壊れんだろ、」 「……」 力のない声音に矢立と鞍瀬が耳を傾ける気配がする。申し開きがあるのなら聞いてやる、という空気が漂い始めている。 「家族なんて、簡単に殺したり殺されたり、…棄てたり棄てられたりするんだ。アンタらが言う家族なんて尚更そうだろ」 ヤクザが「家族」などと嘯くのは組織を維持する為、引いては部下を束ねる為の方弁に近い、擬似家族にしか過ぎない。安樂の口にした「駒」を留めて置く為の甘言だろう。 血が繋がっていた母は、父である男を殺した。親切にしてくれていた叔父は自分を殺そうとした。揺るぎない事実が龍俊の中に横たわっている。だから棄ててきた。家も、繋がりも全て棄てた。——くだらない、ものだ。 「…その家族すら、…知らない人間もいるんだ、」 静かな声音に戻った矢立が呟いた。将未のことだ、と感じたのは直感ではなく、未だに将未の顔が脳裏にあるからだ。 将未の事など何一つ知らない。 知ろうとも思わなかった。知る必要がないと思っていた。 1つひとつを辿ったところで意味は無いだろう。だが、龍俊の記憶の中には将未の1つひとつが鮮明に浮かんでは留まっていく。 夕食のテーブルに着くことを喜んでいた。 「おかえり」を言われることや、「ただいま」を口にすることを戸惑っていた。 確信は漠然としている。 だが、思い至る節は山ほどある。 ——初めから存在しないものと、与えられたものを途中で失くすこととは、どちらが辛いことなのだろう。 引力が働くように龍俊の中で線が繋がる。答えはまだ曖昧だ。曖昧なものは確かめなければいけないと思った。 将未は何も知らない。 何も持たない。 多分。おそらく。その多分を確認に変え、自分は将未に何かを言わなければいけない。 「…将未、」 目を強く閉じては開く。意識を正気に戻すかのように2度、3度と繰り返し、顔を上げた。見据える矢立の瞳を覗く。唾液を飲み下し、唇を開いた。 「将未、どこにいるんだよ」 声が掠れる。だが、言葉は明確に発することが出来た。矢立が微かに表情を変える。鞍瀬が片眉を持ち上げるのがわかった。 「ススキノにはもういないんだろ。アンタらのとこ破門になって放り出されて、豪能だって今まで利用してた人間放っておくわけじゃない。どっか別の組に行ってやって行けるような奴じゃない。住む場所1つにも困ってたんだ。…将未、今どこにいるんだよ」 安樂の元を離れ、ススキノを彷徨ってもなお、今死んでも構わないなどと思えない理由は龍俊の心の奥底に小さな付箋のように引っ掛かって揺れている。その存在を認めてしまうことは——自分にとっての、根本が揺らぐことと同じだった。 だが。 「…知って、どうする」 矢立がそっと口を開く。もう、先程のような突発的な激高はすっかり影を潜めている。龍俊もまた、静かな呼吸を繋げた。 自分が将未にした仕打ちに対して謝りたい訳では無い。 そう簡単に改心などしない。 ただ。 ただ——将未に、逢いたい。 「…あんな奴、…1人でなんて生きていけるかよ」 「……」 ぼんやりした男だった。 世間知らずの、ぼんやりした男。 自分がすることにいちいち驚き、喜び、笑っていた。 時折射す影だけがあの男の中に憂いの色を混ぜ込んだ唯一だった。 あんな男が世間を渡っていけるわけはないだろう。どこかで野垂れ死にしているのだとしたら、自分は将未を放り出したこの男を殺してやってもいいとすら思うも、そもそもの原因は自分にあるのだと立ち戻って慄然とする。固く拳を握り締めた。 「誰かが拾ってやらなきゃ駄目なんだ。まだ生きてるなら、誰かが拾ってやらなきゃならねえんだ」 将未は今どうしているのか。思う度に胸が軋むのは気の所為などではなかった。 逢いたいのだ、と気が付いたからにはもうどうしようもなくなってしまった。 逢いたい。それだけを口に出さず、殻に包んで呟いた。 矢立が緩く目を瞬かせる。何かを思案するように龍俊を見下ろした後、差し出すように口を開いた。 「…それは、お前の方じゃないのか…?」 「——…」 この男は、いつも無慈悲に胸を突く。 誰かが拾わなければいけないのは、自分ではないかと言ったのか。目には嘲っている色はない。哀れみの色もない。ただ純粋に投げかけられた問いかけに、龍俊の中で何かが噴き上がった。 背もたれに手を付き、弾かれたように立ち上がる。ほとんど同時に矢立のネクタイの固く締まった結び目に指を伸ばしていた。 「もう1回言ってみろ!!」 「やめろ!!」 どん、と音が鳴り、龍俊の胸が今度は物理的に突き飛ばされた。尻もちを着く形で再びソファーに身を沈めた龍俊と、龍俊の行為にほんの僅かに驚いただけの矢立との間に鞍瀬が立っている。長身の男は呆れ果てたように2人を見比べ、盛大に舌打ちした。 「いい加減にしろ。お互いブチ切れて殴り合うだけのつまんねえ喧嘩なら外でやれ。…輝、」 名指しされた矢立が背筋を伸ばした。この男は輝というのか、とぼんやりと思いつつ龍俊は仲裁に入ったつもりらしい鞍瀬を見上げるしかない。 「正論言えば良いってもんじゃねえだろ」 「……、」 どうやら窘められたらしい矢立が軽く眉を下げる。しばし間を置き、浅い溜め息を逃しつつ龍俊が形を崩したネクタイの結び目を指先で軽く整え、また龍俊を見下ろす。再び考え込むように龍俊の瞳を覗き込んだ後、意を決したように言葉を発した。 「…留萌だ」 「…は…?」 仲裁した後は2人から下がり、そっぽを向くように半身だけを向けていた鞍瀬が1度だけ目を瞬かせた。煙草の煙の向こうから矢立を見遣り、やれやれとばかりに短い髪を掻いている。 「広瀬は留萌にいる。俺の口からはそれしか言えない」 「ルモイって、」 それが地名であることくらいは東京からやってきた龍俊にもわかる。聞いた事はある。だが、それだけだ。縁もゆかりも無い。確か地図の上の方に位置する街だというぼんやりとした印象だ。街の規模や様子もわからない。そこで将未はどうしているのか。1人で生きているのか。誰かと一緒にいるのか。——行かなければと、思った。 勢いを付けたように立ち上がるも、足元がぐらついた。立ちくらみだ。同時に忘れていた空腹が襲う。さっき矢立に殴られたばかりの頬が思い出したようにじんじんと痛む。痛みを堪えつつ踏みしめる足元を見ると、薄汚れて傷付いた自分の革靴が目に入った。 みっともない程に——将未に見せていた自分かららは酷く遠く、ぼろぼろだと思った。誰かと別れたことによって打ちひしがれて当てどなく歩き、ヤクザに捨てられ、追われ、挙句の果てに殴られる自分など、想像もしていなかった。 今の自分は将未といた時の自分と比べて見る影もない。だが行かなければいけない。 将未に、逢わなければいけない。 「——行く」 矢立が後退する。止めも、背を押すこともしない。自分の役割は終わったということなのかもしれない。視界の隅で、鞍瀬がやはり呆れたように自分を見ているのが分かった。 静寂が戻った室内に壁掛け時計の針が動く音が鳴る。目をやると、時刻は日付を越えた頃だった。車を出そう、と思いつつ足を進めると、不意に将未と交わした会話を思い出した。 いつか車に乗せてやると言った。ドライブにでも行くか等と言ったかもしれない。 あれはいつもの方弁だっただろうか。 自分の思いなど覚えてはいない。だが、その時に将未が浮かべた笑顔は覚えている。 約束を果たさなければいけないと思うのは初めての事だ。 覚醒するような心地で雄誠会の事務所を出た龍俊を大粒の雪が包み込む。ススキノの端、ネオンの届かない通りを早足で駆け抜けた。

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