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「…で?良かったのかよ。教えちまって」 2人きりになった矢立の私室には鞍瀬が吐き出す紫煙が充満している。神原や広瀬の話になり、そこから豪能が絡むのであれば嫌でも込み入った話になるだろうと予想し、見張りも兼ねてヒデを退室させたのはやはり失敗であったと矢立は指先で眉間を揉む。神原を殴った右の手の甲はまだ痛いままで、慣れないことはするべきでは無いと1人鼻から息を抜いた。神原がいたソファーからはとうに温もりは消えている。今頃は矢立に申し付けられたヒデの見送りを受けて事務所の外に出ているはずだ。 「広瀬の居場所、」 指定席であるソファーの背もたれの上に腰を下ろした鞍瀬がつまらなそうに鼻を鳴らした。咥え煙草のフィルターから落ちそうな灰を片手に持った灰皿で受け止める。そんな鞍瀬を矢立がちらりと見上げ、自問自答するように視線を逸らした。正しくは、居場所までは教えてはいない。教えたのは所在地のみだ。 「…図星だったらしいので」 「お前は無意識に人の図星突くのやめとけよ」 いつか殺されるぞ、というのは自分達が生きる世界ではシャレにならない例えだろう。やめとけ、と忠告したところで矢立の場合は無意識であるからタチが悪いと鞍瀬は思っている。人間の中には、図星をつかれると怒り出す人間が一定数存在する。矢立の芯を食った言葉は時折——いずれ、命取りになりはしないだろうか、と。 それと。矢立が小さく口の中で呟いた。まだ何かあるのか、と見下ろす鞍瀬の視線を感じつつ淡い息を吐く。言葉を探して、選んだ。 「…正論を言ったので、」 鞍瀬の言葉をそのまま引く。正論を言ったつもりではなかった。だが、自分の口にしたことに対しての神原の反応を見るに、あれは間違ってはいなかったのだろうと思う。 正論を口にすることばかりが正しいことではないと鞍瀬は言った。事実、神原は自分の言葉に覿面に頭に血を昇らせた。鞍瀬の仲裁がなければ今度は自分が殴られていただろう。感じたままを口にするのは時に悪手だ。だがそれを引っ込め、飲み込むことが正しいか否かの判断くらいは矢立にも付けられる。自分はおそらく、間違ってはいなかった。 ——今夜の着地点は、神原を逃がすことだった。その事はススキノ駅からヒデの車で神原を運ぶ最中に漠然と決めていた。 神原が豪能に追われている限り、身柄をススキノに置いておく訳にはいかない。かといって一度破門にした男を雄誠会で預かることは出来ない。対外的には大した出来事でなくとも、この場合は既存の構成員に対しての印象が悪い。やがて大きなヒビに変化してしまう可能性のある組織内の不和は生みたくはない。 兄弟分にあるような鳳勝会に託すという選択もゼロではないが、他の組に迷惑をかけることもまた矢立の本意ではない。 神原が広瀬の名前に何も反応しなければ、おそらく自分は適当な場所に神原を逃がす算段を付けた。広瀬の居場所を教えたのは、あくまで神原とのやり取りを経た後の結果である。 「…詫びなければ、と、…思ったので」 付け足したのは矢立にとっての本心だ。 神原に正論を突きつけた詫びと。 広瀬を引き込み、放り出したことへの、詫びを。 伏せたままの矢立の手元を見遣り、鞍瀬が一際長く煙を吐き出す。やれやれとばかりに音を立てて首を鳴らした。 「まあなんでもいいわ。俺には関係ねえし」 鞍瀬の方こそ正論を言う。鞍瀬が気に留め、心血を注ぐのは雄誠会本体、というよりも、それを束ねる矢立の父親に対してだけである。 帰るか、と吸いかけの煙草を灰皿の上に押し付けつつ立ち上がる。背中の筋肉を解し、再度矢立を見下ろした。 「…なァ。もし神原がまた広瀬にちょっかい出したらお前どうすんだよ」 世間話の続きのように向けられた言葉に矢立が顔を上げる。 神原は広瀬を求めた。 広瀬は駄目な男だと口にする瞳が酷く渇望していたように見えた。 落ちぶれたような目をしていた神原が徐々に覚醒していくような気配を確かに感じていた。 口にしていたのは本心の裏返しだろうと矢立は思う。 さっきまで目の前にいた神原は、3年前に雄誠会にいた時の神原とは違う。 あの神原は広瀬を傷つけるような真似はしない。 神原は広瀬を求めている。 ——果たして、広瀬はどうか。 「もしもの時は、ケツは拭うつもりです」 矢立はいつも本音しか言わない。その事を熟知している鞍瀬がこれみよがしに呆れ果てた目をして見せる。矢立の方も鞍瀬の反応には慣れたもので、眉根を下げて苦笑した。 「…それにもし、…広瀬にもしものことがあったとしても、…向こうには本城がいますから」 丸投げだと罵られても、広瀬も神原も送り出してしまったからには易々と自分の手は届かない。 広瀬は本城の庇護の元にいる。本城は3年前に神原に利用された甲野の為に留萌に居る。その広瀬と本城が、やがて留萌に辿り着くであろう神原にどう反応するかは矢立にはわからない。 わからないことは考えても仕方の無いことだ。騒々しかった夜が更けるに連れて疲労を感じつつある矢立は、それでも本城に1本連絡を入れるか否かを考える。そんな矢立を置いていよいよ部屋を出ようとした鞍瀬が1度足を止めて振り返り、今夜初めての——それも、いかにも悪童のような目で笑って見せた。 「そういや、お前が人殴んのなんて久しぶりに見たな」 「…忘れて貰っていいですか」 好んで誰かを殴りたいものか。おおよそ若頭というには遠い性分にある男が、反省を顕にする犬のような情けない瞳で呟いた。

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