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EXTRA1 野良、蟹を食べる。 ─13と14の間の話─
朝から蟹が舞い込んできた。
これハネたやつだからさあ、将未ちゃんに食わせてやってよ。
閉店後の片付けの最中に常連の漁師が抱えてやって来た蟹はなるほど足が1本折れている。売り物にはならないそれはわざわざ茹でて持ってきた訳を尋ねてみると、何かの折に広瀬将未が蟹を食ったことがないと聞き及んだからだという。
将未は存外得な性格をしているのかもしれない。カウンターに載せた蟹を眺めつつ滄は腕を組む。バックヤードでは将未が相変わらず黙々と働いている姿が見え隠れしていた。
「…広瀬、」
横顔に声を掛けると、勤勉な従業員はすぐにとことことやって来る。蟹を食う、と言葉少なに示されたカウンターの上の海産物を見下ろした将未の目が丸くなった。
「…蟹、」
「…食ったことがないんだろう」
「……食べた。この間」
いつの間に、と今度は滄の目が丸くなる。自分の知らないうちに誰かがこっそり餌付けでもしたのだろうかと首を捻る隣で将未が小さく口を開く。
「この間…コンビニで買ったサラダに載っていた。蟹」
「……」
将未の顔に微かに得意げな色が射している。この街にやって来てからというもの、将未の経験値はめきめきと上がっているが、だが。
「…それは多分蟹じゃない」
「……」
「カニカマだ。…お前は騙されやすくていけない」
カニカマ。ぽつ、と呟く声が寂しげに床に落ちた。ガッカリさせるつもりも痛いところを突くつもりもなかった滄は詫びるように包丁を取り出し、蟹の足に刃を当てる。慣れた手付きで音を立てて脚1本を切り離し、太い芯を割るように切込みを入れた。カウンターの引き出しから蟹フォークを探し出すと両方を将未に手渡した。
「食え」
「…ありがとう、」
律儀な礼と共に受け取る将未が首を傾けながら殻に指を掛ける。硬い殻はぱき、と小さな音を立てるだけで身は露出しない。ますます首を傾げながら、肩に力を入れ、手にした蟹フォークを勢い良く脚の付け根に突っ込んだ。
「…貸してみろ」
そう言えばこの男は蟹を食ったことがないのだった。忘れていた訳では無いが、手付きがあまりにも危なかしい。眉を垂れる将未の手から脚を受け取った滄が流暢な手付きで蟹の身を取り出し、まな板の端の上に置いた。
「ほら、」
そのまま手でいけ、と促す滄に従って将未がそっと身を摘みあげる。小さな1口を噛みちぎったかと思うと、その顔がぱっと明るくなった。
「……っ!」
「美味いか」
反応を見ると聞くまでもない。将未は無言でこくこくと頷くことしか出来ないが、初めて食べた蟹は口に合ったらしい。
こんなに美味いものは初めて食べたと目が言っている。
なるほどこの男を餌付けするのは容易い気がしてきた。
ものを食わせる甲斐のある男は好かれるだろうという気もする。
「…もっと食え」
「滄も、」
ようやく口にした言葉がこれだ。眉根を下げたまま向けられるそれに滄が鼻で息を抜く。
「食うから」
顕著な反応と、素直さと純粋さは美徳だ。
そして広瀬将未は、意外に得な性格をしているのかもしれない。
それらを口にすることなく思い巡らせながら、滄は2本目の蟹の脚に包丁を入れた。
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