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冬は、留萌という街を荒野に似た景色へと変えている。北の果てに近付く地域は元々雪が多く降る。加えて、混じり気のない寒気が海側からやって来る場合には、冬の海の香りが混ざった風が街全体を覆うように吹き付ける。時に吹雪となって吹き荒ぶその風は、決して人口の多くは無い、都会と呼ぶには程遠い小さな街を容赦なく撫でては過ぎ、12月の半ばの街の景色を荒涼としたものへと変えて行った。
それは比較的建物の多い駅前も例外ではない。夜であるというのに雪を含んだ雲がどんよりと垂れ篭める空は灰色である。暗い夜空に比べると不思議に明るさを帯びる空の下、将未は夕方から降り出した細かい粒の雪の中を顔を伏せながら歩く。1人黙々と歩くその手には滄の店が日頃から懇意にしている酒屋で購入してきたウィスキーのボトルが握られていた。荒天が続く今夜は客が少ないだろうと踏んだ滄の予測が珍しく外れ、開店後すぐから店は常連の客達で賑わっていた。うっかり切らせたという銘柄のウイスキーを、将未は龍俊に買い与えられた上等なコートに包み込むように大切に運んでいる。
粉雪に霞む街灯を目印に道を辿り、ようやく店に帰り着いた。ドアを開けると、頬を包み込む暖気に無意識に息が漏れる。お使いの帰還に囃し立てるような客の声に眉を垂れつつ顔を上げると、カウンターの向こうに立つ滄と目が合う。雇い主は、夜の使いに出した将未が無事に帰ってきたことに安堵したようにほんの微かに目元を緩ませた後、すぐにいつもの表情の薄い顔へと姿を変えた。
「…おかえり、」
「……ただいま」
カウンターの上、酒のボトルをことりと置いてから将未はすぐにバックヤードに引っこもうとする。接客はしていない。滄がさせていない向きもある。前髪を濡らした雪の粒を指先で払ってから、シンクの中に溜まったグラスとスポンジを手に取りつつもう一度滄の顔を見遣ると、ほんの一瞬だけ目が合い、すぐに逸れた。
滄と寝たのは1度切りだった。
一夜のそれは明らかに互いを慰めるようなセックスだった。その事を、その夜のことを滄がどう思っているのかは将未にはわからない。あの交わりは何だったのかと確かめる言葉も持たない。ただ、あのセックスは互いに情を通じて行ったものとは違うことは解る。将未の中には龍俊がいて、滄の中には甲野という男がいる。どちらも、自分の中に棲む男のことを忘れられない。焦がれるような──とうに想う相手を失くしてもなお消えはしない情が呼び起こす渇きのようなものを慰め合うだけの行為だった。
いくら誰かと身体を繋げたところで埋まらない箇所がある事を将未は昔から知っている。一時、龍俊と居た頃には埋められていた寂しさや空虚を形にしたような穴はまたじわじわと広がっている。その空虚を抱えたまま、現在の将未は淡々と日を刻むだけだ。
埋められない場所があるのは滄もまた同じなのだろう。
静謐な感情の上に、あのセックスが生まれた。
客にお代わりのグラスを差し出してから滄がのそりとバックヤードに入ってきた。既に泡だらけになっている将未の手を見下ろしつつそっと隣に立つ。いつもの動作だった。
「将未、」
あの夜から、滄は将未を将未と呼ぶ。ほとんど変化のない日々の中で、顕著に変わったことの数少ない事柄だった。顔を上げる将未とは対象的に目を伏せる滄の横顔が陰る。目の下に、かすり傷があった。
「……今日は、寒いな」
それは符丁だった。その短いその言葉の意味を理解している将未はほんの微かに笑って浅く頷く。
「…うん。滄、」
それだけで、会話は終わった。
店を閉め、冬の遅い夜明けを待つ部屋に将未は1人眠る支度をしながらも階下に耳をそばだてている。ストーブが炊かれる音だけが部屋に満ちているものの、決して頑強な作りではない建物の中では階下の気配はよく伝わる。将未が出来る店内の片付けは終わった。まだ何か物音を立てている滄の様子が床板を通して伝わってきていたが、やがてその音が止まる。程なくして、ゆっくりと階段を昇る足音へと変わった。
静かで重たい足取りを聞きながら将未はソファーから立ち上がる。そのどれもがいつしか決まった動作になっている。出迎えるわけでもなく、手持ち無沙汰を顕に立っている将未を部屋を訪れた滄が少し寂しげ、何かを反省するような瞳で見やった後、低く、呟くように──羞さを隠すように、ぽつりと呟く。
「…寝るか、」
頷く将未の脇を通り、ベッドへと向かう。大の男が二人で使うには狭過ぎるベッドを軋ませて乗り上げる滄の後に続いて将未も縁に腰を下ろす。厚手の布団を捲りあげる滄の無言の動作に導かれるように身を横たえると、やはりいつもと同じ動作で滄が片手で将未の体を包み込む。布団が肩まで掛けられる頃には将未は頭部を滄の首元に預けるような形で瞼を落とす。滄の腕や胸板が薄い寝巻きに包まれた将未の細い体を抱え込んで身動ぎし、やがて動作が止まる。
「…おやすみ、」
「おやすみ。…滄、」
その一言を最後にいつしか呼吸と鼓動が揃って重なり合い、静寂が訪れる。耳を澄ませると窓の外を吹き荒ぶ風の音が暖房器具の稼働する音に混ざりあう様子を将未はじっと聴いている。
滄の腕の力が少しだけ抜け、やがて寝息が耳に届くまで将未は意識を保とうと務めることにしていた。
自分がいることで──自分を腕の中に収め、寄り添うことで滄が眠れるのなら、それで良いと思っている。
滄が自分に求めるものは、これまでに出会った男たちのそのどれとも違う形で、ただひたすらに穏やかな時間だった。
身体を直接重ね合わなくとも、互いに情を通わせなくとも、胸は暖かくなり、ほんの一時でも満たされ、深い眠りに落ちることの出来る夜はこうして時折訪れる。誰かと身を寄り添わせて眠るだけで得ることの出来る安堵というものを将未は滄の傍で初めて知った。龍俊といた頃にあった万能感にも近い幸福感とも色が違う。滄に欲は見えず、穏やかな時間を求められているのだと思い始めている。
このままこの街で、滄とこうして穏やかに過ごして行くことが正しいことなのだろうと感じるのはいつも眠りに落ちる間際のことだ。
喧騒と猥雑さと──陰りが落ちる都会に戻ることなく、雄誠会のようなヤクザ達とは無縁で、例え将未が無自覚であっても、誰かに搾取を受けることなくこの街で生きていくことは、将未にとっても悪くはないのだろう。
だが、将未の胸の奥には未だ空虚が蹲っている。
それは恐らく、決して口には出さない滄も同じだろう。
互いに胸の内に忘れることの出来ない人間がいる。傍に居ないことが、言葉を交わせないことが、身体を重ねられないことが寂しいと感じる存在がいる。
空虚を慰め合い、孤独を分け合うように抱き合って眠ることはやがて何かを産むだろうか。
いつしか互いに互いの中の人間を忘れた時には、この慰めでしかない行為が同じ形の情へと変わるだろうか。
滄が、あの何処か気恥しげに、恥じるように口にする符丁を使わなくても済む日は、それは互いに想いを寄せ合った日なのかもしれないが、果たしてそんな日は来るのだろうか。
自分は──いつ龍俊のことを忘れられるのだろう。
目を上げる。暗闇の中、滄はごく静かな寝息を立てて眠っているものの、夜目に映る表情はさほど穏やかなものではなかった。眉間に寄る皺を眺めてから目を伏せる。龍俊さん。小さく呟く将未の頭上で、滄の唇が将未とは全く違う形に動いたような気配があり、体に触れる腕がほんの少し強さを増した。
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