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荒野を走っているようだ。 時刻は朝方を過ぎているが冬の日はまだ明け切らない。雪だけが白く輝く、オレンジ色の灯りに照らされる、車窓からではより立体感を掴むことが難しくなっている広い道を龍俊の車はひた走る。道の両脇から立ち上る雪煙の中、幹線道路はただひたすらに真っ直ぐに伸びていた。 昨夜、連れ込まれた雄誠会を飛び出すように出た後、すぐに自宅へと引き返した。久方ぶりに足を踏み入れた深夜の自宅で一通り、とはいえどれくらいの期間の遠出になるのかも定まらないままにボストンバッグの中に必要な荷物を作り、やはり久々に乗り込む愛車に乗り込んだ。冷えた車内、白い息を吐きつつカーナビに矢立に教えられた街の名を入力し、出発を促す案内が始まる頃には朝方近くになっていた。 ナビを頼りに札幌を出る辺りまでは良かった。天候も悪くは無い。朝方の交通量の少ない道を、雪道故に法定速度を守るじれったい速度で走っていたものの、やがて景色の変化の少ない、恐らく冬場以外はだだっ広い畑ばかりが広がっていると予想されるような平坦な田舎道に差し掛かった頃に急速に眠気に襲われた。当然である。昨夜は眠っていない上に、長期間不規則な生活をしていたのだ。おまけに、得体の知れない──恐らくは豪能組の手先の男から逃げる為に全力で走った事や、雄誠会で矢立と対峙した事は龍俊の体内に蓄積していた筈の疲労と眠気を急速に思い出させたらしい。疲労は無理はないかと眉間の皺を揉んだ直後に脇のスレスレの所を大型のトラックが通り過ぎて肝を冷やした。 ナビは留萌までの所要時間を2時間半程だと示していたが、そもそも自分は田舎道を運転した経験もないのだ。まして雪の深い道など走ったこともない。車内の暖気に負けてしまわぬうちにと数メートル走った場所にあるコンビニの看板を頼るように車を走らせ、田舎特有の広大にも見える敷地の駐車場に滑り込んで停車する。運転席に座ったままシートを倒し、着込んで来たコートを掛布代わりに横たわって目を閉じた。コンビニの人間に起こされたのならその時はその時だ。スマートフォンを取り出し、適当にアラームを設定して機械を助手席に放る。必要なことを済ませた途端に一層重たくなる頭の隅で、今夜の宿のことを考える。どれくらいの間留萌に滞在するのかはわからない。将未は何処にいるのか。留萌に着いたとてどうやって探すのか。そもそもまだ留萌にいるのか。留萌で将未は、1人で暮らしているのか──。 そんな細かいこと全て、何もかもを考えることなくススキノを飛び出してきた。こんな風に計画性の欠片もなく無鉄砲に街を飛び出したのは言うまでもなく、あの生家から、叔父の手から逃げてきた時以来だ。 自分はあの頃とは違う。あの、何も手にしていなかった、なんの後ろ盾も無かった頃とは違う。年齢を重ねると共に経験を重ねた筈だ。必死に身に付けたものは確かにある。 そこまで思い、思い至る。自分は今も、なんの後ろ盾もないのだ。何も持たなければ、失くすものもない。ただ将未への思いだけが、衝動的に龍俊をつき動かしている。突き動かされることが、心地いいと思う程に。 将未に会いたい。 「会いたいな、」 口に出してしまうと想いは一層募る気がした。自分は大切なことも、そうでないことも、誰かに対して口にしたことがないのかもしれない。感情や思いを全て隠し、時に波立つ胸の内があったとしても、それをなかった事としてやり過ごすことを覚えたのはいつからだったか。そうする事があの都会で1人生きる術であると気が付いてたのはいつの頃だっただろうか。感情など必要が無いのだと知ったのは、いつの頃からだったか。 将未は思う全てを口にして生きている男だ。 ヒーターを入れた暖か過ぎる車内は瞬く間に龍俊を眠りへと引きずり込む。いつか将未をこの車に乗せるといった。約束を、果たしたい。意識を手放す瞬間に、誰もいない助手席を眺めていた。 ○○○ 実に久方振りに貪った深い眠りだった。スマートフォンのアラームには眉を寄せたのみで、日頃の習慣によってほとんど無意識に音を消してしまったものの、その音は眠りを1段浅くし、浮上する意識の中で車のウィンドウを叩く音を捉えた。 慌てて身を起こすと、ぱさ、と落ちるコートの向こうに若い男が案ずるように車内を覗き込む目を見た。朝の光の中、寒そうに佇む男がコンビニの店員であることは制服でわかる。軽い狼狽を覚えて何かを言おうとするも、それより先に店員は生きているのならそれで良いとばかりに安堵する様子を見せて車から離れていった。 スマートフォンを手繰り寄せて時間を確かめる。思っていた程長くは眠っていなかったが、熟睡することが出来た。耐え難いものに近くなっていた眠気は消え、頭はクリアになっている。煙草を1本だけ吸ってから車外に出ると、微かに潮の香りを含んだ風に全身を撫でられた。コートを羽織り、朝の寒さに身を縮めて歩き出す。周囲を見渡すと自分と同じようにこの場を休憩所にしている大型車や乗用車が点々と、数台停まっている様が見えた。数キロメートルおきに、それも道中に不規則に現れる田舎のコンビニでは駐車場を休憩所とすることは珍しくはないことなのかもしれない。先程の店員の様子と重ねて思いつつ除雪された雪道を踏み、店内の温かさの中に身を投じると、レジカウンターの向こうに立つ店員が嬉しげにいらっしゃいませ、と声を張った。 調達した朝食を手に車内に戻る。温かいコーヒーを啜りながらスマートフォンを操作し、留萌市にある宿を検索した。留萌がどれ程の規模の街なのかもわからない。目指す場所はあまりに漠然としているのだ。冷静になると様々にやる事が思い浮かぶが、とりあえずは目指す場所を作らなければならない気がする。幸いめぼしいビジネスホテルと思しき物件は数件であるが見付かった。カーナビに、駅からそう遠くはないホテルの場所を入力して行き先を再設定する。サンドイッチの包装を解き、口に咥えながらハンドルを握る。──こんな物でも、まともな食事は久方振りだと気が付いては1人苦笑し、1泊の恩があるコンビニの駐車場からゆっくりと車を出した。 空からは相変わらず疎らに雪が降っている。田舎道の広い道路であるとはいえ、都会の道以外はほとんど運転したことの無い龍俊にとっては吹雪いていないことが最大の幸運であった。車の量は深夜や明け方頃に比べると幾分か増えているようではあるが、それでも札幌市内の道と比べてしまうと格段に少ない。降り積もった雪が踏み固められた、真っ白な道を龍俊の車は走る。 やがて左の車窓がぱっと開けた。不思議に思って横目を向けると、遠くに1本線を引いた景色が広がっている。遠くに望んだ景色は薄く灰色がかった空と、暗い色の水面とでくっきりと割れていた。 海だ。 雪を含んだ薄明るい空の色と、濃い灰色とに分けられた景色は延々と車窓の向こうに続いている。ナビが案内するままには走る車はいつしか海岸線に出ていたのだろう。やや速度を落として目を凝らしてみると、荒れた冬の日本海には細かな白波が立っているのがわかる。ふと見やったカーナビの小さな画面は、半分以上が海を示す水色で塗りたくられていた。 真っ白い道は何処までも伸びている。頭上には尽きることの無い空が広がり、左手にはやがて異国へと辿り着く筈の冬の海がある。この道の先には何があるのだろう、と陳腐な言葉が浮かんだが、龍俊にとっては北海道の奥地にも感じる北の景色は想像が及ばない。 自分はきっと、何も知らずに生きてきた。 知らなくても不自由はなかった。上札してからはススキノという歓楽街を生きる術だけを身につけ、知っていればそれで良かった。その上で、将未の経験の浅さを内心で嗤っていた。ものを知らず、経験値の低い男ほど騙しやすいものは無いと思っていた。事実将未はあっさりと、呆気ない程に簡単に自分の手中に落ち、捨てられた。世の中には搾取されるばかりの人間がいて、それは往々にして世間に対する経験値の低さが無関係ではないだろう。将未はその類の人間だ。奪われるばかりの側の人間なのだろうという認識は変わらない。物知らずは時に命取りにすらなる。 だが、自分はそんな将未と比べて何が違うのだろうか。 少なくとも将未はこの景色を知っている。龍俊の見たことの無い景色を知り、寒さを知り、土地や人を知っている。 自分の知らないことと将未が知っていることとの違いや量にどれ程の差があるのかなど考えるのは無駄なことだ。だが、現在の自分は将未と同じ景色を見たいと──将未の隣で、同じ物を見て、知らないことを知りたいと感じている。ただ将未に会いたい。その思いは最早渇望に近いものへと変わっている。 この先に何があるのだろう。それを将未は知っているのだろうか。知らないのであれば、共に見に行くことは可能だろうか。 まだ、自分に可能性はあるだろうか。 将未は──自分を許すだろうか。 衝動はひたすらに龍俊を突き動かす。咥えていた煙草を灰皿に放り、強くアクセルを踏み締めた。 〇〇〇 荒涼とした街だ、というのが留萌の街に対する初めての印象だった。 コンビニを出てから1時間あまりを過ぎた頃、龍俊はようやく留萌市に入ったことを示す看板を目にするに至った。道端に立つ簡素なその板の表示だけで逸る胸を抑えながらナビに従い運転しつつ、速度を落とした車内から街の様子を見渡すにつれ、半ば呆然とするような心地に陥る。 北海道の田舎の街とは皆こういうものなのかと思う。 まだ市街地までは遠い事や、今が冬場であることを加味しても、街中に人通りがほとんど無い。留萌は自治体としての規模はそう小さくはないはずだが、海岸線をなぞる車の窓の外には人影を見かける事が少な過ぎる。時折この寒空の下、町外れに住んでいると思しき年寄りがゆっくりとした足取りで歩いていく姿を見かけるくらいで、漠然とした不安が過ぎる程に人を見かけることが無かった。 都会でしか生きたことの無い龍俊にとって、留萌という街はほとんど何も無いに等しかった。市街地に進むにつれてそれでも建物や道行く人、車の量は増えていくものの、これまでの人生の中で見慣れていた景色とは圧倒的に違う。雪のない季節であれば印象は違ったかもしれない。だが今の留萌は、寒々とした冬空の下、箱の中にぎゅっと閉じ込めたように狭く小さな町であるように感じられた。 道中で宿泊先として目星を付けていたホテルは小綺麗なビジネスホテルだった。駐車場を見付けて停め、少し早足でエントランスの玄関を潜る。黒のコートを翻して現れた龍俊の存在に気が付いたフロントに立っていた男は職業柄なのだろう、さり気ない目線で龍俊の上から下までをさっと眺めた後に、速やかににこやかな笑顔を浮かべて姿勢を正した。 平日の午前中である。妙な時間にやって来たにも関わらず、飛び込み客を歓迎するかのように部屋は空いていた。喫煙が可能である部屋を指定した後、宿泊の日数は、と問われた龍俊はしまった、と軽く眉を寄せる。とりあえず七日、と適当に口にした数字にもフロントの男は嫌な顔を見せることはなかった。田舎町の暇なホテルなのだろう。都合の良いように判断し、部屋を整えますのでと言われてエントランスのソファーで数分待たされた後に自分の手で荷物を運んで部屋に向かう。エレベーターを経て、今時のホテルでは珍しい旧式の鍵を使って開いたドアの向こうに広がる小さな一室は上札した頃、身分や名前を偽りながら転々とした怪しげなビジネスホテルによく似ているようで、ほんの一瞬だけ龍俊を立ち竦ませた。 荷物を置き、着替えるでもなく早々に部屋を出る。備え付けのデジタル時計の時刻は昼前を指していた。小さい街だ。一通り虱潰しに当たれば何とかなるだろうかと目算もなく部屋を出る。小綺麗ではあるが、やはり所々が古臭い内装を脇にもう一度フロントに戻ると、先程受付をした男がまだ立っている様子が見えた。コートのポケットからスマートフォンを取り出しながら歩み寄る。龍俊の気配に気が付いた男が目線を寄越した。 「出掛ける。...この男、見たことがあるか?」 カウンター越しに見せたスマートフォンの画面には将未の写真が大きく表示されている。いつだったか、台所の片付けをしている彼を不意打ちで撮ったそれは将未の驚く表情の中にどこかぼんやりとした面が現れている。消去せずにいて良かった。将未と別れてから見ることも避けていたその写真をフロントの男はじっと見つめた後に品の良い笑顔で緩く首を傾けた。 「...さあ...。わたくしは見たことがありません」 ここに泊まったことがあるか、と問わなくて正解だったと龍俊は思う。いくら田舎のホテルであっても個人情報を保護するという概念はあるだろう。始めから当たりを引くとは思っていない。これはこれからに向けての予行練習だ。 わかった、と機械をしまい込む龍俊を見る男の目は不審な色を見せてはいないだろうかとちらりと見やるも、表情の変化はないように思えた。 「行ってらっしゃいませ」 出掛ける、と呟く龍俊に向かい、恭しく頭を下げる男を背にエントランスを潜る。雪はいつの間にか止んでいて、広い空はよく晴れていたがその分低く下がった気温に思わず身震いをして早足で駐車場へと向かう。運転席に乗り込み、急いでヒーターを入れつつも、はたと顔を上げた。 徒歩で探すか車で探すか。 相変わらず、細かいことは何も計画していない。普段であれば──安樂の命令であれば──ある程度は綿密な計画を練る。その事がまるで嘘のように今の龍俊は衝動のままに動いている。冷静にならなければ、と思いつつも何から始めることが正しいのかがわからない。とりあえず煙草を1本抜きながら片手でスマートフォンを取り出す。フィルターを咥え、穂先を焦がす一方の手では検索画面を立ち上げていた。 留萌市の面積や人口を検索してみるも、比べる対象が札幌やススキノではさほど意味が無いことに気が付いた。むしろ人口2万人弱の中からたった1人の男を見つけることなど可能なのだろうかと思うと一気に途方に暮れかける。 車内に充満する煙を逃す為に細く窓を開けた。冷たい風が吹き込んでくるも、ついでに周囲の景色を眺める。今いる場所は市街地には違いないだろう。建物はそれなりに立っている上に、街に入った時よりも格段に人通りがある。交通量も多いようだ。雪煙を上げながら走る車を何気なく眺めてからカーナビを立ち上げた。現在地を表示させ、マップを辿る。この市街地の延長線上に駅があるらしい。行こう、とハンドルを握った瞬間に不意に思い至る。──この車は、目立つのではないか。 見るからに物騒さを醸し出すフルスモークの外車を乗り回すような人種は果たしてこの街に存在するだろうか。もし存在するとしてもそう多いとは思えない。自分と同じような車を持つ人種と関わることも少なくとも今は本意ではない。余計なことに頭を向けたくないのだ。 意を決して窓を閉め、車のエンジンを切る。半分ほど残った煙草を咥えながら運転席を降り、後ろ手にドアを閉めて歩き始める。薄く積もった雪を踏む龍俊の足は、駅へ向かって歩み始めた。

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