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「さっむ…!」
スマートフォンのナビはホテルから駅までは十数分の距離であると示していた。それくらいであれば、と車を降りた龍俊は歩き始めて5分が経過したか否かのうちに冷え切る体から吐き捨てるように呟いた。
街中は龍俊が想像していた道程とはまるで違っている。ホテルの周りは小さな街なりの繁華街であるらしく、建ち並ぶ店の前ではあちこちで雪かきが行われているようで、またどこか近い場所でざっ、とスコップを使う音がした。
上札してからもう何年が経ったかなど数えることは忘れてしまった。しかしその年月の分だけは龍俊は札幌の冬や雪にはそれなりに慣れたつもりだった。だがこの街の景色は龍俊が知っているものとは違う。路肩に積み上げられた雪は当たり前に背丈をゆうに越している。雪の壁の厚みは車道も歩道も圧迫して幅を狭め、足元には降ったばかりの柔らかい雪がふかふかと積もり、店舗や住宅の無い道などはほとんど踏み固められずに陽の光を受けて輝いている。龍俊の履く靴は雪国に住む人間らしく当然のように靴底には滑らない工夫が施されているが、靴そのものはスノーブーツや長靴の類では無い。上等な革で出来た靴の上から入り込む雪にあっという間に靴下が濡れた感触が深いだった。降り積もり、地面にある雪は立体視を上手く撮ることができず油断すると道の端にこんもりと小さく積もった雪山に足が埋まる。おまけに海が近くにある為なのか、札幌よりも北に位置する地方の為なのか気温は酷く低い気がする。微かに漂う潮の香りを嗅ぎつつコートの前を閉めて、マフラーに鼻先を埋め、セーターを隠してもなお足元から這い上がる冷え込みに辟易としながらそれでも龍俊は駅を目指して黙々と歩いている。
田舎の冬は都会の冬とはまるで違う──。
将未は本当にこんな街で1人生きているのだろうかと思いを馳せる。手掛かりは何も無い。留萌にいる、と口にした矢立の顔を思い起こす。嘘を言ったり、人を騙すことの出来ない男だということはわかっている。矢立の言葉に嘘はないだろう。ただし、将未が矢立の預かり知らぬところで留萌からいなくなっていなければの話だ。
予測のみを立てることしか出来ない状態は次第に心細さを生み出していく。吹き付けるでもなく吹く冷たい風のせいだろう。弱気になるな、柄にもなく言い聞かせようとした頃、ようやく駅前の道が見えてきた。
駅舎は四角く灰色だった。札幌の駅とも、札幌に訪れる前に知っていた駅とも違う。決して高くは無い建物を見上げ、古びた、地方の駅とはこんなものだろうかと考える。足早に通りを渡り、狭いロータリーを越えてやっと駅の構内へと足を踏み入れた龍俊は、今まで動かしていた体を必要以上に温めようとするかに炊かれた暖房の空気にほっと息を逃した。
不意に醤油の香りが鼻をつく。つい視線を引き寄せられて見ると立ち食いそばと思しき店があった。そのまま視線を巡らせる。列車がやってくる頻度はわからないが、駅構内は閑散としていた。窓口の中では少ない駅員がのんびりと働いている様子があった。
龍俊の姿に気が付いた駅員がこちらへと視線を寄越す。目立つ風貌だ。じっと凝視される気配は感じたものの、あからさまに怪訝な顔はされない。そのまま歩み寄り、前置きをしても仕方がないと先程ホテルマンにした時と同じようにスマートフォンの画面を表示させた。
「──この男、探してるんだけど。1年くらい前にここに来てるはずで、」
窓口に貼られたクリアプレートの向こうから駅員がスマートフォンの画面を覗き込む。制帽の庇を軽く上げ、目を凝らしたかと思うと、緩く首を傾けた。
「さあ…、ちょっと自分は…、」
困惑を微かに滲ませながらも駅員は愛想の良さを顕に眉を垂れる。そうか、とスマートフォンをしまい込む龍俊の姿を眺めるでもなく駅員は構内をぐるりと見渡し、今度は爽やかそうな笑顔を覗かせて目を細めた。
「それなりに人の往来はありますからね、ここは、」
駅員が言うには、留萌は札幌のある道央圏とこの先に続く道北を繋ぐ街だという。つまり、南からも北からも人は訪れて行き来する。田舎のように見えるがあながちそうでもない、と言いたげに駅員は姿勢を正して龍俊の次の言葉を待っているようだった。
龍俊自身がこの街の人間ではないことは見抜かれているのだろう。そうであるのなら旅人は旅人らしくしておいた方が都合が良いと思った。駅のホームへと目を向ける。冬空の下に伸びる線路に列車が入ってくる気配はなかった。
「…なら、この街に出入りするには車と列車以外の何かはあるか?」
「バスですね。沿岸バスという長距離のが走ってますから。ターミナルがあるくらいで、」
駅員はやはり少し誇らしげだった。彼はこの街が好きなのだろう。
それよりも、留萌への出入りは車と列車とに限られていると思い込んでいた龍俊は軽く目を瞬かせる。長距離バス。後から検索をかけようと脳裏に書き留めつつポケットの中のスマートフォンに触れる龍俊の目から逸れるように駅員が人差し指を中に上げた。
「ここから歩いて10分ちょっとくらいかな。すぐですよ」
「…10分…」
たった今スマートフォンのナビで10分ちょっとだと示されていたホテルからの道を大幅にオーバーしてここに辿り着いたばかりだ。明らかにげんなりする思いが思わず顔に出た。1度ホテルに戻ってやはり車を取って来ようか──。龍俊の反応に苦い笑いを堪えたような駅員は改めるように旅人の上から下までを眺め、どこか感心したように息を吐いた。
「お兄さん、刑事さんかなんかかい。マチの人だねえ」
「……はあ…、」
人の良さそうな駅員ののんびりとした物言いに思わず溜め息に似た物が漏れた。人を探すのであれば刑事だと思われた方が都合が良いかもしれないがいつかボロが出た時に困るだろう。曖昧に笑う龍俊の腹が鳴った。熱気と蕎麦の醤油の香りが充満している駅舎の隅で、龍俊は気恥しげに鼻の頭をかいた。
○○○
来た時と同じ道を辿って苦労しながらホテルに戻り、ついでに靴下を履き替えたものの部屋の中の暖房を最大限に効かせたところで濡れた靴はすぐには乾かない。乾燥機の類を借りられるだろうか、それともどこかでブーツを調達しなければいけないだろうかとベッドに寝転びながらスマートフォンを操作していたものの、暖房の熱気はすぐに蓄積した疲労と眠気を連れてきた。あまりに計画性がない上に、1度宿に戻ってしまうと外に出ることが億劫になるのは世の常のようなものだろう。留萌に辿り着いただけで上出来として今日はもう止めしようか──スマートフォンをベッドに放り出して着たままのセーターを脱ぐ。普段かかない汗の匂いがふわりと立ち上った。
将未がもしこの街を出ているのであれば消息を追う手立ては完全に無くなる。一方で、将未が今もこの街にいるのであれば焦ることはないだろうという開き直りが生まれつつある。開き直った感覚は久しい──実家を飛び出し、札幌の街を放浪し、あの安樂に拾われた時に感じたものに近い。先は見えない、だが、方向性は見えつつある。
衣類を脱ぐついでに身を起こすと、客室の窓から街の風景が見下ろすことが出来た。高層階、というほどに高い場所ではない。だが街の近景を見渡すには十分だ。先程街中を歩いている時には眺める余裕のなかった街はやはり繁華街に近いらしく、ホテルの足元から駅に続く道には大小の店舗がそれなりに建っている区画だとわかる。チェーン店の類の看板も白い雪の中でぽつぽつと自己主張している様が見えた。あの駅員の言う通り、この街はそれなりに開けた街なのかもしれない。そんな街で人ひとりを探し出すことなど可能なのだろうか──。
弱気の風が吹く度に将未の顔が脳裏に浮かぶ。会いたい、と口に出すと一層思いの強さは増すような気がした。先程帰ってきた道の途中は小さな歓楽街の様相を呈している箇所があった。明日はあの辺りからまわってみようか。思いながらまた音を立ててベッドに倒れ込む。顔中で受け止めるリネンの香りが心地よい。強過ぎる程に効かせた暖房の中、一日目はそのまま深い眠りに落ちてしまった。
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