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勝手口から入った滄が違和感を覚えたのは、いつの間にか見慣れていた風景が普段と異なっていた為である。見渡す、と称するには狭いバッグヤードに人影は無く、次いで顔を出した店内にも人気は無い。早い日暮れに暗くなっている店内の照明をぱちぱちと点灯させながら再度室内を見渡しているうちに、通常の営業日であれば滄がやって来る前に稼働している暖房が今日は稼働していないことに気が付いた。火の気のない店内は全体がひんやりとした空気に包まれている。 滄は毎日甲野のいる病院から真っ直ぐにこの店に出勤する。時折細かな買い出しを経て、店に出勤するのは夕方近くではあるが、勤勉な従業員である将未はいつも先にバッグヤードに立っていた。 ただそこに立っているだけではどこか頼りなく、いつも肩を落としているように見えた将未を観察していた滄が、少しでも格好がつくだろうかと購入して与えた濃紺のエプロンを身に付け、せっせと開店準備に励む将未の姿が今日は見当たらない。まだ自宅にいるのだろうかと訝しがるでもなく視線を上に向けた所で、ようやく背後のドアが開いた。 「──あ…。…すみません。遅くなって…、今準備を、」 「…いや…」 現れた将未はシャツとスラックスのいつもの軽装だった。2階の自室から店へとやって来るまでに外に出る必要は無いから軽装であっても問題がない。だが、なんの塩梅なのか今日の将未は必要以上に寒そうに見える。先に到着していた雇い主に心底済まなそうに眉を下げて深く頭を下げた後、ぶる、と少し身震いしながら慌てて暖房のスイッチへと駆け寄ろうとする。店内用の革靴の底が鳴る音を聞きつつ、気にするな、と声を掛けようかと横顔を見やった滄はやはり違和感に捕らわれた。 「…将未、」 こっちに来い、と手招きする。1度足を踏み出した男が戻ってくる体を柔らかく捕まえ、ぺた、と額に手を当てた。滄の広い掌の下で瞠目する将未の目元がほんのり紅潮している事には、距離を詰めるまで気が付かなかった。室内の照明自体が薄暗い為だ。 「…熱があるんじゃないのか」 日頃からどうにも何を考えているのかわからない節がある将未の眼差しがいつも以上にぼんやりとして見えたのはこの所為だと合点がいく。掌を当てた将未の額はほかほかと暖かく、明らかに平熱では無いことは素人の滄にもわかる。向けられた言葉に驚いたのは将未の方だった。 「…熱…?」 「…風邪かなにかか。…休め。寝てろ。暖かくして寝ていろ、」 「でも、…店、が、」 店は──本来は、こんな場末のスナックなど、将未がいなくとも回るのだ。そもそもずっと滄が1人で切り盛りしていた店だ。そして今日1日くらい店を開けなくとも自分たちや客にはなんら不便も支障もない筈だ。冬場はどうしても客足が鈍る。 だがきっと、今日店を開けないことは将未に要らない気を遣わせることになる。この従業員は真面目だ。2階の住居に返してしまえば店が開いているか否かなどすぐに伝わってしまうものだ。 命令は的確に、簡潔にとばかりに畳み掛ける滄の言葉に将未は見るからに気落ちした様子で目を伏せる。体調を崩した己を恥じているのか悲しんでいるのか、眉を下げた姿に鼻から息が抜きかけるものの、飲み込んで再び額を撫でる。少し伸びて額に影を落とす前髪を指でかき、言い含めるように目を見た。 「大丈夫だから。…元気になったら、また働けばいい。…ちゃんとストーブつけて。布団着て寝てろ」 「……はい、」 それでも気落ちを顕にした将未が1度こくりと顎を引き、とぼとぼと勝手口から出ていく。一通りの開店準備を終えたら薬と食う物を持っていった方が良いだろうか。顔を上げて窓の外を見やる。昨日の晴天とは一転し、吹き荒ぶ雪が窓ガラスの枠を軋ませていた。 ○○○ 今夜も店を開けると決めたからにはさほど時間に余裕は無い。一通りの開店準備を済ませた後に店を出た滄は真っ直ぐに道路を渡り、向かいの食堂の引き戸をがらがらと開けた。店内には少し早い夕食を取る客がまばらに座っていて、あらゆる料理の雑多な香りと暖房の熱気とが充満していた。 ひょこりと現れた滄の顔を見た幸世があら、と口を動かし歩み寄ってくる。上背のある滄を見上げる小柄な女はいかにも世話焼きの母親という風情で、日頃あまり人に心を開くことのない滄ですら気持ちを柔らかくさせる効果があった。 「すみません。体温計があったら貸して貰えませんか」 「あら。風邪かい?将未ちゃん?」 当然のように察しが良い。目尻の皺が愛嬌となった目をくるくると丸くさせて尋ねつつまま幸世は1度背を向けて奥へと引っ込んだかと思うと驚くような速さで戻ってくる。扉の前に佇んだままの滄に体温計や市販の錠剤が差し出された。 「ほら。持ってきな。体温計だけあったって仕方ないしょ。薬飲ませなさいね。後でお粥かなんか作って持っていったげるから」 「…いや…」 「風邪なら私の所為かもしれないしょや。あの子昨日店の前の雪ハネしてくれたのさ」 手袋も履かないで、と訛りに訛った物言いが心地よい。断ろうとする滄の小さな声など届きもせず、相変わらずよく喋る女将の言葉尻に滄がなるほどとごく浅く顎をひく。除雪はおそらく将未から申し出たのだろう。昨日の昼間はよく晴れていた分気温はぐんと下がっていた。 ありがとう、と礼を口にして店を出ようとする滄に幸世が屈託なく笑う。ぽん、と腰の辺りを掌で叩かれた。 「将未ちゃんはいい子だよ」 「……」 これだけを聞くと、およそ20歳を過ぎた人間を褒める言葉とは思えない。だがその言葉は将未という人間を褒めるには相応しいものである気がした。 幸世は将未を自分の子のように可愛がってくれている。将未もまた世話を焼かれる事が嫌いではないのだろう、口数の多くは無い青年からは幸世に親切にしてもらった話が時折こぼれ落ちている。 将未はあちこち様々なものが欠けている。 ──将未が生きていく上で必要なものを身につけ、経験を補い、増やすのであれば、きっと、この静かな街で幸世のような人間に世話を焼いてもらうことが必要なのだろう。自分はただ、身寄りのない人間を保護し、雇い──護っているだけだ。 幸世の掌の感触を残したまま改めて店を出ようとした刹那、不意に慌てたように幸世が滄のブルゾンの裾を引いた。振り返った滄に幸世が口元に手のひらを当てて伸び上がる。内緒話のポーズに気付き、上半身を傾けた。にわかに潜めた声が滄の鼓膜を直に擽る。 「…アンタに会ったら言おうと思ってたんだ。忘れるところだったよ」 「なに…」 「…昼間、将未ちゃんのこと探してるって男が来たのさ、」 「──…、」 ほんの少しだけ滄の顔色が変化した。将未とは違った意味で表情の変化の乏しいこの男の反応を確かめた幸世が両手を腰に当てて嘆かわしいとばかりに溜め息を吐き出す。勝気だが、心優しい女将の眉間に珍しく皺が寄っていた。 「知らないっていっておいたけどね。ちょっといい男だった。あれはマチから来た人だね」 なんだかわかんないけど気を付けな。締める頃にはいつもの柔らかな口調へと戻っていた。1度程体温が下がったような心地を覚えつつ、滄は頷き引き戸に指を掛けた。

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