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EXTRA2─野良、洋食屋に行く─

飽きもせずに降る雪に向かってヒデが煙を吐き出した。雄誠会支部の事務所は路地裏にあり、ろくに除雪車も走らない。矢立が来る前にと朝から雪掻きに精を出していたものの、その矢立から本部からの呼び出しがあったと連絡が入り、他でもないヒデが運転手として矢立の自宅から本部と車を出した。 事務所に帰ってきた頃にはすっかり雪が除けられていた歩道も、昼過ぎとなればまたふかふかとした雪に覆われてしまう。昼下がりの路地裏で、今日2度目の雪かきに励む将未を見やる。 「もうその辺にしとけって。どうせ今日はまだ降るぜ」 雪が降る中の除雪は賽の河原の石積みに似てると日では思っているものの、おそらくそれを将未に言ったところで伝わるまい。ヒデに声を掛けられた将未は寒さで紅潮した顔を上げ、辺りを見渡してから再度ヒデに視線を返す。雪はまだ残っている。将未は勤勉で真面目で──下っ端であった。昼食を終えた組員たちに順に茶を出してしまうと今度は細かい雑務が積まれている。中でも冬場の雪掻きは下っ端の仕事としては最重要に位置するものでもある。 「…もう少し、やります」 「……好きにしとけよ」 止めたところで将未が困るだけだろう。苦笑しつつ、将未に見つからないように吸った後の煙草の殻を雪の中に埋め込んだ。 ふとけたたましい車の走行音が路地裏に入り込んで来た。あからさまに不吉な雰囲気を纏ったフルスモークの外車はろくに減速もせず、雪煙を上げながら瞬きする間に事務所の前に横付けされた。走行音を耳にした組員達が慌てたように事務所から飛び出してくる。ススキノの街中を昼間から堂々と音を立てて走っている車など自分達の仲間か、自分達の敵組織であるかのどちらかに違いない、という意識が刷り込まれているのだ。ヒデもまたすぐに立ち上がり、同時に車内の人間に目を向ける。それが敵であろうと味方であろうと反射的に直立不動の姿勢をとる男達を見遣りつつ運転席から降りてきた男は恐らく下っ端だろう。雄誠会の面々を軽く威嚇するような視線を投げつつも彼は素早く後部座席に回り込んでドアを開けようとする。だが、それよりも早く中にいる男の方が面倒くさそうな手付きでウィンドウを下げて顔を出した。 「よう」 「幡野さん!」 四角く切り取られた窓の向こうに現れた男の姿に、組員たちの背筋が一際正しくなった。鳳勝会の会長である幡野覬は今日も六十に手が届くか否かとは思えないくらいに闊達に笑う。慌てて歩み寄るヒデを車内から見上げた後、背後の玄関口へと視線を投じた。 「三代目いるか?」 「いえ、えっと、今日は朝から本部の方に呼ばれています、」 目を見て答えた後、ヒデはスマートフォンを取り出す。時間を確かめるともう2時を回ろうかとするところだった。相変わらずダボダボとしたパンツやジャンパーを羽織ったヒデは見た目とは裏腹に折り目正しく、様々な物事を心得ている。そんな優秀な組員の答えに幡野ふうん、とつまらなそうに鼻を鳴らした。車内からは暖房の熱気に乗って煙草の香りが強く漂ってくる。 「用事なら電話しますが」 「いや。近く通ったからおせぇ飯でも誘おうかと思っただけだ。…そうだな、」 気にするな、と振る掌までもが若々しい。ヒデの顔から再び後ろへと目をやった幡野覬が一点に視線を留めると、浅く息を吸い込みやや声を張った。 「そいつ。スコップ持ってる奴連れてくわ、」 「…へ?…あ、おい!広瀬!」 ひょい、と指さされた先に釣られて視線を上げると同時に耳に入った男を当てる。幡野よりも大きく声を上げたヒデに呼ばれた広瀬将未が、周りに倣った背筋を伸ばした姿勢のままでびくりと肩を跳ね上げた。ヒデの手招きを見ては、雪掻き用のプラスチック製のスコップを手にしたまま足早に車へと駆け寄ってくる。 「飯食いに行くぞ。それ置いて乗れ」 お前らはまた今度な、ぽかんと立ち尽くす他の組員達に、抜かりなく人たらしの笑顔が向けられる。うっす、と低い声と共に深々と頭を下げる男たちを脇目に車のドアが開けられたかと思うと、伸びてきた幡野の手が戸惑ったままの将未の腕を引っ張った。積もった雪によって不安定な足元に体勢を傾けた将未は、そのまま幡野が尻をずらしてスペースを空けた後部座席へと連れ込まれてしまった。スコップを受け取ったヒデもまた、早い展開にただ立ち尽くしている。 「じゃあな。三代目によろしく言っとけ」 「はあ、」 ドアが閉まり、運転手も姿を消したかと思うと車は現れた時と同じエンジン音と共に走り出す。あっという間に見えなくなった車体に詰め込まれた将未は未だ状況が飲み込めていないに違いない。ヒデがぽりぽりと坊主頭を搔いた。 「…広瀬…拐われちまったな…」 幡野覬に逆らうことの出来る人間はいない。 ──少なくとも、ヒデはその存在を知らない。 ※※※※※ 何事においても自分が置かれた状況を飲み込むことに時間がかかる将未がようやく我に返った時には、車窓の向こうの景色は既にススキノのそれとは違う物になっていた。街の中心を走る大きな公園の脇を物騒な外車が駆けていく。 大腿の上に軽く握った拳を置く姿勢で身を縮め、荒い運転に揺られつつちらりと横の席を見ると、自分を車内に連れ込んだ男は背もたれに体を預けるようにして浅くシートに腰掛けて運転手と楽しげに会話を交わしていた。自分よりも、矢立よりも随分年配に見える男の横顔には見覚えがある。将未はこの男とは1度会ったきりだ。 長年接客業の類に着いていた将未は案外人に関する記憶力は悪くはない。1度会ったことのある人間の顔はいつしか自然と記憶に刻まれるようになっていた。この年配の男とは矢立の私室で会った。茶を運び──美味いと褒めてくれた男だった。それもつい先日のことだ。 「…あの、」 自分は何故ここでこうしているのか。まず理由を尋ねた方が良いだろうと小さく声を発した。将未は幡野がどういった身分の人間なのかは知らない。だが、仕立ての良さそうなスリーピースを纏う姿を見るまでもなく、先日のように矢立の元を訪れ、矢立の口調を思い返すと自ずと幡野の正体は判るような気がした。何よりも、先程事務所の前で他の組員たちが一様に畏まっていたことが男の地位を示している。無意識に背筋を伸ばし、ギクシャクとした動作で顔を横へと向ける。将未の視線に目を瞬かせた幡野が嬉しげに頬を緩める。血色の良い顔に初めて年相応の皺が覗いた。 「ん?なんだ。もう飯食ったか?俺ぁ食いそびれてんだ。いい加減腹減ったな」 何処か少年のまま大きくなったような瞳に覗き込まれた将未は慌てて目を逸らす。この男は恐らく、将未の知らないどこかの組の幹部だろう。海千山千のヤクザの幹部である幡野が将未には想像も出来ないような修羅場を潜り抜け、組を率いていることくらいは将未にも想像がつく。そうとは思えない程に明るい幡野の姿を正視することは何故か出来なかった。 「…いえ、…まだ、です」 矢立が不在であってもそうでなくても事務所を空にする訳にはいかない組員達は順繰りに昼食を取るという決まりがある。中で外で昼食を終えた組員たちに順に茶を出していた部屋住みである将未は当たり前に食いっぱぐれているところだった。 ようやく一通り茶を出し終えたところで雪掻きを命じられたが、将未には昼食を取らせてくれと訴えるという意思は薄い。それでもやはり忙しさの中で腹は減る。ほんの小さく横に首を降ってみせた。 「うめぇ飯食わせてやるからな。もうすぐ着くぜ」 指に挟んでいたままの吸いさしの煙草を唇に運びつつ幡野は窓の外へと目をやる。気温はそれ程下がっていないのだろう。水分を含んだ重たい雪が降る街の風景の中、車は相変わらず制限速度を守る気のないスピードで走っていく。 次の言葉を失くしてしまい、困ったままの表情で頷くことしか出来ない将未の横顔に、ひょいと幡野の目が向けられた。 「…似てんなあ、やっぱ、」 「……?」 お前を連れてきた理由は雄誠会の三代目──矢立に似ているからだ。 ただそれだけの理由を幡野は口にする気がない。不思議そうな眼差しが自分の横顔に注がれる気配を感じつつ、そういう所が似ているのだとほんの少しだけ苦笑しながら煙草の煙を吐き出した。 ※※※※※ ビル群を抜けた車は街に横たわる川の縁淵をなぞるように敷かれた広い道路に入り、一層スピードを上げた。黒塗りの外車を目にした他の車が危うきに近寄らずとばかりに避けたり徐行したりする間を縫うように走っていた車はやがて区と区の堺の辺りで停まった。半分歩道に乗り上げる形で車を停めた運転手が速やかに車を降りて後部座席のドアを開ける。後から乗り込む形となってしまったが故に人からドアを開けられるという未知の体験に一層身を縮めつつ降りた将未に続き、幡野が長い足を突き出すようにして車を降りた。 着いた、と先に歩き始める幡野の手のひらが将未を招く。白い歩道の上に立ち、ドアを潜る前に目の前の建物を見上げた。先程までの雪がぴたりと止んだよく晴れた空の下には二階建てのこじんまりとした可愛らしい、ともすればやや大きめの一軒家にも見えるような建物がある。三角の屋根の下に慎ましやかに掲げられた、何処か古びたように見えるレトロな看板がこの建物がなんらかの店舗であることを示していた。 「…洋食、ステラ、」 口の中で読み上げる将未の前方で店のドアが開く。カラン、と1度ベルが鳴った。 「──すみません、ランチ終了して…、……オーナー…」 扉の向こうには、テーブルが4席ほど配置されたフロアが広がっていた。ドアのすぐ左手にレジ台を据えた板張りの店内はこじんまりとしているように見える。それでも窮屈さを感じさせないように適度に間隔を取って置かれたテーブル席の奥には横長のカウンターが伸びていて、更にその奥にはオープンキッチンのような形式を取られた厨房が設えられている。そこに立った男が自分達を見るなり顔を上げて発した声はよく通ったものの、幡野の顔を確認するなりたちまち語尾が窄まった。ランチタイムが終わり、無人になった客席の間をすり抜けるようにしながら店内を横断する幡野が「オーナー」と呼ばれる様に将未は緩く目を瞬かせる。ヤクザの幹部だと思い込んでいたこの人はこの小さな店のオーナーであるらしい。 「ほら。お前はこっち座れ。対面だと緊張すんだろ、」 自分はどうやら幡野が所有する店に連れて来てもらったらしい。大股で歩く幡野の後ろに続く将未に、オーナーは笑い掛けながらカウンターの席を引く。幡野自身は厨房に立つ男の真正面に位置する席の椅子に手を掛けつつ、片方の手を男へと差し出した。 「メニューくれ。ランチのセット全部出ちまったのか、」 「……客連れてくるって知ってりゃ2人分避けておくくらいしたんだけどな、」 男──この店のコックである男はあからさまに眉を顰めて見せるものの、幡野が連れを伴っていることが効果をなしているのか声もまた潜めたものになっている。それが「親分」として「若いモン」を連れてきている幡野の面子を立てていることに将未は気が付いていない。男は幡野よりも幾分か年下に見える。白いコックコートに点々と飛んだソースの跡が彼が熟練した料理人であることを示していた。 お前は何度言えば事前に連絡を入れるんだ。 うるせえな急に決まった事なんだよ。 余程親しい仲なのか、それとも遠慮の無い仲なのか、オーナーである幡野と店のコックとの会話からは互いに遠慮のなさが滲み出ている。小声で交わされる二人のやり取りを聞かぬ振りをしながら座席に腰を下ろす将未の前に、幡野が革張りのメニューブックを滑らせた。 「好きなもん食え。セット終わっちまったみてえだからな。アラカルトの中から選ぶんだぞ、」 「アラカルト…、」 会話の先が逸れたことに、コックはやれやれと肩から息を吐き出す。洗い物をしていたらしい手を止め、カチャカチャと音を立てて別の作業へと入った。 カウンターの隅に置かれた灰皿を幡野が指の先で手繰り寄せる。その様子を視界の端で捉えたコックはほとんど無意識のように換気扇のスイッチを入れる。それは長年極自然に行われてきた動作であり、習慣のような一風景に見えた。 よく磨かれた木製のカウンターの上で、使い込まれたメニューブックを捲る。アラカルトと示された文字の下にはハンバーグやカレー、スパゲティナポリタンといった正統派で、だが馴染みのある料理の名前が書き連ねられていた。 隣から煙草の香りが漂ってくる。じっとメニューに目を落とした将未ははたと手を止めてしまった。好きな物が、わからない。 好きな物を食え、と幡野は言った。頷き、メニューに視線を落としてみたものの、自分は自分が好きな物がわからない事に気が付いた。 将未はこれまで生きてきた中で、何かを好きだとか嫌いだとかをより分ける余裕を持ったことがない。もっと言うのなら、何かに対して特別な感情を持った経験もごく薄い。そのような感情を発露させ、蓄積されるまでもの経験を積んでいないのだ。 矢立に拾われて雄誠会に所属して初めて、面倒見の良いヒデに連れ回される形をと主としてあらゆる事柄を体験している。食わせて貰ったその場では美味いと感じる食べ物はもちろんある。だがそれに対して自分は目の前の物が好きなのか嫌いなのかをじっくりと考えてみるという意識が欠けているのだ。 母親に一人放置され、飢えをしのいでいたという幼少期の記憶は薄れている。だが将未にとって食べるという行為は無心に、本能的に、ひたすらに命を繋ぐ行為であるままなのかもしれない。 好きな物、を間接的ではあるものの、誰かに尋ねられることもまた初めてだった。果たして自分が好きな物はなんだろう。好きな料理は何なのだろう──。 自分自身への新たな発見に半ば呆然としたメニューの文字を眺めていても答えと呼べるものは生まれて来ない。考え始めるとますます深みに嵌る、というよりも迷路に迷い込んでしまうような心地に途方に暮れるような思いで眉を垂れてしまった将未を、幡野が横目で見やった。ごく緩く首を傾けている。 「好きな物、ねえのか?遠慮してんじゃねえぞ、」 「…あの、」 すっかり萎縮し、目を逸らしてしまう将未に幡野は悪気なく畳み掛ける。頭上では、2人の会話を聞いていたコックが顔を上げた気配が伝わってくる。自分はこの2人を待たせてしまっているのではないだろうか。そこに気が付いてしまった瞬間にまた焦りが追ってくる。どうしよう、と背を丸めたその瞬間、コックが幡野に似た動作で軽く首を傾けた。 「なあ。嫌いなもんは?」 朗々とした声が将未の耳に届く。しばしの間を置いて頭の中で探った結果、苦手だとか嫌いだとか言うものも、好きな物と同じように自分の中には見当たらなかった。出された物は残さない。それは将未の中に、やはり無意識のうちに植え込まれている長所だった。 「……無い、です、」 頭を垂れたままの将未の返答にコックが小さく目元を緩める。どこか嬉しげに見える相貌と将未との間に幡野がくゆらせる煙草の煙が漂ってきた。 「何よりじゃねえか。ありがてえ客だよ」 穏やかな声がほんの少しだけ将未の心を解きほぐす。顔を上げると、コックコート姿が眩しい男の穏やかな笑顔がそこにあった。 この人は優しい人だ。 作ったものを残さず食べてくれる人間は料理人に好かれるに決まっている。料理人と呼ばれる人種に初めて会う将未はそんなことを知らない。半分絆されるように目を瞬かせた。 物言いはぶっきらぼうで雑な向きがある。だがきっとこの人は優しい人なのだろう。将未の中の本能に近い部分が教えてくれる。ほ、と息を吐き出そうとした刹那、ほんのりと暖かくなった胸の奥に、龍俊の顔といつか囲んだ食卓の風景が浮かび上がった。はっとし、慌てて顔を上げる。 「──とりにく、」 「あ?」 将未は鶏肉が好きだよね。 そんな風に言われたのは龍俊の貸すマンションに転がり込み、食事を共にするようになってからしばらくしてからだっただろうか。普段と変わらない様子で食事をしていた将未に龍俊は笑いながらそう言って、自分の分の惣菜を分けてくれた。 自分に優しくしてくれる人を、自分は既に知っている。 自分が好きな物は、龍俊が教えてくれた。 小さく、しかしコックの目を見ながら呟いた将未の声を取りこぼした幡野が体を傾ける。将未は視線を下げぬまま、今度ははっきりとした口調で改めて言葉を紡ぎ出した。 「俺、…鶏肉が、…好きです、」 「…そりゃお前食材、」 将未が口にした「好きな物」に幡野が眉を下げて笑う。あくまで、相変わらず悪気のない眼差しに将未は何かおかしなことを言っただろうかと少し狼狽するも、コックの方は深く頷き目を細めた。 「──よし。わかった。任せろ。お前は何食う?」 言うなり、カウンターに背を向けて厨房の真ん中近くに陣取る冷蔵庫へと歩んで行く。道すがら、1度幡野を振り返ってはやはり雑な口調で尋ねるコックに、幡野は熟考することなく親指で将未を指して見せた。 「同じの、」 「ん、」 もう一度頷きを残してコックは大きな冷蔵庫を開けて食材を取り出し始める。背中を眺めていた幡野は指にある煙草の火を揉み消してから立ち上がり、カウンターの上に、目隠しのように並べられた皿やボウルを脇に避けていく。突如始まった作業を手伝うべきかと逡巡している間に、カウンターの向こうの景色が顕になった。 「見てるとおもしれえからな」 幡野はやはり時々子供のような眼差しをすることがある。カウンター越し、コンロの上によく使い込まれたフライパンが乗っている。そこに相対したコックの手によってコンロの火がつけられ、鉄板の上にバターの塊が放り込まれた。 再び将未の隣に腰を下ろした幡野は鼻歌混じりに頬杖をつく。促されるままに素直にコックの手を見つめる将未の横顔を見遣ると、幡野もまた手馴れている事そのもののコックの動作を眺めている。 バターが溶けた頃、空腹を思い出させる香りが立ち上るフライパンに、朝の仕込みの段階で作られストックされていた玉ねぎのみじん切りが投入される。厨房から漂う香りが店内に満ちる頃、丁寧に、だが手早く炒められてバターが絡んだ玉ねぎの中に細かく切り分けられた鶏肉が加えられた。肉が焼ける香ばしい匂いに無意識に鼻腔が揺れる。同時に聴覚を刺激するのは食材が焼ける音と、コックが調理器具を使う音である。 コックはやはり丁寧に玉ねぎと鶏肉とを炒め合わせると、それを1度脇に置いた皿の上に移してフライパンを空にした。不意にコンロから離れた場所へと姿を消し、すぐにコンロの前に戻ってくる。手にしている銀色のボウルに奪われている将未の視線は他には逸れない。コックの作業にすっかり釘付けになっている将未の前で、フライパンの中にボウルの中身が開けられる。熱した鉄の上で小山を作っているのは炊飯器から取り出してきた3人前の白飯だった。バターと玉ねぎ、そして鶏肉のエキスが残るフライパンの上で白飯が炒められ、頃合を見て先程脇に避けた具材が戻される。3つの材料を強い火で混ぜ合わせつつ、コックは少し顔を上げた。調味料が並ぶ棚へと手を伸ばす動作は、慣れた、というよりも意識することでもないという様子である。コックが手に取った缶から塩と胡椒がぱさぱさと振りかけられたかと思うと、またそれらがさっと混ぜ合わされていく。 最後にコックは瓶とスプーンを手に取ると、中から掬ったペースト状の真っ赤なソースをフライパンの上に軽やかに散らす。湯気と共に昇る甘いような、酸っぱいような匂いは嗅覚と空腹を刺激し続ける。今にも腹が鳴り出してしまいそうな気配を感じながらも、将未は目の前で形になっていく料理を真剣に眺め続けている。 「ここのは美味いんだぞ。ケチャップが自家製だからな」 チキンライス。 幡野が独り言のように、それでも何処か自分の事のように自慢げに言う。チキンライスもケチャップも、将未はそれくらいは知っている。だがケチャップなど自分で作ることの出来るものなのだろうかと将未の目は丸くなる。 フライパンの火が落ちた。完成したのだろうか、とコックの手を目で追う将未の前で、フライパンが隣へと移動した。コンロの横に置かれた鍋敷きの上にあるフライパンの中ではケチャップ色をした飯が山を作っているが、コックがそれを皿に盛り付ける様子がない。内心で首を傾げつつも、まだ動きを止めることの無いコックの作業を将未はじっと見つめている。 「…なんか、…そんな真剣に見られると照れるな。初めて見るか?」 一呼吸を挟んで顔を上げたコックと目が合う。はにかんで笑うコックの手には別のフライパンがあった。カウンター越しに問い掛けながらもフライパンをコンロに預け、代わりに銀色のボウルを手に取る。もう一方の手に取ったのは眩しく白い玉子だ。玉子の中身をボウルに割り入れる動作をコックは当たり前のように片手で行っているから、将未はまた驚いた。自分などは両手で割っても殻が入るというのに。将未の丸い目の前で、コックはボウルの中の6個の玉子に牛乳とひとつまみの塩を加えてシャカシャカと音を立ててかき混ぜる。鉄板の上に落とされたバターが音を立てるそこに、卵液の3分の1が流し込まれた。ボウルを脇に置いたコックはその手でチキンライスの入ったフライパンを取り、目分量、というよりも感覚のみで3分の1測ったものを玉子が敷かれた上に盛っていく。 ひゅ、という浅い呼吸の後、コックの器用な指がフライパンの柄を握る。何が始まるのだろう、と胸さえ高鳴らせる将未の前で、コックは鼻歌さえも混じりそうなリズミカルな動作でフライ返しを使ったかと思うと、そこにあった筈のチキンライスはあっという間に美しく黄色い玉子の中に包み込まれてしまった。 「……消えた、」 「な。おもしれえだろ、」 玉子の中に姿を消したチキンライス。代わりにフライパンの上に現れたのはオムライスである。その手早い調理の様子が、将未には魔法のようにしか見えなかった。目にも止まらぬ速さで完成したオムライスは先程とは裏腹な慎重な手付きで真っ白の皿の上に載せられる。また見られるぜ、と促す幡野の指の先では、コックが先程と寸分違わない動作で再びオムライスを作り上げようとしていた。 先程に増して、やや姿勢を前に傾けながらフライパンの上を凝視していたものの、やはりチキンライスと玉子焼きはコックの手によってあっという間にオムライスへと変身してしまった。魔法だ、と思わず感嘆の息を漏らす将未の前でコックは皿の上に何かを施した後、ようやく顔を上げた。 「どうぞ、」 カウンターの向こうから将未と幡野の前に順に皿が供される。 真っ白い皿の中心には美しい色をした、美しい形に整えられたオムライスがぴかぴかと鎮座し、その上にはとろりと真っ赤なケチャップが掛けられている。脇には皿の上に色彩を足す人参のグラッセといんげん豆のソテーが添えられていた。 コックが手渡すカトラリーを入れたケースと、小鉢に盛られたサラダは幡野が慣れた動作で受け取っている。ほかほかと湯気が上がるオムライスに見蕩れる将未の横からスプーンが差し出された。 「ほら。食おうぜ」 「はい、」 スプーンを受け取る将未に目配せするように笑っま幡野は自分の食器を手に取る。いただきます、と呟く声が少し重なった。早速大口を開けて料理を口に運ぶ幡野に釣られるように将未もまたオムライスの端を小さく切り崩す。磨かれた銀色のスプーンの上に乗った1口大のオムライスは、控えめに開けた将未の口の中に迎え入れられた。 「…!」 出来たての料理の熱さに目を細めたのは一瞬だった。口の中にはケチャップのほんのり酸っぱくて甘い味と、小さいながらもジューシーな鶏肉の味、そしてバターの風味を含んだ優しい玉子の味が一度に広がる。 将未がオムライスを食べた記憶は曖昧である。いつかどこかで口にしたことはあるかもしれない。だが、今目の前でコックが作ったこのオムライスは感動すら覚える程に、美味いと思った。 「な?美味いだろ」 幡野が笑みを載せた目で問う。勢いのままにすぐに2口目を頬張った将未は慌ててこくこくと頷き、鶏肉の欠片を飲み込んでから隣へと顔を向けた。 「すごく…、美味しいです、」 「だろ。お前若えんだからな。もっと食え」 満足気な笑みを深めた幡野が歌うように続ける。再度深く頷いてから将未はスプーンに乗ったままの3口目をすくい上げる。 料理を提供し終えたコックはフライパンの中に残ったチキンライスを皿の上に雑に盛り付けた。自分がこれから食べる予定の賄いを完成させたコックは後片付けの前に冷蔵庫へと向かい、何か物色した後に2つの小さなグラスを手に戻ってきた。 デザートに出そうと取り出したのはグラスに入ったコーヒーゼリーである。表面を白いミルクで覆われたそれを脇に置き、今しがた使い終えた調理器具を洗う為に流し台の前に立つコックを、将未が口の中のものを咀嚼しながら見上げている。どこか尊敬の色すら滲ませる視線の気配に気が付いたコックが顔を上げた。相変わらず穏やかな眼差しを返す男に、将未は食べ物を飲み込んでから真剣な目で口を開いた。 「…これ、…好きです。俺、」 コックと幡野が同時に目を瞬かせる。将未の真面目な目は揺れない。いよいよ照れ臭そうに笑うコックの顔を見上げてから、幡野のまた頬を緩めた。 「良かったな、」 好きな物が見つかって良かった。 言葉の足りていない幡野に将未が不思議そうな目を向ける。何が良かったのか、と問う目を横に、幡野はあっという間にオムライスを平らげてしまおうとしている。 デザートあるぜ。コックが発した声が降ってくる。そんな贅沢を、と言いたげに眉を垂れつつも将未は食べてしまうのが勿体ない躊躇するように、それでも誘惑に負けるようにとろけそうな玉子を載せたスプーンを口に運び続けていた。

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