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フローリングは、堆積した生活ゴミによって足の踏み場も無いほどに汚れ切っている。ただ、その数多の紙くずやビニール袋の空袋が無ければ3歳の幼子はとうに凍えて死んでいた。真冬の、電気が通らなくなったことが原因で室温が下がった部屋の中、堆積物の中に体を埋めると暖を取る事が出来るのだということを知ったのは幼子の生存本能によるものでしかない。
履いたままの下着や衣服はトイレに通うことも出来ずにとうに汚れて変色している。その事を厭わないのか、埃が積もった床の上にぺたりと座り込んだ幼子は何かを見下ろしている。自分が立っている位置から見る幼子の背中越しに、幼子よりも更に小さな──赤ん坊の足が伸びている様が見えた。何日か前からぴくりとも動かなくなった赤ん坊をじっと見つめ、時折いつもしていたように頭を撫でようと触れてみるも、あまりの冷たさに幼い指が退いてしまう。腹が減ったと泣くことも、幼子同様に履いたままのオムツの不快さにも泣くこともなくなった赤ん坊──幼子の弟は数日前から眠ったままだ。
幼子は、今母親が帰ってきたのなら、まずこの事を報告しなければと思っている。
母親は自分に弟の面倒を見るようにと言っていた。すぐに帰ってくるからね、と目も見ずに出ていった母親は何日も帰って来ないが、自分には弟がいるから寂しくはないと思っている。その弟が眠ったまま目を覚まさない。理由はわからないが、事実を伝えなければならないだろう。この事実伝えたのなら、母親はまた自分を叱るだろうか。自分に与えられた使命を果たせなかった事に怒り、また自分をぶつだろうか。そう思うと身が縮まり、心細さが押し寄せる。それでも、1人途方に暮れるような思いの中で、幼子は泣くことを堪えてじっと母親の帰りを待っている。幼子が強く言い付けられていたのは、弟の面倒を見ることと、泣いてはいけないのだということだった。
将未はその幼子を部屋の隅で眺めている。
小さな背中を見つめながらも、何故かその場から動くことが出来ない。
誰かあの子に触れてやって欲しいと思う。
誰でも良いから、あの、たった1人で、泣きもせずに弟に寄り添い、母親を待つ子供を抱き締めてやってくれないだろうか。
暖かい場所に連れ出し、腹一杯好きなものを食べさせて、もう大丈夫だよ、と言ってやって欲しい。
泣いても良いのだと。
誰かに縋って泣いても良いのだと教えてやって欲しい。
込み上げるような思いを抱えながらも、佇む将未の足は動かない。泣くことを忘れた幼子の代わりに自分が泣き出してしまいそうになっているが、自分もまた泣くことを堪えていることに気が付いた。
冷たい部屋の片隅で、きゅ、と拳を握り締める。泣いては駄目なのだ。何があっても泣いてはいけないのだと、教えられてきたのは、自分自身だ。
俺はダメだな。幾度も過ぎったその思いが湧き上がった。瞬間、瞼が開いた。
「──…、」
ああ、自分は夢を見ていたのかと将未が気が付いたのは、開けた目に見慣れた天井が映ったからである。体の上には暖かな布団が掛けられていて、ベッドから少し離れた場所でストーブが稼働している。この部屋は寒くなどない。留萌の、滄の店の2階の部屋だ。
ぼんやりと霞がかかった頭の中で自分は風邪を引いていたことを思い出す。熱があると滄に言われ、今日は仕事を休んで2階で眠っていた。どれくらい眠っていたのかはわからないが、まだ熱は下がり切っていないのだろう。熱い体を感じながら身動ぎすると少しだけ頭が動いた。醒まし切らない意識の中で、妙な夢を見たと思った。
夢に見たのは、それが本当に自分のものなのかも怪しくなるほどに遠い記憶だ。だが、確かに自分の中には刻み込まれてしまったような渇望が存在していることを思えば、あの夢はいつかの自分の姿なのだろう。自分は、まだ年端もいかない頃の自分の姿を眺めていた。──そうであれば、夢の中で自分が願っていた事は、自分の深層にあるもの何だろうか──。
まだうとうとと微睡みそうな頭でぼんやりと考える。その傍らから、規則正しい足音が聴こえてきたことで聴覚が刺激された。すぐにドアが開く、思った通りに扉が開き、滄が現れた。照明を点灯させながら将未の顔に目を向ける。
「起きていたのか」
「今…、」
起き上がろうとする滄の両手はトレイによって塞がれている。寝ていろ、と短く将未を制し、ベッドの脇にある簡易テーブルの上にトレイを置いた。トレイは店で使っている銀色の素っ気ない物で、その上には丼と、水の入ったグラスと白い錠剤が載っていた。
「さっき向かいの女将さんが持ってきてくれた。…食べて薬を飲まないと意味が無い」
ただ寝ているだけでは風邪は治らない。相変わらず淡々とした口振りで言われ、将未は初めてそうかと気が付く。体を起こし、火照る体に無意識に呼気を漏らした。テーブルの上を見遣ると白い粥が目に入る。まだ湯気の上るそれはすっかり馴染みとなった定食屋の女将が運んできてくれたという。後で礼を言わなければ、と内心で思う将未は、不意に目を瞬かせた。
こんな風に誰かに看病をしてもらう経験の記憶がない。
昔から体だけは妙に丈夫だった。だが、二十数年も生きていれば風邪のひとつやふたつは患った事がある筈だ。──それでも、その時に自分がどんな風にその病を治したのかは覚えていない。自分が置かれていた場所で何かの病気に罹った時、自分はきっと、その時の自分の体力や回復力に任せ、ただやり過ごすことしか知らなかった。
仕事を休めと労わって貰うことも、風邪をひいた体に優しくされたことも無かったのだろう。そしてそれに甘えるということは、こんなにも安心し、胸に温もりが射すということだとも知らなかった。
世の中には知らないことばかりだ。だが、新しく何かを知るということはどんな事でも──自分にとっては、嬉しいものなのだ──。
ぼんやりと考え込む将未の額に向けて掌が伸びた。狭い額に滄の広い掌がぺたりと押し当てられる。少し冷たい滄の手が心地よかった。
将未の身体はかつて数え切れない程の男に触れられた。だが、こんな風に優しく額に触れられたことは恐らく、無い。
「まだ熱があるから。食って寝ていろ。…体温計も借りるべきだったな、」
軽く眉根を寄せる滄に将未は素直に頷く。これで自分の仕事は終わったと鼻から息を抜き、背を向けようとする滄に慌てて発した声が少し掠れた。
「滄。店は、」
今は何時なのだろう。枕元に置かれた、この街で暮らし始めた時に購入した目覚まし時計に目をやる。開店の時刻は僅かに過ぎていた。
将未の挙動に滄が肩から息を吐き出す。困ったように眉を下げ、ほんの微かに苦笑した。先程額に当てた手で、くしゃ、と将未の髪を掻き混ぜる。
「…開けている。まだ誰も来ない。…今日は吹雪だから、」
心配しなくて良いと笑う目に将未が安堵の息を逃す。自分の言葉に思い出したように滄が窓辺に寄り、開けたままのカーテンを閉める様を目で追うと、滄が言った通り白い雪が窓に吹き付ける様子を確かめられた。
こんな日には客はほとんど来ないのだ。将未とて、それくらいは覚えた。冷たい窓の外を目にすると急に温もりが欲しくなった。丼の中の粥も冷めないうちに食べた方が良いだろう。布団から抜いた足をベッドの縁から下ろし、トレイの上、丼に添えられたスプーンを手に取る。その様子を見届けた滄がいよいよ背中を見せる刹那、無意識に言葉が落ちた。
「滄、」
滄が振り返る。どうしたと伺う眼差しに申し訳無さが過る。それでも、続けた。
「滄。…今日は…、…寒い、と思う、」
「──ああ、」
将未からその符丁を口にしたのは初めてだった。病は気を弱くする。人を、人に甘えたいと思わせる。心細さすら伴うようなその感情を言葉にしたそれが、滄が時折口にする形に重なった。
滄は一度軽く目を剥き、ほとんど間を置かずに深く頷いた。優しい、寂しげな瞳が将未の瞳と重なる。
「…寒いな、今日も、」
柔らかな、照れたような声に将未の眼差しがたちまち安堵する。緩く、それでも確かに叶えられる約束を交わし、滄が今度こそドアの向こうに消えた。
○●○
あの符丁を将未から口にしたのは初めてではないだろうか。
部屋を出た先にある狭い面積の踊り場で滄がはたと立ち止まる。遠慮がちに向けられたそれは、自分に手を差し伸べるものではなく、将未自信が甘えたいという思いが微かに滲んでいた。体調を崩している時は心細くなるものだ。将未が甘えたい理由を見付けては一人納得し、1人結論付けて階段を降りる。
──そうであれば、自分はずっと体調不良なのかもしれない。
図らずとも思い当たってしまう可用性に無意識に苦笑が浮いた。甲野を失ってから──甲野が甲野で無くなってしまってから、自分もまた、何処かを病んでしまっているままなのかもしれない。甲野を孤独にさせまいとこの街で生きている自分は客観的に見ると間違いなく1人きりで、自我を喪失し、戻る見込みのない人間の世話をする自分は孤独に見えるのかもしれない。その姿が、何処かを病んでいると思わせても仕方の無いことだろうとも思う。
それ故に、誰にも打ち明けてこなかったものを語った夜に、将未は「寂しくは無いのか」と尋ねたのか。
あれはあまりに純粋な問いだった。
滄は将未の過去に触れることはしない。だが、雄誠会に所属していたことや、一度だけ体を交えたあの夜のことを省みれば将未は滄とは違った決して平坦では無い道を歩んできていると想像できた。その一方で、将未の目や物言いは驚く程に純粋な時があると感じている。
純粋さと、人には言えないような過去と、時折滲む色気は広瀬将未という男をアンバランスなものに形作っている。そのアンバランスさが、将未という人間を何処か危ういものに見せ、時に人に世話を焼かせ、時に妙な人間に付け込まれる所以としているのかもしれない。
滄自身もそのうちの1人だ。自分の性分を考えると、矢立に頼まれていなくても将未のような人間が独り街にやって来た姿を目にして放っておくような真似は出来ない気がする。滄にとってはこの街で世話をする人間が一人増えただけで、そして──請け負ったからには、最後まで責任を持って彼らを守らなければと思っている。
戻った店内に人気は無い。暖房を効かせてはいるが閑散とした客席が寒々しい。窓の外に視線を投じると、相変わらず向かいの道路も見えない雪が降りしきっている。窓へと歩み寄る。雪の粒の大きさからして気温はさほど低くはないらしい。重たげな雪がしんしんと積もっている様子に、明日の雪かきは難儀しそうだと肩から息を吐き出した。
カウンターの内側に戻って手元を見渡す。今夜使われている食器は自分用のグラスだけで、それもチェイサーの水が入っているだけだ。街全体が静かに雪に埋もれていくような今日のような夜は客は来ない。店を閉めてしまっても構わなかったが、将未がまた気を揉むだろうかと思ってはやれやれと喫煙具を引き寄せた。
手持ち無沙汰の中、目に入った小型のラジオに指を伸ばしてスイッチを入れる。AMに合わせたまま滅多に動かすことのないチャンネルから懐かしい邦楽が流れてきた。少しだけボリュームを上げた瞬間、店のドアの向こうに人が立つ気配があった。
客か、と今入れたばかりのラジオのスイッチを切る。ドアが開き、想像した通りに雪まみれのコートを纏った男が現れた。
「いらっしゃい、──…」
男が目深に被ったフードを上げた。ぱさ、と床に雪が落ちる様も気に停めることなくさらりと店内を見渡した男は滄が立つカウンターへと歩み寄ってくる。伏し目がちではあるが、フードの中から露になったその顔に、滄の呼吸が止まった。
カンバラタツトシ。
何処か疲労困憊した男の目が店内を撫でていく。寒さで強張り、不貞腐れたような相貌が、それでも店の中に満ちる暖気で微かに緩む。滄の斜め向かい、カウンターの止まり木に腰を下ろした男が視線もくれずに小さく口を開く。
「水割り、」
自分はこの声を知っている。
我に返った滄は何事も無い振りをして手を動かす。
だが鼓動は早鐘を打ち始めている。
──この街に訪れた原因を忘れていた訳では無い。
だが、今の滄にとっては結果が全てで、現実だ。
その結果をもたらした人物の名前は、数年ぶりに目にした顔形によって記憶の底から吹き上がってきた。
間違いない。
この男は──神原龍俊だ。
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