62 / 73

18-2

人を探すということがこんなにも疲弊することだとは思わなかった。 午前中、店の開店を待ってホームセンターの靴売り場で購入したスノーブーツでさくさくと雪を踏む。街灯に照らされる龍俊の頭が自然に下に垂れていく。足元は相変わらず深い雪で覆われ、それにも関わらず雪は止むことなく降り続いていた。日が落ちるのも思っていたよりも──都会で過ごしているよりも早く、夕方の四時頃にはもう辺りは薄暗くなってしまっていた。日中は車を飛ばして人気のある漁港の方へと足を向けたがこれといった収穫は得られず、街に戻るとおそらくは繁華街と呼ばれる地域の店舗を尋ねようと思ったものの、広い区画に点在する店舗を渡るには車は却って不便だと気が付いてホテルの駐車場にもどり、そこからは徒歩で街中を歩くことにした。 正直、狭い街だと高を括っていたのだ。 将未がこの街に住んでいるのなら、決して広くはなさそうなコミュニティの中で誰かしらとは関わっているのだろうと思っている。出会った経緯や、共に暮らしていた時のことを思い返しても将未は一人で生きられる人間ではないだろうと踏んでいる。世間知らずだ、と読んで近付いた男は予想していた以上に世間や社会に疎かった。何処か戸惑いを抱きながら生きている様子さえあった。そんな将未が知らない街で一人生きている可能性は低い。虱潰しに当たればどこかで将未に辿り着くだろうと目論んでいたが、まだ賞味二日目とはいえあまりに手応えが無かった。 人を見付けては歩み寄り、この男を知っているかと尋ねながらスマートフォンに保存してある将未の画像を見てもらい、既知であるかどうかを尋ねる。作業はたったそれだけと言っても良かった。それだけの作業に、手応えがない。 相手はまず龍俊の姿を物珍しげに眺めた後、画像を覗き込んで首を捻る。次いで訝しげに眉を寄せた後には概ね知らない、という想像通りの答えが返ってくる。それを幾度繰り返したかわからない。光の見えない旅路は精神と体力の両方を消耗させていく。それでも龍俊は、将未を放り出してしまえない。 ──聴き込んだ中の何人かに妙な反応があった。 大抵の場合は知らないと答えた後にもう一度画面の中を凝視して、自分が尋ねられた対象に確かに心当たりが無いことを確かめる作業がある。だが、幾人かの反応はそれと異なった。知らない、と口にする段階までは他とは変わらない。だが、その後にすぐに龍俊の顔や姿を眺め、そして一様に軽く眉を顰めて見せながら口を開く。 「お兄さん、あの子のなんなのさ、」 人間とは不思議なものだとつくづく思う。同じ反応を見せたのはどれも街中の小売店や飲食店の店員達だった。中には田舎に不釣り合いにも見えるチェーン店のコンビニの店員にも同様の反応をした人間がいた。 全く関わりのない──知らない人間に対して、あの子という物言いはするだろうか。あんな風に、不審がる目をして自分を見るだろうか。 全く知らない人間が全く知らない人間を探している事に何か疑問を抱く可能性はあるだろうか。 可能性はゼロではない。だが龍俊自身も尋ねる回数を重ねていくうちに反応の中の機微を僅かであるが読み取れるようにもなってきている。眉を寄せ、突き放すような口振りは文字通りに龍俊を遠ざけようとする向きさえ感じられる事もあった。それはそのまま、将未を護っていることにも繋がらないだろうか──。 いつの間にか、その反応に縋る自分がいることに気が付いた。 将未はこの街にいた。もしくは、今も滞在している。 この街で、将未は人に護られて生きているのではないだろうか。 それは、人から逆に尋ねられる度にともすれば考え込みそうになりながらも、曖昧な笑顔を見せて「知人」だという答えを口にする自分に対する警戒に近い眼差しを経て感じたものだ。あれは田舎に住む人間独特の連帯のようなものだろうか。そうであれば、龍俊には持ち合わせない、持ち合わせたことの無い感覚だ。 起こる事全てを拾おうと敏感にさせた五感が知らせる。この街に将未を知る人間はいる。そうであるのなら、将未は今何処にいるのか。まだこの街に留まったままなのか。 将未は、ここで幸せに暮らしているのか。 堂々巡りのように行き当たる疑問に思わず溜め息が零れた。スマートフォンを取り出して時刻を見る。夕食時はとうに過ぎ、駅前だというのに暗い田舎道には車の量も人の行き来も少なくなっていた。今日の捜索は終わりにしよう。思いつつ顔を上げ、周囲を見渡す。昼間聞き込みに入った小さな食堂が目に入った。雪の中、暖簾が下がり暖かそうな灯りは付いていたが、あそこの女将と思しき女もまた、将未の写真を目にした後に例の言葉を口にした。 「…で?お兄さん、あの子のなんなのさ、」 警戒心を隠しもしない、純粋で頑なな態度だった。日頃──ススキノにいた頃には何事に於いてもスマートであることを心掛けていた龍俊はこの街に訪れてからは殻を纏うことを忘れている。迫力すら感じられる女の目に、龍俊は思わず狼狽した。 あれは自分の母親とは異なるタイプの母親だろう。将未はここでも、恐らくは雄誠会にいた時も、必ず誰かに護られている。自分もまた母親に護られてはいた。だが、それは道の半ばで放棄されたようなものだ。立ち塞がるような女の姿に将未が護られているのだとしたら、羨ましいとすら思ってしまいそうだった。 将未の素直さは、幼少期に暖かな家庭で育まれたものなのだろうかと思い至らせては立ち止まる。将未は自分の昔話をしない男だった。もちろん、龍俊自身も将未と暮らしていた時には余計な話はしなかった。上札してからずっとそうであったように、嘘と虚構で塗り固めたものだけを口にした。身の上話などもってのほかだ。人のことは言えない。だが、自分は将未のことを何も知らない。 何も知らない男に、どうしてこんなにも惹かれ続けているのだろう。 淡い溜息が白く目の前に現れては落ちていく。道端で考え込んでいても体が冷えるだけだ。食堂をやり過ごして広い道路を渡る。店の先に出ている看板に灯りが付いている様子が目に入った。スナックと記されている看板から建物を見遣る。比較的新しそうな小綺麗な佇まいに、龍俊はふらふらと引き寄せられ、雪に冷えたドアの取手に指を載せた。 「いらっしゃい、──…、」 店内の暖気に顔を撫でられ、思わず息を逃す。カウンターの向こうに店主と思しき男がいる他は客は無かった。こんな夜には外を出歩く人間もいないのだろう。一杯引っ掛けてホテルへ戻ろうと思い巡らせつつフードを取り、真っ直ぐにカウンターへと歩を進める。幾分か年配の店主が手を止めた気配はあったが、顔も見ずに止まり木へと腰を下ろした。 「水割り、」 店主の向こうには壁に添わせるように酒の瓶が並んでいる。暖気に包み込まれた為なのか、どっと肩を重たくする疲労によって何かを選ぶことも億劫になり、ぽそりと口を開くことだけに留めた。龍俊の声に、店主は何かを思い出したかのように手を動かし始める。コートを脱ごうとした際に習慣によってスマートフォンを取り出す。上着を隣の空席に預けてから、ようやく温まり始めた指先でスマートフォンの画面を起動させた。 「あのさ、」 声を掛けるべき相手は店主しかいない。からん、とグラスに氷が入った音をさせた男が、弾かれたように顔を上げる。それでも龍俊は未だ目を合わせることなく、今日幾度も繰り返した動作で男にスマートフォンの画面を表示させて見せた。 「この男を探してるんだけど。知ってる?」 男が表情を変えることなく画面の中を覗く。ようやく店主の顔を目にする龍俊は、じっと反応を伺っている。何処となく影のある男だと思ったが、今日見た人間の中では少し垢抜けているだろうかと感じる。男の目がふ、と伏せられた。指が酒の瓶を取る。 「さあ…。…知らないですね、」 低く、平坦な呟きだった。首を捻るような動作こそなかったものの、考える間は僅かにあった。画面は再び男の視界に収まることはなく、間もなくグラスに酒が注がれる音がした。龍俊にも、龍俊の動作にも興味も無いのか、淡々とした動作でマドラーの中を混ぜた後、男はカウンターの上にグラスを滑らせた。 「どうぞ、」 短く言って、すぐに龍俊に背を向ける。蓋を閉めた酒の瓶を元の位置に戻す背は存外広かった。愛想も素っ気もないこの男の動作をぼんやりと眺めつつグラスを傾ける。例の言葉は続かないようだった。 再びカウンターに向き直った店主は黙々と細かな作業をしているようだった。都会から出てきてこのような場末のスナックを経営しているのだろうか。そうであるのなら、この男が垢抜けながらも見るからに影を纏っていることも頷ける。勝手な想像をしつつ少しずつ酒を喉へと流していくうちに体が内側から温まり始め、疲労が眠気を連れてくる。体が暖かいうちにホテルに帰って休もう。鼻から呼気を逃してスマートフォンをしまい込んだ。 互いに無言のまま短い時間が過ぎた。相変わらず客は来ない。他に従業員もいないらしい店内には、店主が食器を扱う音と、龍俊が揺らすグラスの中で氷がぶつかる音だけが思い出したように響くだけだった。 ○○○ その日唯一の客が店から去った。 背中を見送った滄はしばらく呆然とその場に佇んでいたが、我に返ったようにカウンターから飛び出ると、店先に出してあった看板の電源を落として中へと引っ込めてしまう。外の雪は変わらず降り続いている。こんな夜はどうせ客など来ない。店内の片付けも早々に切り上げ、2階へと上がる頃には転げるような足取りになっていた。 ドアを開く。普段には考えられない些か乱暴な物音に驚いた将未が半身を上げた。 「滄…?…もうそんな時間か、」 再び眠っていたらしい。しょぼしょぼと目を瞬かせる将未へと早足で近寄る。傍らのテーブルに置かれたトレイの上の食事はなくなっていて、錠剤の風邪薬もきちんと空になっていた。 ──いなくなる筈などないのに。 神原龍俊が店に現れた瞬間、時が止まるとはこのことを指すのだろうかと感じた。見間違いようのない顔に背筋がさっと凍り付き、足や手は動きを止めた。日々に追われ、焦燥感や虚無を感じる季節を重ねる中、それでも神原の顔を忘れたことはなかった。 過ぎったのは、そのしばらく前、食堂に行った際に女将が言っていた言葉だ。昼間将未を探す男が来た。 それが神原である可能性を考え無かった訳では無い。ただ、神原が将未を探す理由もまた思い浮かばなかったのだ。将未の口からは神原と何があったのかは聞いていない。だが、矢立の短い説明と、将未がここに流れてきたことだけを照らし合わせても将未が神原になんらかの害を及ぼされたということはわかっている。神原は、甲野にした事と同様に将未を利用するだけして、終わったものとして棄てたのだろうという見立ては間違っていない筈だ。そうであるのなら、あの男が将未を探してわざわざこの街まで訪れる理由が無い。神原は用済みになった甲野を何の迷いもなく切り捨てた。 今夜将未が店にいなかったことは偶然で、幸運だった。 それでも、今ここにいる筈の将未が拐われているのではないかという錯覚に陥る程、滄は動揺した。 寝惚けていることと、自分が2階にやってきた事で時の経過が曖昧になっているらしい将未が時計を見やろうとする。その額にそっと触れると、汗の引いた顔に宿る冷たさにか将未が心地よさそうに目を細めた。 「──…、将未、」 名前を口にし、両腕で体を抱き寄せた。驚き、揺れた肩が一拍置いて呼吸をし、滄の体に腕が伸びる。目を覚まして間もない体が少し熱を帯びている。薄い胸板が押し付けられた。 今度こそは護らなければならない。 口にすることなく目を伏せる。梳いていない髪に鼻先を埋め、自らの呼吸を押し殺して耳を澄ませる。風邪によって少し乱れた将未の呼吸の音を、身動ぎもせずに聞いていた。

ともだちにシェアしよう!