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朝早くに、矢立からの連絡があった。
あの男は職業に似合わず早寝早起きで、そして決して偉ぶることがない。
数日前になるが、神原が留萌に向かった筈だ。何かと立て込んでいて連絡が遅れた旨を電話口で詫びられた滄は苦笑するしかなかった。矢立のような人間に頭を下げられる理由がないことと、既に神原と顔を合わせたということは口にすることを避けた。遠方から気を揉ませても仕方がないだろう。矢立の方もこれ程早く自分と神原が鉢合わせているということを想定していないようだった。
短いやり取りだけの電話を終えて、滄は睡眠不足の頭を回転させる。電話の最中、滄はほとんど何も言わなかった。矢立の言うことを聞き漏らまいと頭の中に留め置き、今の状況を把握した上でこれから先、自分はどうすべきかの1点のみを考えていた。
「将、…広瀬、」
将未の熱は午前中に治まった。風邪薬が効いたのだろうと嬉しげに起き上がり、すぐにでも向かいの食堂の女将に礼を言わなければと外へと行こうとする将未を滄は止めた。今日も相変らず気温は低い。まだ外には出るなと言いつけてコンビニで朝飯を調達して来ると部屋を出た。駅の近くのコンビニで朝食を買い込み、その帰りの足を食堂へ向け、数分滞在した後に将未が待つ店の2階に戻った。
購入してきた食事を2人で取っている最中におもむろに切り出した滄に将未が顔を上げる。不思議そうな目は微かな罪悪感を抱かせるには十分だった。
「…病み上がりで悪いが、…お前は今日からしばらく向かいの食堂に手伝いに行ってもらうことにした」
視線を合わせ、言い含めるように告げられた言葉に将未は握り飯を咀嚼する動作を止めた。滄の言葉を理解する間を空けた後、将未の眉がみるみるうちに下がっていくのが目に見えてわかった。
「──、…俺は、もう要らない…?」
「違う…っ、」
将未は滄の前で泣いたことがない。だが、今にも泣き出しそうに歪む顔に思わず声のボリュームが上がった。泣かせたい訳では無い。誤解をさせる訳にもいかない。口にしたそれは、滄がほとんど眠ることの出来なかった昨日の夜中に練った苦肉の策に近いものだった。
「……食堂の女将さんが…、腰を痛めたらしい。…少しなら動くことは出来るが、料理を運んだり注文を取りに行くのが難儀だと言っていた。…だから、お前が手伝いに行ってやってほしい、」
先程食堂に顔を出した際、滄はこの男にしては珍しくしどろもどろになりながら、幸世に将未を預かって貰うように頼み込んできた。理由も告げることなく頭を下げた滄の様子を見ていた幸世は察しが良い。何も聞かずにしばらく将未を預かって欲しいという無茶で歪な頼み事と、その将未を探しているという男が食堂にやって来たという昨日の出来事を擦り合わせると、迷うことなく胸を叩いた。小柄な女将はその場で滄の頼みを了承してた上に、自ら将未を預かる理由を考え出してくれたのだった。
万が一また変な男が来たら、ちゃんと将未ちゃんのこと隠して、あたしが追い返してやるよ。
滄と幸世の、将未を護りたいという意思は重なっている。安堵する滄の背を強く叩き、幸世は任せなさいと大きく笑って見せてくれた。
自分は今度こそ将未を護らなけれならない。
昨夜訪れた神原は自分の正体に──滄の顔などまるで覚えていないようだった。雄誠会に入って来てすぐに神原はカモとなる男を物色し、甲野に目を付けた後は自分など眼中にはなかったのだろう。やがて滄から甲野を引き離す頃には滄などただの構成員の一人にしか過ぎなかったに違いない。
その甲野を自分は護れなかった。
滄の中には復讐心は無い。あるのは自責の念だけだ。
だが、将未のことは今度こそ自分が護らなけれならない。
将未は言わば矢立から託されたのだ。神原が将未を探す理由はわからない。理由がわからないのであれば、尚更将未を会わせる訳にはいかないと思った。
神原がいつ留萌に訪れ、いつまで滞在しているのかはわからない。昨夜は気が動転していたが、後になって尾行のひとつでもするべきだっただろうかとも考えたが、慣れないことは避けるべきだとも思った。神原が再びこの店にやって来ないとは限らない。その時に、この狭い店に将未を置いておくことは、あまりに危険だ。食堂が営業時間を終えた後は将未はこの建物に戻ってくるが、その時は適当な理由をつけて二階の自室に返してしまうしかないだろう。
「…でも…、滄と店が、」
将未は眉を垂れたまま滄を見上げる。突如命じららたことだ。困惑は無理もない。それでも滄は緩く首を振り、道すがら用意したセリフを淡々と口にする。
「…この後何日かは天気が悪いらしい。忙しくなるようなことはないから、…大丈夫だから、」
普段と変わらない風を装う滄の目に、将未が渋々頷いた。手にしたままの握り飯を小さく齧る様に滄が鼻から息を抜く。
──ひとまず、あの食堂に将未を預けて置けば幸世が言う通りに神原がやってきたとしても鉢合わせるようなことはないだろう。店は十分に広い。幸世も将未を護ってくれる。不自然さが滲んでしまうことは将未に対して避けたい。今はただ、神原がこの街にいるのかどうかもわからない不気味さだけが滄の胸中に留まっていた。
○○○
夜になり、街は昨夜と似たような天気になった。天気予報を見て予測していたとはいえ、この時期は概ね天候は荒れる傾向にある。正直、将未が居るか居ないかに関わらずこんな夜に店にやって来るような客は少ないのだ。
病み上がりだからととりあえず夕方頃に食堂に行かせた将未の様子は、夜になって早くも幸世からの電話で聞くことになった。
なんでも素直に言うことを聞くし、飲み込みや反射神経は良くは無さそうだがよく働いてくれる。うちのお父さんも喜んでるし、あたしの腰の心配までしてくれて胸が痛いよ。
幸世の声は快活で、いかにも息子が帰ってきたような明るさがある。慣れない食堂の忙しさや仕事に戸惑いながらも、懸命に働く将未の姿は容易に想像することが出来た。
ひとまず今夜は安心だろうか。定位置であるカウンターの中に立つ滄は鼻から息を抜いて誰もいない店内を見渡し、ラジオに指を伸ばそうとして止める。昨夜は、このスイッチに端を発したように神原が訪れた。思わず外へと耳を傾けては、人の気配に身を固くする。これを野生の勘と称するのだろうかと他人事のように思った刹那、既視感を覚えるリズムでドアが開いた。
「…いらっしゃい、」
既視感は間違ってはいなかった。果たして昨夜と同じような足取りと表情で、神原は現れた。
この店が気に入ったのだろうか。それとも、駅や小さな繁華街に程近い場所にあるこの店から、神原が泊まる宿が近いのかもしれない。やはり他人事のように考えは巡る。それでも、昨日よりは冷静でいられる自分を感じつつ、滄は背筋を伸ばした。
「水割り、」
昨日とほとんど同じ動作で神原は同じ席に着く。違うのは、手元のスマートフォンを滄に見せ付ける動作をしなかったことくらいである。注文を受けて作業を始めながら盗み見る神原の相貌は酷く疲れているように見えた。場末のスナックとはいえ、バーカウンターの止まり木の上で物憂げに佇む姿は確かに絵になる。だがそれは意識していないものだろう。小さな街とはいえ、手掛かりもなく人ひとり探すことの困難を全身で物語るような神原に、滄は内心で溜め息をした。
「──近くに、お泊まりですか」
情報が無いのは自分も同じだ。氷とウイスキーの揺れるグラスを差し出しながらごく短く発した声に、神原は弾かれたように顔を上げた。自分のことを覚えていたのかと目が言っている。表情に警戒心はない。むしろ警戒しているのは滄の方だろう。務めて冷静な素振りで──らしくないことをしている。
「昨日もいらっしゃいましたよね、」
普段であれば人の詮索などしない。まして相手は一見の、通りすがりと例えてもいい旅人である。常連客の会話は右から左へと聞き流す習慣がついているが、この男は別だ。自分に言い聞かせるように続けながら初めて神原と目を合わせた。
「…うん。まあ、」
そこ、と神原は小さく首を振って何となく後方を示す。確かに近隣に立つビジネスホテルに心当たりはある。神原は、場末のスナックの店主に対して全く警戒している様子はなかった。むしろ知らない街で誰かに話しかけられたことに安堵しているのか、微かに目元が緩んだ気配すらあった。
「いつまで留萌に…?」
神原がゆると目を瞬かせる。初めて問われ、初めてその答えを探さなければという驚きに見えた。様子を伺う滄ははたと気が付く。
この男は自分に関心はないのかもしれない。自分にも、他にも興味も関心もない。あるのは、将未を見つけ出すという思いだけなのかもしれない。
そうでなければ、今のこの男はあまりに無防備だ。かつてススキノや雄誠会で、肩で風を切るように歩いていた、金品や自尊心、自信と虚構で塗り固めていたような姿は見る影もない。あるのは、疲労し、弱り、それでも足を止めまいとする意思だけなのではないだろうか。──これは、素の神原の姿なのか──。
「…さあ…、…いつまで、だろ」
自問自答するように首を傾げる。その仕草が妙に幼いものに見えた。目の前のグラスには口を付けず、思い出したようにコートのポケットを探り、喫煙具一式を取り出した。滄はほとんど無意識の動作で灰皿を出してカウンターの上に置く。同時に短く断りを入れ、自分もまた煙草の箱の蓋に指をかけた。互いにライターを使い、息を吸っては吐く音だけがしている。照明の光度を抑えた空間に紫煙が浮かんだ。
「……本当は、地の果てでも、這ってでも追い掛けて探そうと思ってた、」
一点を見つめていた神原がようやく口を開く。告解のような声音がカウンターの上に載せられる。滄が少し顔を上げた。対する神原は顔を伏せたままで、表情を伺えることは出来なかった。
「泥…ていうか、雪まみれになっても、なんでも良いから見付けて、…会おうと思ってた。…でも、…多分、それは違うんだろうな、」
「……」
間が置かれる。言葉を探す気配がある。立板の如く言葉を使い、甲野を手中に収めていた神原の姿を思い出すも、今目の前に佇む青年には上手く重ねることが出来なかった。
ふと、視線がカウンターへと向いた。神原の右手は火のついた煙草を、左手は酒の満ちたグラスに触れている。その小指が欠けている事に気が付き、滄は不意に立ち尽くす。
指は古傷だ。恐らく、今まで神原が意識して隠していたそれは今は無防備に晒されている。この男はきっと、これまでに無いくらい無防備な姿を晒している。静かな声がカウンターを伝って滄へと差し出された。
「…彼が今幸せなら、…俺は多分、要らない」
「──……、」
朝の矢立との会話を思い出す。
矢立は、自分に預けると言った。
神原がもし広瀬を探し当てた時の差配は、自分に預けると。その一方で、将未の事を護って欲しいと付け加えられたそれは矛盾していると思った。
「今の神原は、恐らく広瀬に害を与えない」
「だがこれは俺の心象だから。他者の目から見ると違うかもしれない。もし俺が見た印象が間違っていて、神原がまた広瀬を傷付けようとするのなら、そのまま広瀬を護って欲しい」
それは、神原がススキノにいた頃から変わりが無ければ神原を将未から遠ざけろという意味だろう。自分は、自分がススキノを離れた後の神原のことを知らない。知っているのは、甲野を陥れて廃人にした男のことと、広瀬将未を騙して利用したという予測の元にある男のことのみだ。
それとほとんど同じように、矢立は留萌に身を移した後の将未のことを知らない。彼の心境も、生活も把握していない。その自分が将未と神原を決して会わせるなとは言うことは出来ない。あの律儀な若頭はそんな風に言っていた。
人の心は変わるからと矢立はぽつりと言った。表情の読み取りにくい、電話口での声音を耳にした滄は不意に足が止まるような心境に陥った。
将未を護ろうとする自分と矢立。
将未を探す神原。
そこに──将未の意思が存在していない──。
将未は果たして今幸せなのだろうか。
この小さな街の小さな店で働き、人の親切に囲まれ、時折自分と抱き合って眠る。その暮らしは将未にとって幸せだろうか。
留萌に流れてきた当初、将未が神原への想いを引きずっていたことは明白だ。
それから時は経っている。矢立の言う通り、人の心は変わる。
将未は今でも神原を想っているのだろうか。
自分を甘えさせる今の将未の胸にはもう1片も、神原への想いは残っていないのだろうか──。
滄が何も言わなかった為なのか、神原はそれきり口を開かなかった。互いに互いの吐き出す煙の中で黙り込み、やがて水割りを飲み干した神原が店を出ていくまでその時間は続いた。
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