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将未がスナックではなく、食堂の手伝いをするようになってから3日が過ぎていた。
将未は決してマイペースな男だというと訳では無い。ただ要領が良くないだけで、仕事振りはどこにいても素直なものだった。昼食時などは特に多忙を極める食堂の仕事を必死に覚え、目を回しそうになりながらも真剣に働いている。女将である幸世の仕事は主に注文聞きと配膳と片付け、皿洗いで、腰を痛めていても洗い物は座って出来るから、という幸世に従って将未は注文聞きと配膳、そして片付けや掃除割り当てられた。仕事や物の位置や段取りをは働いていくうちに頭の中や体で覚えていく。それでも、この店のような形態の飲食店で働いたことのない将未にとってはまだ慣れないことが多い。幸いなことに客はほとんどが常連である為に将未が叱られるような事はなかった。女将が厨房の中から皿を洗いながら目を光らせていることもあるだろう。それを差し引いても主に年配の人間達は、ある種純朴にも見える将未に甘い傾向がある。
不器用で、声は小さく、不測の事態にも弱い。それでも、幸世も店主も将未を叱らず、根気よく仕事を教えている。それはいつしか、滄に頼み込まれたからだという理由を越えたものとなっていた。
「さ、それじゃあお昼にしようか、」
昼食時のピークを過ぎ、食堂に客がいなくなった。この店は昼前から夜まで通して開けているが、それでも一時客のいなくなる時間はある。その間に将未はテーブルと床を拭き、休憩を挟みながらも夜に向けて店の中を整えることになっている。
腰を曲げながら出入口の引き戸を拭き掃除する将未の背に声が掛けられた。振り返ると、客席のひとつに3人分の昼食が並び、店主は既に席に着いている。幸世に手招きされ、将未は布巾を手に立ち上がった。初日は夕方頃からの勤務で、厨房の隅で夕食を取ることを勧められ、昨日はこうして昼食を出してくれた。遠慮する将未に「賄いだから」と笑う幸世は今日も張り切って茶碗の白飯を多めに盛って待っていた。
「…すみません。…いただきます、」
将未が席に着くと、店主と幸世が声を揃えて挨拶をした後に箸を取る。遠慮がちな将未の声に浅く頷いてから食べなさい食べなさいと促す幸世はごく嬉しそうだった。この中年の夫婦と共にテーブルを囲む時間は将未にとってやはり初めての経験で──好きな時間だと、思った。
テーブルの上には白飯と味噌汁と漬物、それと鶏の照り焼きが並べられている。肉の下にはきちんと青いレタスが敷かれ、茶色のタレが美味そうに掛けられていた。鶏もも肉を箸で摘み、口に運んではそっと目元を緩める様を幸世は正面の席で眺めている。彼女もまた将未の反応に嬉しげに双眸を細めた。
「美味しいかい?」
「はい。美味しい、です」
甘辛い醤油味が残る口の中に白飯を頬張る。こくりと頷く姿に軽く視線を上げた店主も普段はあまり開くことのない口を開いた。
「たくさん食え。腹減ったろ、」
「はい、」
「お前は影日向…、…人の目があっても無くてもよく働くから。腹も減るべさ」
日頃あまり多弁ではない店主が珍しく言葉を続けたことに将未は緩く目を瞬かせ、その後に向けられた言葉の意味を考える。褒められたのだ、と気が付いてはどうすれば良いのかわからなくなって慌てたように目を伏せることしか出来ない。
これまで将未は、誰かに叱られることはあっても、褒められる経験はごく少なかった。
ススキノの違法風俗店で働いていた時に少年だった将未を褒めてくれた客は存在した。だが、あれは今自分が貰ったものとは性質が違うものだろうということはわかる。あの乱暴で粗雑な店主からは無論褒められた記憶などない。
雄誠会にいた頃には、掃除をしている様を見たヒデや、茶の入れ方を教えてくれた鞍瀬や、客人である幡野に出した茶を褒められた。あの時も、自分はどうすれば良いのかわからなかった。それでも、胸の内がぽっと灯りがついたように暖かくなる。擽ったさに似た感覚に、将未は慌てたまま味噌汁を啜った。
「本当ね。将未ちゃんは働き者だわ。ずっとウチで働いてもらいたいくらいだわ」
「……」
幸世がどこかしみじみと言いながら漬物を齧る。店内では付けたままのテレビが昼のワイドショーの音を流していた。
「滄さんのところも良いけどさ、このままウチで働かないかい?」
「…それは…」
名前を出されるよりも先に将未の頭には滄の顔が浮かんでいた。幸世が目を合わせないまま口にするそれが本気かどうかは将未にはわからない。戸惑い、箸を止める将未を店主がちらりと見やった。
「…そんな大事なことを簡単に言うもんじゃねえ。今は良くてもそのうち俺らも歳食うんだ、」
窘めるような目をしている。暗に秘められた現実に幸世が苦笑し、優しい目で将未を見やる。冗談よ、と小さく足した。
「…なんてね。…ウチの息子達はもう帰っては来ないからね。アタシ達が閉めたらこの店はおしまい。そうなったら今度は将未ちゃんが困るもの、」
「それになあ、…お前みてえな若い奴がこんな所にいちゃいけねえんだ。…本当は、滄の奴もそうなんだ、」
店主の声は穏やかだが、どこかに義憤にも似た強い語調が含まれていた。この夫婦は滄の事情を知っているのかもしれない。否、札幌という大都市からこの街に流れ着いた滄や、将未の事情は知らなくとも──衰退していくばかりの地方都市の現状は知っているのだ。
男の言葉に含まれた真意は将未にはわからない。代わりにじっと視線を落とし、そして顔を上げて窓を見る。窓の外、道路の向こう側には滄の店がある。
滄は自らここを選んだと言っていた。だが、自分はどうだろう。
自分は事情に流され、ススキノを出てこの街にやってきた。それは矢立の手引きによるものだ。将未が自ら選んだ場所では無い。もし今ここで、自分をこの店で働かせて欲しいと口にすることは、これまで人や事情に流されるばかりだった自分が、初めて自分で自分の道を選ぶということになるのだろうか。
テーブルの上を見下ろし、箸を動かす店主と女将を見る。それは将未の知らない形だ。かつて、龍俊が貸してくれた部屋で龍俊と暮らしていた時にダイニングテーブルを囲んでいた形とはまた異なるものだ。両親と食卓を囲んだことの無い将未にとって初めて経験するそれは、これも幸せのひとつなのだろうと思わせるには十分なものだ。もしここで幸世の誘いを受けたのなら、この幸せはずっと続くのだろうか。それはそれで、自分にとっての幸せになるのだろうか──。
いつしか箸を止めていた自分に気が付いた。話は終わったのか、店主と幸世は揃って店内のテレビを眺めている。なんとなく落ち着かない心持ちで食事を再開したその時、がらがらと音を立てて引き戸が開いた。
「…どうも、……飯時か、」
「あら滄さん。今日は早いわね、」
扉の向こうから長身がのそりと入って来るなり男の視線は将未を探す。3人で──あたかも親子か何かのようにテーブルを囲む様子を見た滄の目が軽く丸くなった後、眉を垂れた笑みに変わる。滄は昨日も様子を見に来てくれた。夕食時、混雑する店で忙しく動き回っている将未を発見した時と同じように安堵したように肩の力を抜き、いつもの席の椅子を引いた。
「滄さんも同じの食べてく?賄いだけど、」
「…手が掛からないものなら何でも良い、」
飯時を邪魔したみたいだから。小さく呟いて離れた席に腰を落ち着けてしまう滄を見届けてた将未が密かに眉を下げた。滄もこの席に加われば良いのに。思うものの、口にすることはない。滄は今日も病院に行ってきたのだろう。先程の店主の言葉を思い出す。
滄はこの街に──甲野に、縛られているのだろうか。この街で甲野に寄り添って生きることは滄の幸せに繋がっているのだろうか。
滄の、自分の幸せとはなんだろう。
巡らせる思いは酷く漠然としている。立ち上がり様、幸世が茶のおかわりはと伺ってきた。優しい笑顔を見上げ、滄とこの夫婦がいる空間にいられる自分は、果報者だと思った。
○○○
朝早くにホテルを抜け出し、近隣の街へと車を走らせようとした龍俊の心は昼前に折れることとなった。
カーナビで適当に入力した「近隣の街」は想像した以上の走行距離が示され、おまけに今日も天候は悪い。辛うじて吹雪いてはいないものの、雲がどんよりと垂れ篭めている。一筋の光も射していない空を見上げては大きく溜め息を吐いてから車を出したものの、この街の天候は変わりやすいということを把握しつつある龍俊にとっては不安でしかない。案の定、市街地を抜け、荒れて白波が立つ海が見える頃には風が強く吹き始め、視界が悪くなってきた。
雄誠会の事務所に連れ込まれた夜からはほとんど衝動のみで動いたものの、都会でしか運転したことのなかった自分が札幌から留萌まで車でやってきたこと自体に自ら感心する。途中で見付けたコンビニに立ち寄ってコーヒーを買い求め、駐車場で天候が回復するのを待ってみたものの空は依然と白いままで、あと少しで留萌を出ようかという地点で風が一層強く吹き始めた。周囲の景色がホワイトアウトする一歩手前まで変わった所で仕方なく撤退を決めた。
ゆっくりとした、というよりも恐る恐るの運転で市街地に戻ったものの、このままでは今日の午前中の収穫は無くなってしまうことに気が付いて駅前へと車を回した。市街地は幾分か風が収まっている。人通りはぽつぽつとあるにはあるが、悪天候の中、道を歩く人々の顔をひとつひとつ確かめながら運転するのはあまりに危険だった。
ふと、古びてはいるがやや大きめの三角屋根の建物を見掛けて何気なく車を向ける。風雪にさらされた看板を窓越しに見てみると商工会議所という文字が読み取ることが出来た。運が良ければ人が集まっているだろうかと駐車場を探し、空きスペースに車を停める。降りて建物へと近寄ってみると中の照明がついていた。誰かしらはいるだろう、とそっとドアを開ける。廊下の向こうから大人が談笑していると思われる声が聞こえ、導かれるように足を進めた。突き当たりのドアを見上げる。貼られたプレートには談話室と記されていた。
「…あの…、」
遠慮がちに扉を開き、顔を覗かせた。3名ほどの男達がいて、各々ジャンパーやコートを着込んだままでパイプ椅子に腰掛けている。何かの会議中であるという雰囲気ではなかった。湯飲み茶碗片手の会話を途切れさせた男たちは、現れた人間に一視線を送る。剣呑な空気では無い。
節約の為なのか、暖房器具が稼働していない室内は冷えている。辛うじて息は白くはないが思わず身震いする龍俊の顔を確かめた男達の中の1人があれ、と声を上げた。
「兄ちゃんまだここ:(留萌)にいたのかい。見つかったか?」
男は初日の聞き込みの最中に会った商店街の何かの店の店主だった、気がする。龍俊自身の記憶は曖昧だが男の方は龍俊のことを覚えていたのだろう。人の良さそうな笑顔と共に問い掛けられる気安さに龍俊は苦味の混じる愛想笑いを返すしかない。なんだ、と他の男に問われたその店主が人探しだとよ、と簡潔に説明する間に、慣れた動作でスマートフォンを取り出した。
「この男を探しているんだけど、」
事情を聞いたばかりの男二人が画面の中を覗き込む。少しの間の後に、男達が目配せする瞬間が、あった。
「……さあ?…見ねえ顔だな」
「俺も知らねえな。…兄ちゃん、刑事さんかなんか?この子の何?」
──久方振りに、この言葉を聞いた気がした。
少なくともこの二人の男達は将未を知っている。これまでに数人の人間からも得た反応だ。だがいつもここからが進まない。ここにいる男達の職や、商いをしている店を聴き込むことが出来れば新たな手掛かりが得られるような気がしたが、不自然さは否めないだろう。自分のことを不審がられ、それが街に知れ渡ってしまうことは避けたい。
どうしたものか、と思案しつつ礼を述べながらスマートフォンをしまい込む。今度こそ訝しがる目線で見上げられ、その目に怯んだ龍俊が思わず後退しかけた背後で音を立ててドアが開いた。
「よお、」
ニット帽を被った男がにこにこと声を掛けるのは龍俊ではなく中にいる男達である。ドアの側に立っていては邪魔だろうと避けた龍俊をちらりと見遣り、見ない顔だと片眉を上げたものの、気に留める理由がなかったのか男はそのまま室内へと入り、空いたパイプ椅子を引き寄せた。寒い寒いと笑いつつストーブの前を陣取ると、音を立ててスイッチを入れて椅子に深く腰を下ろす。古そうなストーブが稼働する音が響き始めた。
「まだ降ってんのか」
「降ってる降ってる。こりゃ今日も積もるぜ」
煙草の箱を取り出し、片手でアルミの灰皿を引き寄せる。のんびりとした風情の男は他の三人よりやや年配に見える。上手そうに煙草の煙を吐き出しながらポケットに忍ばせていたらしい缶コーヒーを取り出した。その動作を見やった男が1人苦笑を滲ませる。
「またそんな甘いもん飲んでんじゃねえよ。糖尿だろ。飯は?」
「食った。食った。…そういや駅前の食堂で飯食って来たんだけどよ、なんか知らねえけど滄ンとこの将未の奴がせっせと働いてたぜ。アイツ昼間見るとやっぱり可愛い顔…」
「──ばっ、お前、」
悠長な声音で持ち込まれた世間話に、先程龍俊のスマートフォンの中を覗いた男二人があからさまに慌てた。今まさに部屋を出ようとした龍俊が背を向けたまま足を止める。振り返ると、ストーブの側の男がきょとりと目を剥く様子と、肩を並べた男二人が天を仰ぐ様子が同時に視界に映りこんだ。掠れそうになる声を発する。
「──その食堂、何処ですか、」
光が、見えた気がした。
○○○
遅い昼食の後、仕事で使用するエプロンだとかゴム手袋だとかを借りてばかりでは申し訳ないと訴える将未を伴い、食堂を出た滄は信号待ちの歩道に立っている。今は夕飯時の前で、客がいないから構わないと幸世に言われて安堵した将未が半歩後ろで白い息を吐き出していた。朝から降り続いていた雪は昼を境にぱたりと止み、代わりに抜けるような晴天が広がり、放射冷却による殊更低い気温が街を包み込んでいた。
信号が青に変わる。のんびりとした足取りで雪を踏み、横断歩道を渡り始めた二人の背後で車が一台止まったが気に留めることも無かったのは、程なくして食堂の引き戸が開く音がしたからだ。客が来たのかと案じたらしい将未が軽く振り返る気配がしたが、ほんの少し緩く首を傾げただけですぐに歩き始めた。
正面の出入り口のドアを開けた。暖房の入っていないスナックの店内は冷え切っていたが、にわかに歩調を早めた将未は滄を追い抜く形で店に入り、今夜の滄の為に暖房のスイッチを入れる。同時に、薄暗い店内を明るくする照明を点灯させた滄がバックヤードへ向かい、すぐに将未の仕事道具一式を手に戻ってくる。将未がどこか落ち着かないのは、先程路上で停止した車の運転手が食堂に入っていったからだろう。食堂に客が来たからには自分が働かなければならない、という使命感が滲んでいる。幸世の腰は悪くはない。簡単な嘘にあっさりと騙されてしまう将未に一抹の罪悪感と不安とが生まれると同時に、だからこの男は今この場所にいるのだろうと妙に納得がいった。
「ほら。…夜からも、頑張ってくるんだぞ、」
「うん、」
手渡すエプロンとゴム手袋を受け取る将未がやはり真剣な目で素直に頷く。罪悪感を薄めたく思ったが故に言葉を探したものの、いかにも保護者のようなことを言ってしまったと滄は口を噤む。なんにせよ素直さは美徳だ。どうやら将未なりに張り切っているらしい空気を漂わせる様に軽く双眸を細めてから背後にあるドアに手を伸ばし、導くように開けてやった。
見送る形で再び外に出る滄が、雪と太陽の眩しさに目を細めた刹那、何処からか声が飛んだ。
「──将未!」
「──、」
弾けるような声に、将未と滄が同時に足を止めた。どこから呼ばれているのかと視線を巡らせた将未は、通りの向こうでほとんど同じように立ち尽くしている男──神原の姿にぴたりと視線を合わせ、そのまま静止する。あたかも凍り付くように止まった空気と景色の中、神原だけが車を置き去りにし、雪を蹴って駆け出した。滄が声の主に覚えた背筋が冷える感覚は、数日前に神原がこの店に訪れた時と同じものだった。信号は青だが車は通らない。横断歩道の存在を無視し、小さく雪煙を上げながら自分達へと向かってくる神原に息を詰めた滄は咄嗟に足を踏み出してほとんど無意識に将未の両肩を抱く。背後から掴んだ体をそのまま強引にドアの中へと引き込んだ。
「滄…!?」
驚く将未の声を背に扉を閉める。そのドアの前に文字通り立ち塞がる頃には、通りを渡り切った神原が白い息を乱し、必死な眼差しで滄を見上げていた。
「今…、将未が、」
「…っ、……会えると、思ってるのか、」
言葉を探す余裕は無かった。日頃保っている冷静さを失い、ただ込み上げた言葉を発すると、滄自身も、神原もハッとしたように口を噤む。しかし後には退けない。滄は揺らぐまいとするかに雪を踏み締めて神原を睨め付ける。
「…なにをしに来たんだ、」
目の前の男は、自分と自分の後ろにある店を認識しているのだろうか。夜に足を向け、会話を交わしたスナックの店主が将未を隠したと気付いているだろうか。──かつて自分が謀った男の背後に立っていた男だと、気付いているだろうか。明後日の方向で思ったが、今は全てどうでもいい事だった。
「神原、だろう」
「……、」
自分の正体を知っているのかと視線が問う。ああこの男は自分のことも甲野のことも忘れているのだと思うと、今度は別の方向に感情が振れてしまいそうだと思った。今は将未を護ることだけが自分の使命だ。この、必死で、弱々しく見える、髪と息を乱してやって来た年下の青年から将未を護ることだけが、自分が今するべき事だった。
「何をしに来たのかは知らないが、…自分が将未にした事をわかっているのか、」
「…っ、」
呆然と滄を見上げていた神原の顔が初めて歪んだ。痛みを堪えるように眉を寄せて目を逸らす。滄の方こそ、この男が将未にした仕打ちを全て知っている訳では無い。だが、はったりでもなんでも口にした方が勝ちの局面であるということ位はわかる。そして、こんな局面で目を逸らしてしまうことは、弱気や後ろめたさを表しているようなものだ。
「また将未を傷付けに来たのか。…ススキノにいた頃と同じように、騙して、手なずけようと──」
──本当は、何が将未の幸せであるのかを考えている最中だった。将未に、今も神原に会いたいかどうかを問うても良かった。その答え次第では、神原に会わせることも検討しようとも考えていた。だが、咄嗟に出た行動も、口にしたそれらも意思に反した。
この男の目的がわからないうちは将未には会わせられない。将未の意思がわからないうちは、神原を会わせることは出来ない。
いずれにせよ、将未が傷付く可能性が少しでもあるのなら、神原はここから遠ざけるしかないのだ。
「違う…!違う、俺は、」
あくまで静かな物言いに神原が垂れたままの頭を強く振った。その様が、自分がかつて甲野の向こうに見ていた神原とはあまりにかけ離れている事に滄は軽く目を瞬かせる。自分の知る神原は余裕と、目に見える煌びやかさと、虚構だけを纏う男だった。世の中の全ては自分の思い通りになり、手に入らないものは無いとでも思っているような顔をして肩で風を切るように歓楽街を闊歩していた男だった。
だが今はまるで違う。上等なコートは纏っているものの、片田舎の路上で項垂れる青年の姿にはススキノのネオンの下で見た余裕など欠片も見られない。細い背が酷く小さく見え、滄の胸が微かに軋む音がした。
「……なんにせよ、今は会わせない」
将未に会いに来た理由がわからないままでは、神原を将未には会わせない。固く決め、落とすように告げる。ようやく再び顔を上げた神原が滄の目を覗き、眉を寄せる。その顔が今にも泣き出してしまいそうで、滄は将未のことを思い出す。背にしたドアの向こう側で、将未も今、同じような表情をしているのではないか──。
「引き取ってくれ」
「……また、来るから」
神原は下唇を噛み締めた。それでも、悔しげな瞳を上げると滄と目を合わせ、絞り出すような声を取り出した。滄の返事を聞くことなく背が向けられる。コートの肩を落とし、来た道をとぼとぼと歩く神原が道路の向こうの自分の車に乗り込む様子までを見届けた。
車のエンジン音に目を覚ましたようにドアを開ける。中では、滄が店内に押し込んだ時と変わらない位置で将未が呆然と立ち尽くしていた。
「……滄、──どうして…?」
たった一人、事態を飲み込めていない青年が呆けたように名前を呼ぶ。短く足された声が微かに震えている。滄は、自分はこの男が泣く所を見たことが無いのだということに今初めて気が付いた。
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