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小さなスナックの、狭いバッグヤードからカウンターのこちら側にはずっとぎこちない空気が流れている。
結果的には龍俊を追い返した形となった滄が開けたドアの向こうで、将未はただ呆然と佇んでいた。店を開ける、と声を掛けたところで我に返った様子を見せたのは恐らくただの自分に与えられた仕事を務めなければならないという使命感によるものだろう。明らかに心ここに在らずといった風の将未を、引き続き向かいの定食屋に送り込んだところで迷惑を掛けかねないと判断した滄は罪悪感に駆られながら女将に電話を入れた。どうやら将未は体調が優れないようだと断りを入れると、道路を挟んで立つ店からの電話に女将は幾分か不審そうな声をしていたが気付かない振りを決め込んだ気配が受話器越しに伝わってきた。世話は焼くものの詮索はしない彼女の性分に滄は感謝するしかない。
将未の意識を取り戻すかに宣言したものの、このまま今晩店を開けるか否かも悩んだが、閉めた所で滄が将未に───何処へ言ったのかもわからない龍俊に対して出来る事はない。それは将未とて同じことで、店を休みにした所で2階の自室でただまんじりともしない時を1人過ごすか、ともすれば───この雪の中、神原を探しに出かねないとも思った。
幸い店を開けて間もなくして地元の2人連れ客がやって来た。仕事帰りだと言う2人組はツマミを口にしながらカウンター席でだらだらと呑んでいる。将未と2人きりになることもまた避けたかった滄は、いつになく客の世間話に付き合いながら時折将未を横目で見遣る。
将未は呆けたように、それでも滄に命じられるままに、あるいは店で働くようになってから与えられている裏方の仕事を無心にこなしているように見えた。いつも通りにバックヤードの細かい掃除をしつつ、下がってくるグラスを洗い、注文を受けた乾き物を皿に盛る。最近では出来ることも少しずつ増えている。将未の暮らしや、生活や、心身は安定している筈だった。
どうして、と零れるような将未の問い掛けになんと答え、どう説得したのかは覚えていない。呆然と立ち尽くしていた将未に掛けるべき言葉をすぐには見つけられなかった。ただ、言い訳のように、目の前の状況から逃げるように店を開けるから、と呟くと将未は呪文を掛けられたように、自分のやるべき事を思い出し、彼なりの使命感に促されたように頷いた。
今夜はもう龍俊は訪れないだろう。滄が向けた言葉を聞いてあの男が何を思ったのかはわからない。それだけではない。偶然にもこの店のドアを開いた龍俊と幾度か会話を交わしたものの、龍俊がわざわざこの街まで将未を探しに来た本当の目的も、彼の本心もまだわからないままだ。
龍俊が滄に口にした言葉を鵜呑みにする程情に脆くはないし、甘くもないつもりだ。
矢立の言葉も頭の中に留まっている。
神原龍俊を将未に会わせる訳には行かない。
自分は将未を護らなければならない。
もう二度と、同じ轍を踏まないように。
明日からのことを考える。龍俊がいつ諦め、この街から引き上げる気になるのかなどわかるわけも無い。かといって、将未をこの建物に軟禁するような真似をする訳にもいかない。自分はどうするべきなのか。考えると、無意識に溜め息が零れる。飲み込み、客のグラスを見ると空になっていた。おかわりは、と尋ねると同じの、と水割りを所望された。空のグラスを手に、将未のいるバッグヤードへと向かい流しにグラスを置く。滄が歩み寄ってきたことにようやく気が付いた将未が顔を上げた拍子に、将未が手にしていた洗い立てのグラスが指から滑り落ちた。ガラスが割れる音に将未は正気に戻ったように目を瞬かせた後、今にも泣き出しそうに眉を下げた。
「ごめんなさい…、」
───泣いたり、怒ったり、拗ねたりしてくれた方がまだマシだ。
泣きそうな顔をするが、泣くことはない。将未は感情を露わにすることが少ない、というよりも、感情の表出が下手なのだ。頭に触れようとして止める。代わりに、出来る限り優しい声を意識した。
「…気にするな」
明日からに対する妙案は、すぐには思い付かなかった。
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