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前日の夜に店の2階で眠った滄は、将未が目を覚ました時には部屋にも店にもいなかった。恐らく、いつもの通り、いつもの時間に起き出して身支度を整え、いつものように車に乗り込み店から離れて行ったのだろう。 滄はどんな時でも街の大きな病院に通う。滄自身の身に何かが起きても、将未に関する何かがあっても、必ず甲野という男に会いに行く。それが滄の真面目さであり、律儀さでもあり、滄がこの街で生きている理由だ。だから───自分の為にその習慣を崩すようなことがなくて良かったと将未は思う。滄が自分の為に身を呈し、今の生活を壊すような事があってはならない。 将未の方も普段と同じようにベッドから抜け出して顔を洗い、簡素な服装に着替えたものの、依然として気持ちは落ち着くことが無い。 昨日目にした龍俊の姿が残像のように焼き付いて消えない。 ふわふわとした、何処か夢心地にも似た感覚の中で幾度も反芻している。 雪の積もった真冬の街の中に立ち、自分の名を呼んだ人間の顔をはっきりと見た。 あれは確かに龍俊だった。 どうしてここにいるのだろう。札幌の、あの豪奢なマンションに住み、泳ぐようにススキノに生きている筈の龍俊と、あの時確かに目が合った。ほんと一瞬、自分の名を口にした龍俊の声が耳に留まり、一晩中ずっと消えていかない。胸の奥に留めたまま、丁寧に指でなぞるように思い返しては胸がじわりと熱くなる感覚になる。思えば思う程に狂おしい程に逢いたくなる感情が恋であることを自覚したのはいつの時だっだろう。 永遠に叶うことの無いと思ったその感情は札幌に置いてきた筈で、忘れようと試みたそれが未だに消えていなかったことを思い知らされる。 龍俊を忘れなければと思った理由は、龍俊にもう二度と会えないからで、龍俊は自分を不要だと言ったからだ。自分自身も思った通りに、叶う事のない恋ならば忘れることが唯一の正しいことなのだろう。滄も、忘れろと言っていた。忘れた方が、将未の為だと滄の目は静かに伝えてきた。 それなのにどうして龍俊は、自分の目の前に現れ、自分の名前を呼んだのだろう。 外に出れば、龍俊がそこに佇んでいるような気がしたが、それはただの妄想だ。ともすれば、昨日目にした光景までもが幻想であったような気がする。それでも将未は、龍俊が同じ街にいるというだけで今すぐにでもドアを開けて飛び出したい衝動に駆られる。 会いたい。その一方で、昨夜将未を制して龍俊と向き合う滄の背中を思い出す。ドアの向こうに立っていた滄は龍俊と何を話していたのか。滄は、自分と龍俊の関係を知っているのだろうか。気付いているのか、それとも自分を託した矢立から耳にしたのか。そのどれであっても、滄は自分を龍俊に会わせる気は無いのかもしれない。将未の前に立ち塞がり、すぐにドアの向こうに消えた背中と、戻ってきた滄の険しい眼差しはそんな風に語っていた。 そうであるのなら、龍俊を探しに行くことは、世話になっている滄を裏切り、失望させることとなるのだろうか。自分を保護し、住居と職を与え、平穏と安定の中に囲ってくれた滄を裏切ることになりはしないか。滄をまた、一人きりにさせるのではないだろうか───。 状況を掴めない現在は、龍俊と滄の両方のことを考えると将未は呆気なく行き止まりにたどり着く。自分はどうすれば良いのだろう。1人の部屋で途方に暮れる。 自分は、自分がどうしたいのかもわからないのか。 荒野のような冬の景色が広がる窓の外を見遣り、龍俊と滄の2人の顔を思い浮かべて、俯いた。 不意に、階下でドアを叩く音がした。この部屋で唯一時刻を示す枕元の目覚まし時計を見やると針は昼前を指していた。滄が店にやって来る時間にはずいぶん早い。昨日のことを踏まえ、病院から早く引き上げてきたのかもしれないと思うとまた将未の首が下がる。だが滄ならばドアをノックする理由は無い筈だ。とぼとぼと階段を降り、昼だというのに薄暗い店内を渡って店の正面のドアを開けた。 「ああ。いたいた。具合はどうだい?」 扉の向こうにいたのは向かいの食堂からやって来た幸世だった。店から来たのか、僅かな間でも寒風に吹かれてほんのりと赤くなってしまった年配の女の頬が嬉しげに綻んでいる。目を瞬かせる青年を見上げてにこにこと笑いかけるも、将未の姿を上から下まで眺めた幸世は軽く眉を寄せた。 「出掛けようとしてたのかい?ダメだよ。具合悪いならまだ寝てな、」 「……、」 昨日は、滄に命じられるまま食堂の仕事も途中で放り出してしまったことを思い出す。幸世や、食堂の主人への申し訳なさで胸が支配されるも、謝意すら上手く出てこないのは理由が込み入っているからだ。何から話すべきなのか、話さずにいるべきなのかがわからない。 滄は自分が食堂の仕事を途中で抜ける理由を体調を崩した為だと告げたのだろうか。困ったように佇む将未にの様子を気に留めていないのか、幸世は手にしていたビニール袋の底を持ち、慎重な手付きで将未へと差し出した。向けられるままに受け取ると、中には丼状の大きさと形をした温かい物が入っていることがわかった。 「玉子粥作ってきたからね。これ食べて寝てな。うちの店もここの店のことも気にしなくて良いからね。具合悪い時は温かくしてちゃんと寝てるんだよ」 「…ありがとう、ございます」 袋を覗く。店の丼にラップが掛けられた物と、その上に小皿に乗った漬物が数切れ置かれていて、それにもラップがかけられている。袋や幸世が濡れていない所を見ると雪は降っていないのだろう。だが、雪道の足場の悪い所をわざわざ運んできてくれた幸世に恐縮して身を縮めた。 「足りなかったら滄さんに言ってうちに取りに来て貰いな。丼返すのも滄さんに頼むんだよ。薬は?あるかい?」 昼の開店の準備を終えたのか、くるくるとよく働く女将は急ぐ様子も見せずに将未に言い聞かせる。曖昧に頷く将未に、片眉を持ち上げてみせた。 「具合悪い時くらい我儘言いなさいね、」 「…ワガママ…?」 耳慣れない単語だった。微かに上がった将未の語尾を女が拾う。空になった両手を腰に当て、苦笑混じりに青年を見上げる眼差しが柔らかい。 「滄さんにでも、アタシにでも言いから、ちゃんと我儘言いなさいよ。我儘も、思ってることもちゃんと口に出して言わなきゃ。思ってるだけじゃ伝わらないからね」 「……」 「そりゃ我儘ばっかりだったら滄さんも周りも困るかもしれないけど、思ってること全部引っ込めて我慢するばっかりが褒められるって訳じゃないべさ。」 褒められたい、という意識は将未の中の奥深くにひっそりと身を縮めるようにして沈んでいる。ワガママを言う、という行為はその隣に佇んでいるようなものだ。 誰かに我儘を言った記憶は無い。自分の我を通そうとした記憶も皆無だ。遠い、幼い頃に生きていく上での欲求として口にしたそれは簡単に、冷淡に跳ね返された。その記憶もまた意識の下に眠っている将未はその行為を知らずに生きてきた。 一方で───いつも誰かに、それは矢立であったり、ヒデや、そして龍俊や滄が───親切にしてくれる誰かに自分の意思を読んで貰い、汲み取って貰うだけの人間だった。将未にとっては至って無自覚のものであるものの、その事が恐縮で身を縮ませ、そしてともすれば一種の不遜さえも漂わせてしまうことには薄々気が付いている。 幸世の言うことは難しくはない。だが、将未がそれを行動に移すことは容易ではない。相変わらず困惑したように眉を垂れつつ言葉を探す将未の手の中にはビニール越しの温もりを感じる。それだけの事で、昨日から落ち着かなかった胸中が少しだけ静かになった。 「…もし、…ワガママを言っても、…滄は、俺を捨てない…?」 ぽつ、と転がった言葉に我に返る。それは自分の中に潜在的にあったものが言語化されたものだ。捨てられたくない。不要とされたくない。だから自分を引っ込めていたわけでも、我儘を言ってこなかった訳でもない。将未が何も言わずとも、将未は誰かに捨てられてきた。 自分の意思を口にしてもしなくても人に必要とされない時は訪れる。そうであれば、我儘など口にしてしまえば、今は自分を保護してくれている滄にまで要らないと言われてしまうのではないか─── 。 内心で思うだけで恐怖や苦しさ、渇望が込み上げて全身を支配しようとする。自分の意思を口にすることは怖い。怯えた瞳をする将未に、幸世がぱち、と目を瞬かせた。その様子に、明らかにまずいことを言ったと顔を歪める将未をまじまじと見上げた後、小さな、よく働く手を伸ばし、ぽん、と青年の腰を叩いた。 「あの、」 驚いた将未が幸世と視線を合わせる。幸世が高い位置にある将未の目を覗き込んだ。 「あの滄さんがアンタの我儘の1つや2つで怒ったり放り出したりするわけないよ、」 「……、」 幸世はからからと音が鳴るように笑い、仕方ないと言いたげに鼻から息を抜く。柔らかく慈しむような目は、将未のことも、滄のことも思っている。 「簡単に人を捨てるような…、滄さんがそんな人なら、…多分とっくにこの街にいないわ」 正気を取り戻すことのない、会話もままならない1人の男の為にこの街に移住し、夏も冬も、晴れの日も雪の日も病院に通い続けている。そんな滄の事情を薄らと汲んでは身を案じ、もう止せと声を掛ける人間はこの狭い町の中の1人や2人ではなかった。それでも頑固な程に真面目に、一途に1人の男に尽くす滄が、新たに保護した青年を途中で放り出す理由が幸世には見当たらない。だから将未にも、案ずることはないと笑って見せる。 「我儘の1つでも言ってごらん。大丈夫だから。将未ちゃん、我儘言ったことあるかい?」 将未が首を横に振る。ほら、と幸世が微笑んで将未の腰を摩った。シャツの布越しに伝わる柔らかさと温かさは、これまで他の誰からも与えられたことのない感触だと気が付く。 「大丈夫。アンタも滄さんも、喧嘩してどっちかが家出してきてもアタシが面倒見てあげるから」 だから心配するんでない。訛りを含みながら笑う幸世が冗談を言っているようには聞こえない。ぽ、と胸に宿る暖かいものは勇気と呼ぶことを知らない将未は、幸世の目を見たまま初めて深く頷いた。

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