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滄の身に何かがあったところで───滄の日常に何かがあっても無くても、甲野は何も変わらない。滄の状況や心境を知る由もなく、物を言わない筈の甲野の目に、それでも今日は何故か一層責められている気がした。そう思った事も気付かない振りをして意識の外へ押しやりながらも、滄は通常よりも少しだけ早く病院から引き上げた。
平静を保つべきだと自らに言い聞かせた訳ではない。将未の件と甲野の話とは切り離して考えることは当然の事だ。普段と同じように甲野の暮らす病院へ行ったものの、滄はどこか心ここに在らずといった風を隠しきれていなかったのだろう。帰路につく車のハンドルを握りながら浅い溜め息を吐き出す。
頭の中を将未と神原が閉めていることは自覚があった。
結局神原に対する妙案も思い付くことはなく、将未にも何も告げることは出来なかった。昨夜将未と同じベッドで眠ったものの、将未に触れることはしなかったのは将未に対する情が甲野に対するものとは違う為だ。神原に対する感情は嫉妬ではない。矢立から預かった将未を護ることだけが滄が神原を遠ざけたい理由だった。
将未は確実に神原の姿を目にした。神原もまた、将未の姿を確かめた。
これ以上2人を会わせたくないとはいえ、将未を軟禁する訳にはいかないだろう。顔を合わせると何かを言わなければならない気がして、今朝は将未が眠っているうちに部屋を出た。
将未が眠るベッドから逃げるように抜けて向かった甲野の責める目から逃げるように引き上げてきている。ここに来て自分は逃げてばかりだと気が付き、呆れた。
鼻から息を抜いて店の裏手に周り、駐車場に車を停める。暖房の効いた車を降りると一息に身を包む冷えた風にジャンパーの襟をかき合わせながらも、目は神原の姿を探す。周囲には気配が無いことを確かめてから勝手口のドアノブに触れた。
小さく音を立てて2階への階段を上がる。将未の居住スペースに繋がるドアを開けると、ベッドの上に腰を降ろしている将未がハッとしたように顔を上げた様子があった。まず将未が部屋にいたことに安堵したものの、目はどこか緊張に張り詰めている。滄の顔を1度見た後はうろうろと泳ぐ視線から、将未が自分に何かを言おうとしていることが伝わってきた。
「…飯は、」
「───食べた、」
言葉を探しているのは滄も同様である。車を降りる際に見たデジタル表示の時計を思い出しつつ問うと、将未は弾かれたように声を発する。何かがあったのだろうかと内心で気を揉みながらも部屋を見渡すと、テーブルの上に食事の後と思しき食器が並んでいる様が目に入った。
「向かいの、女将さんが運んできてくれた、」
並べられる言葉がぎこちない。予め用意していたものを思い出しつつ言葉を並べているような将未の表情もどこか硬い。神原のことで何か言いたいことがあるのだろうかと身構えてみるも、なかなか次の言葉は出てこない。軽く身を屈め、向かいの定食屋が使っている空の丼と小皿をまとめて手に取った。
「…あ、」
「…返してくるから、」
滄の言動に、将未が一層戸惑いを見せる。この食器を返すことを口実に外に出たいのだろうか───思っては、自分の言動が将未にとって余計なものであったのか、自分にとっては正しいものであったのかを判断しようとして迷う。この男を軟禁する訳にはいかない。解っていても、意識は抗おうとする。将未を外に出したくはない。
「その、滄、」
限りなく不自然な空気の中、やや間を置いて将未が口を開く。見ると、青年は何事か意を決したような目をして滄を見上げた。
「……これを、…俺の代わりに、…返してきて、ほしい、」
「……?…ああ。返してくる、」
将未の顔に、ほんの微かに安堵の色が差したものの、すぐにしょんぼりと眉を垂れてしまう。その表情の変化の意味がわからないまま、滄は食器をまとめて手に持ち、すぐに将未に背を向けた。
雪は降っていないが気温が低い。歩いて数分もかからない場所に車を出すことを億劫に思い、履き古したブーツで雪を踏む滄は身を切るような寒さに思わず唇を結んで息を詰める。
店の向かいの定食屋の引き戸を開くとたちまち体が暖気に包み込まれた。店の隅で働く旧式のストーブによるものと、昼過ぎの、あらかた客の引いた定食屋に残る熱気と料理の残り香が店内に籠り、軽くむせ返るような室温と匂いになっている。
扉が開く音を聞いた幸世が厨房の中で振り返るのがわかった。雪を払ったブーツで店内を行き、古びたカウンター越しに幸世に向かい合う。長身をジャンパーで包み込んでやって来た滄は、普段と変わらない佇まいである筈だった。
「…将未に…食事を運んでくれたんだろう。わざわざありがとう、」
「……アンタ、」
幸世が何やらまじまじと自分を見上げている。何か言いたげな目をしていたが、滄が尋ねるよりも先に小さく鼻から息を抜く。空になった食器を受け取りつつ、目でカウンターを示した。
「お昼は?」
「まだ…、」
「食べてきな。ちょうど賄いが出来たばっかりだから」
珍しい誘いに一瞬躊躇したのは滄の脳裏に将未が浮かんだからであるが、将未は他でもないこの幸世が作った食事を取った。カウンターに座ると扉や外を望む窓を背にしてしまうことになる。目線でいつも座る席を示した。
「あっちで…、」
「いいけどさ、」
良いと言いつつも、今日の幸世が何かを含んでいることは明白である。内心で首を傾けつつも、滄は日頃から自分の定位置にしている窓際の席を選ぶ。窓からは道路の向こうの自分の店が見える。この席であれば、もし将未が出掛けても、神原がやって来ても裏の勝手口を使わない限りは視界に入る位置だった。
出来たばかりの言葉の通りに幸世はすぐに料理の乗った皿を運んできた。銀色のトレイの上に載せられた皿にはシンプルな炒め飯が盛られ、隣に置かれた味噌汁茶碗にはワカメの味噌汁が注がれている。湯気の上がる賄い飯の隣には小皿に載せた漬物も添えられていた。いただきます、呟くように伝えてからスプーンを手に取ると、幸世が滄の向かいの椅子を引いて腰を下ろした。
「……、」
見たことの無い幸世の行動に滄が軽く目を見張る。気にするなと言わんばかりに頬杖を着いて微笑みながら滄を見る幸世の姿に戸惑いつつも、料理を口に運ぶ。食事を進めながらも横目で窓の向こうに目をやる滄を幸世は観察しているように見えた。
「滄さんは、過保護なんだねえ、」
「……」
半分ほど炒め飯を胃に収め、味噌汁を啜ったところで唐突に声を掛けられた。初めて向けられたその言葉に今度こそ驚いた目をする滄に、幸世は変わらず柔らかく笑っている。知らなかったよ。呟き、また滄を見上げる。
「…過保護…?」
「なんでも先回りして言ったりやったりしたくなるしょ、」
滄はまだ意味がわからない。幸世は何かを納得したように目を細め、頬杖を解いた。先程の滄と同じように窓の外を見やる。小さく肩で息を吐いた。
「さっき、将未ちゃんに持ってったご飯のこと、わざわざありがとうって言ったしょ。あの時の滄さん、将未ちゃんのお父さんみたいだったわ」
「……、」
ようやく少し意味がわかる。滄にしてみれば自然に出た言葉だが、改めて言われみれば過保護だろうか。幸世の仕事を厭わない指が、ちょんと銀の盆をさす。滄の箸は止まっていた。
「将未ちゃん、アンタに食器返してきてくれって言ったかい?」
「ああ…、言った、」
ニュアンスは幸世が言ったものとは違う。もっと言うのなら、滄が一歩先に食器に触れてから将未がその事を口にした。それでもそんな出来事はあるにはあった。
何故わかるのだろうと目で伺いつつも首肯する滄に、幸世が笑みを深める。そう、と満足気に頷いては先程の滄と同じように窓の外に視線を投げた。
幸世の中では、自分は向かいに住む───この街で、ひっそりと寄り添うように同棲している男達の母親のような気持ちでいた。
昨年突如この街に現れた顔立ちの整った、何処か頼りない、儚さすら感じさせる青年は、己の孤独にすら気付くことなく献身を続ける滄の新たな恋人なのだと。
だが、恐らく、この滄と将未との関係は自分が思うような親密なものではなかったのだ。先程の滄の口振りは、恋人に向けるそれではない。まだ自分の足で歩き、親元から離れるには覚束無い子供に向けるものに似ていた。
滄は将未の恋人ではない。本人の自覚があるかどうかはわからないが、滄は将未の─── 。
「先回りし過ぎてもいけないよ」
「……」
将未は滄を慕って懐いている。滄は将未を大切に保護しているように見える。その関係は恋人同士と言うには歪で、だがただの雇用主と従業員と見るには距離が近い。幸世の脳裏には自立して街を出ていった息子たちの姿がある。あの子たちが自立出来るように、この街を、自分達の元を離れていっても生きていけるように自分がしたことはなんだったか。
幸世にとっては遠いものとなった記憶を掘り起こす。微かに込み上げる切なさと寂しさに目を細めた。
「大事だから、どうしても危ない目に遭わないように先回りして色々考えたり言ったりしたくなるもんだよね。でもさ、将未ちゃんはもう大人だからね」
いつまでも自分の庇護の元にはいられない。どれだけ大切に思っていても、どれだけ外敵から守ろうと務めても、愛しいと思った我が子はいつかは自分の意思で自分の元を離れていく。幸世はそれを知っている。滄の目を覗いた。
「将未ちゃん自身が、今どう思ってるかを聞くのを忘れないようにね」
「…将未、が、」
微かに、滄に隙が生まれた。思い当たる何かがあるのか否かまでは幸世にはわからない。わかるのは、幸世が滄や将未に向ける情と、滄が将未に向けている情の形は似ているということだ。
軽く目を伏せてから自分の指先を見た。ふと、息子達がそれぞれに家を出ていった日のことを思い出した。
2人の間に何かがあったのかはわかる由もない。それでも、その時は近いのかもしれないと思った。
「…どれだけ大事でも、いつかは子離れしなきゃならないんだから」
「……」
「そうでないのなら、人生丸ごと背負う覚悟は持っもきな。ほら。味噌汁温かいのに替えてあげる、」
滄の手元にある食事はすっかり冷めてしまっている。その事に気が付いた滄は上の空で首を振りかけるも、長説教を避けた幸世は立ち上がりながら手の着いた汁物に指を伸ばしかけた。
「……滄さん、」
不意に幸世が声を潜めた。どうしたのだろうと幸世が目の向ける窓の外に視線を投じたまま、滄が制止する。
この田舎町には異質にも見える上等なコートを着込んだ男が今まさに道路のこちら側に佇み、滄の店に向かって伸びる横断歩道を渡ろうとしていた。車道の車が走る様を見ると赤信号に阻まれているらしい。今にも凍えてしまいそうな横顔は間違いなく神原のものだ。ほとんど反射的に立ち上がろうとした滄の目の前に幸世の老獪な手のひらが突きつけられた。
「待ちな。アタシが行ってきてあげるから、」
「…な、…ちょっと、」
幸世もまた、道の端に佇む男が数日前にこの店に将未を探しているとやって来た男だと気が付いたのだろう。またも驚く滄を残し、先に立ち上がっていた幸世は上着も纏わずにとっとと店を出て行ってしまった。あの男は極悪人だ、滄が忠告をする間も無かった。とりあえず今神原を止めてくれたのならそれで良い。信号が変わる前に向かわなければと一度閉じられた扉に足を踏み出した滄の目の前で、ガラガラと扉が開いた。
「このお兄さんもご飯まだだってさ、」
当然の善行、というよりもお節介を働いたと悪びれない幸世の後ろで、腕を掴まれた神原がどこか惚けたように佇んでいる。この場で幸世に勝てる人間はいない─── 。滄もまた、その事実と目の前の光景の奇妙さに言葉を失って立ち尽くした。
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