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北海道の冬特有の、コートを着たままでは汗ばむ位の暖気に身を包まれながら龍俊は置かれた状況の不可解さと、強引に勧められた席の居心地の悪さに眉を寄せている。 昨日の夕方にようやく将未の姿を見付け、衝動に任せたままに駆けた店を改めて訪れた。昼間の明るい時間で見る店は、店舗が並ぶ駅の近くの一角に立つ、既に訪れたことのある小さなスナックであるということはわかった。将未はこの店で働いているのだろうかと道路の向かいからしばらく眺めてはみたものの、将未の姿も、店内に立つ、恐らくは店主だと思われる男の影も現れない。寒空の下で立っていたところで埒が明かないと意を決し、道路を渡ろうとした所で呼び止められた。龍俊の方は年配の女の顔を覚えてはいなかったが、おそらく将未を探して聞き込みに入った店の人間だろう。人懐っこい笑顔でとことこと歩み寄ってきた女に藪から棒に昼飯は食べたか、と聞かれた龍俊は流されるままにまだだと答えたところ、すぐ側の定食屋に寄っていきなさいよと緩やかに腕を掴まれた。 その店の端の席に座っている男が道路を1本挟んで建つスナックの店主であり、昨夜将未を店に押し込み、自分と対峙した男であるということはすぐにわかった。店員の女はその男の前の席を龍俊に勧めるものだからますます面食らったものの、店は昼夜の営業の境目なのか、店主と思しき男が他に客のいない店内で空いたテーブルを綺麗に拭いて回っている様子を目にしてしまうと他の席に座ろうという選択肢を失ってしまった。 男の目の前には食べかけの料理が置かれている。ちらりと見上げた長身の男もまた今の状況に納得していないのか、憮然とした顔を露わにしてスプーンを動かしていた。 「ちょっと待っててね、」 龍俊を席へと案内した女は一度カウンターへ向かったかと思うと水が入ったグラスと、茶の入った湯呑みを乗せた盆を手に戻ってきた。龍俊の前にグラスを、もう1人の男の前に湯呑みを置き、明るい声で言い置いてまた厨房へと戻っていく。何気なく目で追うと、先程までテーブルを拭いていた男もいつの間にか厨房の中に入り、手元を動かしている様が見えた。 目の前の男が食事を終えた。ちらりと湯呑みを見下ろし、渋々といった顔で茶を啜る。もう片方の手の指先がテーブルの端に置かれたアルミの灰皿を引き寄せていた。 「…あんた、雄誠会の関係者なのか、」 食事を終えた男が立ち上がることを期待したがその様子は無い。一服をつける習慣を崩したく無いのか、それとも男の方もまた龍俊と対峙しなければいけないと考えて席に留まっているのか、いずれにしても間が持たない。龍俊もまたコートの中の喫煙具を取り出し、男の動作よりも少しズレたテンポで箱を開け、フィルターを咥えつつ差し出すように伺った。男はほんの微かに龍俊に視線を寄越してから思案するように目を伏せる。男の唇から伸びた白筒の先から煙が昇り始めた。 「……今は違う、」 テーブルひとつのみを挟んでいるだけだというのに、声は龍俊にようやく届く音量だった。男は男の店の中でも必要以上の口をきくことがなかった。他に客がいない、店主も無口に佇むスナックは、慣れない街で多少なりとも疲労を抱えることになる1日の終わりにふらりと立ち寄りたくなる店としては適している。あのスナックに複数回足を運んだ理由を思い出した。 今は、ということは以前は雄誠会に所属していたのだろう。その時期は自分と重なっているだろうかと改めて男の相貌を見てみるも、心当たりは見付からない。龍俊が雄誠会に所属していた期間は長くはない上に、龍俊は安樂からの指令の為に狙いを定めた一人の若い男に意識を注いでいた。龍俊の中で、あの頃の記憶は色濃くはない。それでも、あの弱腰を絵に描いたような若頭の顔くらいはすぐに思い出すことは出来た。 「なら…、矢立から将未を引き取ったのか、」 いずれにせよ、雄誠会に絡む男であれば将未がこの街でこの男の元にいることは容易に納得することが出来る。将未は、雄誠会で禁止されている薬物を絡められたことで組を放逐されたのだろう。以前龍俊が関わり、薬物を握らせた若い男の顛末も同様だったというのは風の噂で耳にした。あの男は好奇心の向くままに薬物を自ら摂取したが将未は違った。ただ純粋に、持たされた物体の正体も知らずに運び屋としての任務を遂行しようとした将未をも雄誠会の規律は許さなかったということだろう。 しかきあの気の弱い───情に絆される性質の矢立は、何の後ろ盾も持たない将未を有象無象のススキノの街に放り出すようなことを避けた。おそらくは龍俊自身が将未に絡み、その龍俊が以前取った手口と同様に手中に収めていた将未を放り出すことも見越していたのだろう。 住む場所も、生きる糧も持たない将未がススキノという街で生き延びる方法を、将未は自分自身で探し当てることが出来ただろうかと想像する。頭の中には、夏の街角で途方に暮れたような顔をして不動産屋の掲示物を見つめる将未の顔が浮かんだ。広瀬将未という男は───龍俊以上に何も持たない男だった。 「……俺はボス…、矢立さんから将未を預けられたから、」 全てを失い、何1つ縁を持たない将未は秘密裏に札幌から逃された後、この遠い街でこの男の元に流れ着いた。この街で、将未は───。 男は大きく息を吐き出し、テーブルの上の空になった皿に落とすように呟いた。視線は重ならない。煙草のフィルターを挟んだ指が口元に向かう度に龍俊の方へと晒される手の甲が年齢というよりも、何かの蓄積を表しているように見えた。 「俺には責任がある。…お前がどれだけ改心しようと関係が無い。預かったからには無責任なことは出来ない。あの人に背信するような真似はしない」 龍俊に男を揺さぶる気は無い。この見た目の通り、山のように屈強で頑固そうな男を揺さぶろうとしたところで無駄だろう。元雄誠会の所属と言いながらも、男の方から矢立の名前を出したところで義理堅さも明白だ。将未はこの男の、その義理堅さそのものによって護られているのかもしれない。雄誠会を破門にされ、自分からも放り出され、寄る辺の無くなった将未を矢立は情だけでこの男に託し、この男は義理と責任感で将未を受け取り、護っている。龍俊の見立ては間違ってはいないだろう。 「その矢立が、ここに将未がいるのだと教えてくれたと言っても?」 だが、龍俊が返したそれに男は微かに動作を止めた。口をつぐみ、視線を落としたまま留める。予め矢立から聞いていたのか、そうではないのか男の表情からは読み取ることが出来ない。返答を待つ龍俊の問いに男が答えることはない。長くなりかけた灰を灰皿に落とし、何かを考えながらまたフィルターを唇に寄せる。沈黙を割るように厨房の方からは食器や調理器具がぶつかる音がする。何かが焼ける香ばしい香りがテーブルへと届いてきた。 「矢立さんに直接会ったのか」 「会った。…あの人は、俺を助けた」 男の目が驚く。状況はわからない筈だが、話す気もない。今は自分の事を述べる場面ではないだろう。男の目がようやく龍俊を見据えた。意図を読み取ろうとしているのか、双眸が細くなったものの表情は変わらない。 身も心も屈強そうな男だと思う。 札幌に生きていた筈の男がこの街に住む理由はわからない。 その理由に繋がるように憂いを帯びた瞳は、些細なことで揺れることを知らない目に見えた。 この男の元で、この穏やかな田舎町で生きているのなら、将未は幸せなのかもしれない。 あの世間知らずには似合わない都会の欲望や猥雑さから離れ、不思議な純粋さを持つ将未には、この田舎の空や土地、海は相応しいのかもしれない。 都会に比べてこの街には何も無い。 だが、何も無いということは、新たな何かを積み上げられる可能性があるという事だと龍俊は思う。 それはちょうど自分の生まれた場所から離れることを余儀なくされた自分がススキノに流れ着き、現在に繋がる己を構築したことに近い。 何も持たない将未も、今この街で新たに自分を作り上げている最中なのではないだろうか。 この街で生き直し、静かに暮らすことが将未の───。 「……将未は、」 一人漠然とした思いを巡らせた後、龍俊ははたと足を止めた。頭の中には昨日ほんの僅かな時間だけ目にした将未の姿がある。実に久方ぶりに目にした将未の顔を思い浮かべると、大切なものが抜け落ちていたことに気が付く。雄誠会の事務所で将未の居所を聞き出し、あの建物を飛び出してからずっと───否、将未と別れてから以降、自分は《そこ》に考えを巡らせることが無かったのだ。 どうしてこんなに大切な事が抜けていたのか。半ば呆然としたように男を見上げた。 「将未は、どう思ってる…?」 「─── …、」 やや間があって、男が肩を揺らした。変わらなかった表情の中、目が微かに張っている。使命感なのか義務感なのか、固い意思に支えられるように動かなかった男の胸中が微かに揺らぐ気配がした。 《それ》抜けていたのはきっと、この男も同じなのだと龍俊は思う。 自分たちは今この場にはいない人間の話をしている。 今この場にはいない人間こそが主題であるのに、不在のまま話を進めようとしている。 「将未はどう思ってる?」 「…将未、は、」 「───将未は、今幸せ?」 あれはいつの事だったか。 身を寄せたベッドの上で、幸せだ、と将未は言った。 自分といることが幸せで、他に何も要らないと言って笑った。 今はどうだろう。 将未は今幸せだろうか。自分がいなくても、この街で幸せに、何不自由なく満ち足りているだろうか。 今更、自分が居なければ幸せでは無いだろうなどと思うような傲慢さは生まれない。現在龍俊が抱える孤独や焦燥感、渇望の全ては自分自身の行動が生み出した結果でしかない。 自分がいなくても、将未が幸せに暮らせる可能性はいくらでもある。 ただ、将未の意思を知りたい。 この街で生きている将未は今何を思っているのだろう。 将未は今───。 「…将未は、」 男の視線が泳いだように見えた。間違いなく動揺している、感じたその時、ようやく男は唇を開く。龍俊はじっと身を固めるように耳を傾ける。 灰皿の上ではどちらが吸っていたタバコも灰になり、限界まで燃えたそれの火は消えていた。男は今、自分と同じように足を止めたのだ。動かずに軽く組まれた指先を見下ろし、龍俊は息を吸う。 「俺は将未が今何を思っているのかを知りたい」 将未に会い、対峙し、目を見てその意志を聞きたい。 その為に自分はここに来た。 今の自分は将未が知る自分とは違うだろう。 ───どの自分であっても、将未が不要だと思っているのならそれまでだ。力ずくで再び手中に収めるような真似はしない。本来の自分はそんな強引さは持ち合わせていなかった。同時に、将未の前で見せていた姿もほとんどが偽りと装飾で出来たものだった。自分はようやく剥き身になれた。都会で纏っていた鎧を脱ぎ捨てた姿で将未に会いたい。会って───。 「…詫びるのか、」 「…わからない。謝ったところで将未にしたことは消えない」 男がようやく口を開く。ほんの少しだけ間を置いて答える。ただならぬ空気が流れる気配に、女将がさっと現れ、龍俊の手元に作りたての料理を置いていった。湯気と、堪らなく良い香りが立ち昇る。心がまた解ける気がした。 「…将未が、」 気が付くと男が視線を持ち上げていた。瞳は微かに不安で揺れているように見える。頑強に見えるこの男が何に怯えているのか。何を思っているのかはわからない。 「本人がいない所で、将未のことを決める気は無い。…決めることは、出来ない」 「…同感だよ」 切った言葉を改めて口にする。その機微がこの男の意思を表しているような気がした。将未の意思はここには無い。それはこの男も気付いている。深い溜め息が溢れ出した。席を立つか否かを逡巡する気配がある。男の目は、窓の外、道路の向こうに建つ小さなスナックの上部を見やっているように見えた。 「…少し、考えさせてくれ」 立ち上がる男は今度こそ明確に龍俊に目を合わせる。まだこの街にいるのだろう。問い掛ける目に、龍俊は深く頷いて返した。

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