69 / 73
EXTRA3──野良、おつかいに行く ──
時刻は夕暮れ時に差し掛かっていた。
普段と変わらないルーティンで店を開店させる準備をしていた滄がふと手を止める。近頃めっきり日暮れが早くなってきたと思いつつ、壁のスイッチを押してカウンターの中の明かりを付けようとしたが照明が灯らない。切れたか、と内心で渋面を作りつつ、数回ぱちぱちとスイッチの上で指を行き来させたが電球に変化はない。試しに他のスイッチを全て入れてみるとカウンター内以外の照明は明るくなったから、漏電や放電の類ではないらしい。
やれやれと鼻から息を抜いてバックヤードを見やる。こちらも今日も普段と同じ、将未が真剣な顔をして客に出す前のグラスを磨いていた。
「…将未、…ちょっと来てくれ」
僅かに逡巡してから口を開く。低い滄の声に将未が一瞬の間も置かずにぱっと顔を上げ、手元にあった物を置いて短い距離だというのに早足で歩いてきた。
つくづくこの男は忠実な犬に似ている。
半ば呆れながら将未を見下ろすと、やはり真摯な瞳がまっすぐに滄を見上げていた。
「…悪いが、2つ3つ遣いを頼まれてくれ」
「……遣い」
「…おつかい、」
一度では言葉が伝わらなかったかと思い、柔らかく砕いた言葉を将未は復唱して飲み込む。深く顎を引いた。
電球の交換は急務だが、開店の時間はまだ遠い。ついでの用を思い出し、とりあえずはと傍にあるスツールを引き寄せ、靴を脱いでその上に上がる。電球を回す際に立つきゅ、という音が耳障りで、顔を顰める滄を将未は軽く口を開けて見上げていた。
「電球が切れた。電気屋でもスーパーでもいいから同じ物を買ってきてくれ」
「わかった、」
「それと…、…メモを、取らなくて良いのか」
電球を手渡す。熱のないそれを大切そうに受け取った将未が受け取る様を見てから次の用事を言いつけようとするも、ふと気が付いて手元にあったメモ紙を引き寄せる。
「…覚える、から」
───将未が妙に記憶力が良いということに気がついたのは早い段階のことだった。
まず店に訪れる客の顔を覚えるのが早い。一度店に訪れた客の顔は概ね覚えているらしい。
滄が指導した裏方の仕事もすぐに飲み込んだ。こっちの方は覚えはしたが、いつまでも手元が覚束無いので差し引きはゼロといったところかもしれない。
そして、滄が時折頼む買い出しもきちんとこなして言われたものを買ってくる。その際に、メモを取っている様を見た記憶は、ない。
一度、お前は記憶力が良いんだな、と褒めるでもなく何気なく呟いた滄に、将未は不思議そうな目をしていた。
照れるでもなく、謙遜するでも否定するでもない将未は、しばらく後───忘れた頃に、何事かを思い出したようにぽつりと呟いた。
おつかいは、俺の仕事だったから。
* * *
思えば、雄誠会に置いて貰っていた頃はよく遣いに出されていた。
部屋住の仕事はあらゆる雑用で、夜番の人間達の食事の買い出しや、任されていた給湯室の物品の補充やら、壊れた、もとい誰かが壊した備品の買い物によくススキノ近辺のスーパーマーケットやコンビニに使いっ走りとして出されいた。
その時にも、メモを取った記憶はない。
メモくらい取れ、と言われて素直に従い何かを簡単に書き付けたくらいはしただろうか。だがその後、おそらくヒデにお前は忘れ物をしない、と褒められた事がある。
夕暮れ時の街をまっすぐに歩きながら将未はぼんやりと思い出す。今歩いているのは、終始人の往来が耐えないススキノの雑踏ではなく、日が暮れてしまうと一層人通りの少なくなってしまう片田舎の留萌という街だ。それでも、おつかいという何気ない業務は都会に住んでいた頃のことを思い出させる。急いで羽織ってきたナイロンのジャンパーの裾が、将未が歩く度に小さく音を立てて揺れた。
寂れた繁華街を抜け、角を曲がった所に小さな電気屋がある。
店内にも、店の外のガラスにも酷く古い、色あせたポスターが貼られたような、この街の住人の電化製品の修理を一手に担っているかのような小さな電気屋の引き戸を開け、なんと声を掛けたら良いだろうかと悩む間に奥から年老いた男が顔を出した。
「おお。どうした。滄さんとこのか」
この店には以前、滄に連れられてきたことがある。
あの時は電子レンジと目覚まし時計を買って貰った。将未は店主の顔を覚えていたが、店主も将未の顔を覚えていたらしい。どこか厳しい顔で下手くそに笑い、なした、とカウンター越しに将未に向かって首を傾けた。
「あの、これと同じ物を、ください」
滄から預かった電球を渡す。店主は一目見ただけでああ、と呟いてカウンターから出てくると、電球が置かれたコーナーへと歩いていって、そのうちひとつを手に取って戻ってきた。
「これだよ。間違いなくこれだからね。気を付けて持って帰りなさいね。落としたりしたら割れちまうからな」
店主は改めて将未が持ってきた電球と新しい商品を見比べて確かめ、それを小さなビニール袋に入れる。差し出されたそれと共に向けられた代金を支払った。
「えらいね。おつかいか。ほれ、これ持っていきなさい」
どうにも、さっきの説明する口振りといい、将未を随分子供扱いしているようだった。店主は釣り銭の小銭と共に、カウンターの下から引っ張り出した個包装の煎餅を二つ寄越した。
「…でも、」
「いいからいいから。滄さんと食べな」
拒否する権利はないとばかりに煎餅を押しやってくる。困って眉を下げたまま、それでも有難く受け取る将未に店主は嬉しげに目を細めた。
「気を付けな。ありがとうさん、」
「…ありがとう、ございます」
* * *
将未の記憶力が良い理由は、雄誠会より前、ススキノの風俗店に置かれていた頃に由来する。
商売するものとして年齢を食い過ぎ、成長し過ぎてもなお店に居たままの将未を、オーナーはとことんこき使った。それこそあらゆる雑用を言いつけられ、その中には当然買い出しも含まれていた。
無論、メモを取るなどという余裕はなかった。
メモ紙一枚、ボールペンの1本も与えられなかった将未は必死に買い物の種類と数を覚えて店を飛び出し、脳内で反芻することを繰り返して買い物に出た。
その事が自ずと染み付き、習慣になり、やがて本人も気が付かないうちに長所になった。
ついでに人の顔を覚えることが得意なのも、店で客を取っていた頃からのことだ。
他に覚えることがないから、脳に余裕があるのかもしれない。
小さなビニール袋に入った電球と煎餅のビニールが触れ合ってカサカサと音を立てる。その音と自分の足音を聞きながらぼんやりと歩く将未は、ぼんやりと考える。
角を曲がり、2本ほど小さな道を跨いだ先に少し大きいスーパーマーケットがある。ここは滄に連れて来られたし、自分も時々日々の食糧を買いに訪れる。
自動ドアを開き、足を踏み入れる。夕方の買い物で混み合う時間は過ぎたのか、店内にはあまり人はいなかった。
整然と並ぶ商品棚の間をするすると抜けるように将未はまっすぐに生活用品が置かれるエリアへと向かう。立ち止まって棚を眺め、いつも目にしているパッケージの食器用洗剤を持ち上げた。
「あら将未ちゃん。珍しい時間に」
「…こんにちは」
他に寄り道をすることなくレジに向かうと、そこに立っているのは見知った店員だった。年齢はおそらく将未より少し上であるくらいだが、彼女は親しみを込めた声で将未を呼ぶ。普段であれば滄の店の開店準備をしている時間だ。小さく会釈しながら洗剤をカウンターに載せた。
「おつかい?お疲れ様、」
ピッ、と小さな電子音を鳴らして機械がバーコードを読み取る。レジに示された金額と、滄に持たされた財布の中身を照らし合わせて小銭を取り出し、釣り銭が出ないようにトレイに置いた。
「えらいねえ。あ、そうだ。これあげる」
やはりこの店員も子供を褒めるような声で言い、代金を受け取ってから何やらエプロンのポケットに手を突っ込んだ。
「はい。どうぞ、」
ビニール袋に商品を入れた物を手渡した後、手のひらの中に半ば無理矢理何かを握りこませる。将未の手の上には明るい色のパッケージに包まれた飴玉がひとつ載せられた。
「のど飴。あげる」
「……ありがとう、ございます」
断ったところで押し返されることを察し、再び眉を下げつつもまた小さく頭を下げた。また来てね、店員の明るい声に頷き、レジから離れた。
* * *
お前は馬鹿じゃないんだからな。
いつかそう言ってくれたのは誰だっただろう。
ヒデか、それとも滄だったか。
自分が人より賢いか否かなど考えた事がない。
ただ、全てが人より劣り、何かが欠けているのだという意識だけはある。
それなのに、この街の人間は皆自分に親切にしてくれるのは何故なのだろう。
人から虐げられ、見下されることに慣れた将未にはそれが不思議でならなかった。
この街の人間は優しい。
すっかり日が落ちた街を、コンビニの明かりを目指して歩きながら思う。
自分は幸せ者なのではないだろうか。
思う傍らでなおも、時折龍俊のことを思い出すことがある。
馬鹿だなあ。将未は。
そんな風に言って笑った龍俊を忘れられず、求め続けているのはただの我儘なのではないだろうか───。
辿り着いたコンビニのドアを開く。いらっしゃいませ、と声を掛けたのはこの店のオーナーだという年配の男だった。
ここでも将未は余計な道を行くことなくレジへと向かう。オーナーの向こうにある壁に並ぶ煙草のパッケージを眺めた後、滄が吸うそれを見付けてたどたどしく番号を告げた。
「カートンで、ひとつください」
「おつかいかい」
「はい、」
滄は自分が吸う煙草を人に買いに行かせる男ではない。自分のことは自分で。そう言ったのは初めて顔を合わせてすぐの頃だった。そんな滄が、電球と食器用洗剤を買ってくるように将未に言い渡した終わりに、決まりが悪そうに自分が吸う煙草の空箱を寄越した。切らせたから、と呟く様には一抹の罪悪感のようなものが漂っていて、将未はそれが不思議だった。
ススキノの店や、雄誠会では煙草の買い出しなど当たり前のことだった。
将未にとって、それはなんら意味のあることでは無い。
ただ、ひとつ意味を持たせるとしたのなら───。
「これでいいかい、」
カウンターの上に大きな煙草のカートンが載せられる。
一つだけ意味を持たせるとしたのなら、龍俊と初めて会った夜、彼はコンビニでカートンの煙草を買っていた───。
「…はい、」
一人記憶を巻き戻す将未はオーナーの問い掛けにハッとしたように目を瞬かせて慌てて頷く。オーナーは一瞬だけぼんやりとした将未の様子を気にとめることなく双眸を細くした。
「えらいねえ。どれ。おじさんがご褒美に買ってやるからそこに入ってるの何でも良いからひとつ選びな」
何事にも細かい頓着をしない雰囲気のあるオーナーが今にも将未の頭を撫でそうな素振りで手をひらひらとさせ、そのままカウンターの上に置かれた透明なケースを指さした。中には鶏の唐揚げや、フランクフルトが並んでいる。
そんな訳にはいかないと首を振る将未を制し、良いから良いからと笑いながらまず煙草をレジに通し、会計を告げてくる。持たされた金の中から煙草の代金分の札を出すと、オーナーはもう一度ホットスナックと呼ばれる商品の中からどれでも選べと重ねてきた。
「…すみません…。…それじゃあ……、からあげ、」
* * *
将未が店に帰ってくるまで1時間は掛からなかった。
もう時期店を開けなければならないかと時計を見やった直後、勝手口のドアが開く音がした。
「…おかえり、将未」
まだ開店してはいないというのに、間に合わなければ一大事だとでも思ったのだろう。将未は軽く息を上げて滄の表情を伺うように見上げた後、何事か安堵したように頷いた。
「……ただいま、これ、」
スーパーマーケットのレジの店員がくれた大きめの袋には、滄に頼まれた全ての商品を入れることが出来た。電球が洗剤や煙草の箱に潰されないように運んできた袋を差し出すと、滄が中身を確認する。
この男はいつも、いつだって仕事と使命感と、頼まれごとに対して忠実だ。
まるで自分にはそれしか取り柄がないとでも言うように、真っ直ぐに、ただひたすら寄り道ひとつせずに使命を全うしようとする。
「ありがとう、助かった」
「……うん、…あと、これ、」
滄の短い一言に、将未は初めて耳にしたような驚いた目をした。どこか曖昧な風に頷き、その拍子に思い出したように滄に小さなビニール袋を差し出す。受け取って中身を見ると、コンビニで売っているホットスナックと呼ばれる類の唐揚げが入っていた。
「……」
「あの、コンビニの、オーナー…さん、が買ってくれたから。滄と分けようと思って」
円柱に近いパックに詰められた鶏の唐揚げは5個入りのようだった。なるほど近くのコンビニであるなら将未はオーナーとは比較的近い距離なのかもしれない。食堂の女将に加えてそこにもこの男を子供のように甘やかす人間がいたか。
「ありがとう、」
微かな苦笑が滄の目元に滲む。笑う滄の姿に将未もまたごく小さく笑ってみせる。
すぐに店を開店させなければ。時計を見上げ、自分の仕事を思い出した将未がジャンパーを脱ごうとするも、ふと手を止めた。おもむろにポケットに手を突っ込むと、中から個包装の煎餅を2袋取り出し、ひとつを滄へと差し出してきた。
「…電気屋のおじさんが、滄の分も、って、」
「……ありがとう」
───この街には将未を甘やかす人間が滄が知るよりも多いのかもしれない。
まだほんのりと暖かいパックを開けて唐揚げをひとつ口に放り込んだ。
滄の元を離れ、店先に看板を出してはすぐに戻ってきた将未に、残りのパックを全て差し出すと、思った通りの困惑した顔を浮かべた。半分ずつのつもりだったのだろう。
将未に対してどうしても甘くなるのは自分も同じだと滄は内心で苦笑する。
将未がここに来るまでに居たどの場所にいるよりもこの街で過ごす時間が幸せであれば良い。
いつの頃からか思うようになっていたそれは、果たして叶えられているだろうか。
いつか尋ねようかと思ってはいるものの、元来口下手な滄は、上手な言葉をまだ見付けられてはいない。
ともだちにシェアしよう!