70 / 73
20-1
雄誠会支部の事務所から鳳勝会の事務所まではススキノの端から端までを横切ることになる。
年末の忙しさに追われて事務所に篭っているうちに、街はすっかり師走と正月に向けた彩りに変化していた。
矢立がクリスマスに恋人と歩きながら眺めた煌びやかな装飾は外されて、デパートの角には門松が立ち、店や一戸建ての玄関先にはもうしめ飾りが下がっている様子もある。
今年もあっという間に過ぎてしまった。鼻から息を抜き、車の後部座席のシートに深く体を埋める。運転席ではいつものようにヒデがハンドルを握り、その隣の助手席には紙袋に入った歳暮がきちんと置かれていた。
暮れの挨拶回りを欠いたことはないが、今年はギリギリまでずれ込んだ。自分達とは異なる堅気の世間は今日が仕事納めなのか、挨拶回りと思しき車で道は混みあっている。広い通りではなく、裏道を行けば積雪と雪の壁に挟まれた道路の狭さにまた時間を取られ、普段よりも時間を要した。あと一本角を曲がると鳳勝会が所有する建物が見えてくるという所で腕時計に目を落とす。余裕を持って出発してきて正解だったと肩で息を吐いてから姿勢を正す。角を曲がると、門扉の前でもう人が数人立っている様が見えた。
「お疲れ様です」
ヒデがスムーズな運転で建物の正面にピタリと車を横付けした。素早く運転席から降り、雪を蹴って後ろへと回った男によって後部座席が開けられるのを待ち、矢立が雪の上に降り立つ。門扉の前に整列した数人の男達が一斉に頭を下げた。
「お疲れ様です。お待ちしておりました」
「...お疲れ様」
矢立がこういった儀式めいた事は苦手だ、ということを理解しているのは雄誠会の人間達だけだ。他所の、殊更雄誠会と昵懇の仲にある鳳勝会の面々は雄誠会の若頭であり、三代目である矢立煇に失礼があってはならないとばかりに折り目正しい。
それは、鳳勝会会長の幡野の姿勢と教育が、きちんと下部にまで行き届いているという証左だった。
「よお。雪止んだか?」
矢立を迎えた若頭だという男は恭しい動作で客人を応接室に通した。ドアを開くや否や、煙草の香りが漂ってくる。室内には、幡野が相変わらず上機嫌な様子で上座に座り、吸いかけの煙草の火をレトロなガラス製の灰皿に押し付けていた。
「はい。さっき、昼前くらいに」
「それじゃあ道混んでたろ」
朝から降っていた雪はさほど積もらずに止み、今は冬の透き通るような青色が窓の外に広がっている。
その窓を見遣りつつ返す言葉に矢立は一瞬ひやりとしたが、幡野は訪問の時刻に関わるような嫌味を言うような男ではない。今日も見るからに上等なスリーピースを身に付け、それが堂に入った、一分の乱れも見られない出で立ちの鳳勝会のトップである男に小さく笑って頷いた。
座れよ、と促されてソファーへと向かう。後ろから着いてきていたヒデがサッと横から矢立の手に紙袋を手渡してから一礼して部屋を出ていった。
「...今年もお世話になりました。…つまらない物ですが」
「硬ぇな。お前がつまらない物持ってきたことなんかねえぞ」
ソファーに腰を下ろしてから紙袋の中身を取り出す。デパートで購入してきた、全く皺のない包装紙に包まれた四角い箱をテーブルの上に差し出すと幡野の声が明るく跳ねる。今年の歳暮の中身は地元の菓子店の菓子の詰め合わせだった。
茶を運んできた若い男に幡野が指示して菓子折が下げられ、程なくして皿に載せた茶菓子となって戻ってきた。互いに茶と菓子を挟み、しばらく他愛のない世間話をしていたが、不意に幡野が双眸を細めて体を前傾させた。
「...で?お前もそろそろ代替わりか」
「───...」
不意をつかれ、矢立がごく小さく瞠目する。
現在の会長であるところの父親とは最近顔を合わせてはいない。年末年始になれば嫌でも合わせることになるのだが、その父親から先の自分の─── 雄誠会についての話が出ることは明白で、矢立自身、その話題を避けていることも自覚している。
世間話の延長なのだろうか。幡野に対してそんな風に探る度量はもちろん無い。この男と仲の良い父親からの差し金だろうか。探れば探るほどに隘路に嵌る。意を決したように口を開いた。
「...親父は、何か言っていましたか」
伺うような色が滲み、自分は相変わらず臆病だと内心で呆れる。
父親は若くして雄誠会を継いだ。
時代も、自分たちのような組織への世間の風当たりも違うとはいえ、組を維持し、多少の縮小は見られるものの、存続させているのは一重に父親の手腕とカリスマ性によるものだろう。
自分には、それは備わっていない。
根本的にヤクザに向いていないのだ。
それでも道は敷かれている。
敷かれた道を歩いていくしか選択肢がないというのに、自分はいつまでも同じ場所に留まり、俯いているだけだ。
矢立が発した問い掛けに今度は幡野が目を瞬かせた。菓子を食い終わった唇を軽く舌で舐めてからタバコの箱に指を伸ばす。完全に人払いをした為に下の人間はいない。喫煙者では無いものの、常にポケットに忍ばせているライターを取り出した矢立を幡野は目で制し、自らの手で煙草に火をつけた。
「言ってた、すぐにでもお前に継がせてえ、…って言ったら、年明けにでも継ぐのかよ」
「......」
幡野の眼差しは、試すようでも伺うようでもない。ただ悪童のような目をして矢立を見据えている。
この男もまた、鳳勝会の「次」を決めつつも、完全に跡を譲ってはいない。そして、自分の父親である雄誠会の会長とは旧知の仲だ。
雄誠会と鳳勝会のトップが一斉に代を譲るということはないだろう。地方のヤクザは地方のヤクザとして磐石で無ければ、あっさりと豪能組のような内地に拠点を置く巨大な組織に乗っ取られ、潰される。それを踏まえた上で、恐らくは幡野と矢立の父親の間で話は付いているような気がしたが、聞くのが、怖い。
口を噤む矢立に、幡野がふ、と息を抜いて笑って見せた。煙草の煙が細く昇る。それが完全に消えるまでの間、幡野は何か考えてから顔を上げた。
「まだ、だ」
「......」
「この間会ったけどな、話には出たけどアイツもまだ隠居する気はねえみてえだ。まだだから、…テメェで選べるうちに、選んでおいた方がいいぜ。三代目」
猶予は、まだあるということなのか。
安堵する自分も忌避したくなる。
猶予があるのだという可能性に甘えようとしている。
矢立が曖昧に頷こうとした瞬間、どこかで電子音が鳴った。
音はドアの向こうから聞こえる。程なくして、ノックの音が聞こえたかと思うと先程門の前で白い息を吐きながら矢立を迎えた若頭だという男が部屋にはいってきた。
「幡野さん」
失礼します、と折り目正しく断り、神経質そうな眼差しを更に鋭利なものとした若頭が幡野に耳打ちする。軽く眉間に皺を寄せた幡野が、若頭が手にしていた携帯電話を受け取り耳に当てた。
「───...、…ちょいこのまま待て。おい煇、」
大人しく電話が終わるのを待っていた矢立が、急に名を呼ばれて肩を跳ね上げた。電話の用件は自分、否、雄誠会に関わるものなのか。音が鳴るように神経が尖るのがわかった。
「お前、いつだったか、あの神原の野郎にだまくらかされてたとかいう部屋住み、アイツ留萌に逃したって言ったよな」
「......はい、」
広瀬のことだ。
矢立にはすぐにその事がわかる。脳裏に浮かぶのは、先に留萌に居を移している本城滄や薬物中毒になって病院に収容された甲野のことではなく、前の冬に札幌から去った広瀬将未のことだった。
事を起こしたのは豪能組に所属していた神原だったが、一連の事件では鳳勝会にも迷惑をかけた。その際も矢立はこうして菓子折を持参して幡野の元を訪れ、事の顛末の報告と詫びを入れに来た為に、鳳勝会の中で幡野だけは広瀬の行方を知っている。
「…はい。あの、広瀬が…」
広瀬が何か、問いを重ねようとするも幡野はまた電話口に何かを伝えている。聞かないようにと努めようにも、次第に胸のざわめきが大きくなるのがわかった。暖房が効きすぎている部屋であるにも関わらず、矢立のスーツの中で嫌な汗が背中に伝い始めている。
「うちのシノギで留萌の港でサカナ捕ってる奴らがいるんだけどな、」
携帯電話を手にしたまま幡野が矢立に顔を向けて再び切り出す。意識しているものなのか、先程よりも早口になっていた。
「最近こっちから留萌に行った奴が、見覚えのあるのある豪能の奴らがふらふらしてるのを見たって言ってんだ。留萌はウチの諸場だ。豪能みてえな内地から来た奴らがクソ寒い留萌の海で密漁なんかしてシノギにするとは思えねえ。...お前、心当たりあるか」
いよいよ、背筋が冷えた。
留萌には、広瀬と神原がいる。
神原は豪能に籍があったのか、それとも安樂の子飼いだったのかまでは矢立にはわからない。
ただその神原は豪能から仕向けられて広瀬に絡んだ。
どちらも今はカタギの人間だ。
だが───どちらも、雑で乱暴な豪能組に言わせると消される理由がある人間にあたるだろうか。
指先が、微かに震えた。
「...留萌には、広瀬と、神原がいます」
「......」
「...神原は、ススキノを出る前に、…豪能の連中に、...追われていました」
言い終えた刹那、幡野の目に微かな喜色が浮いた。
口実があった、そんな目をした後にまた電話口に二、三言吹き込む。おもむろに顔を上げると、今度は掌でスマートフォンの表面を覆って音声を塞ぎ、真っ直ぐに矢立の目を見据えた。
「豪能の人間は3人。恐らくただの雑魚の兵隊だ。うちの連中なら間違いなく殺せるし、その後に船出して沖にでも流させる。...お前は、どうしたい」
───姿を見ていない。
矢立は瞬時に思った。
この目で、神原を追って留萌に入ったという豪能の人間の姿を見ていない。神原を狙おうとしている男たちの姿を見ていない。
組織を回す上で、起こる全てを目にすることは不可能だろう。だが、矢立は極力自分の目で確かめて動いてきた。
それなのに今は、自分の目で見ていないことに対して判断を───人の生き死にを決めるような判断をしなければならないのか。
矢立は幡野の目に射抜かれたまま静止する。
幡野に迷いはないのだろう。
この男はいつの時でも矢立や雄誠会に協力的だ。矢立が頼めば、幡野は確実に留萌にいる豪能の人間を排除する。
この男は迷いなく豪能組を追い、今しがた発した言葉の通りに潰して消す。
この決断力と、意志の強さを自分も求められているのかと思う。
これから組織の上に立つというのならば、同じ決断を、同じスピードで下さなければ───。
「どうすんだ。───三代目、」
「……、」
幡野の瞳が知らぬ間に厳しいものに変わっていた。気付き、怯えて息を詰めた刹那を見計らったように、幡野が呼吸を継いだ気配があった。
「煇!!」
「…っ、」
圧倒的な威圧感と腹の底から響かせる怒声に矢立の全身が硬直した。それでも文字通りに弾かれたように、思考が音を立てるようにして回転し始めた。
「......広瀬と、…神原を、護って、ください」
お願いします。絞り出した声が掠れた。幡野の表情が変化する様を見ることなく深く頭を下げた。矢立の頭頂部を横目に幡野が掌で閉ざしていた通話口に鋭い口調で何かを告げてから通話を終えた。
「...簡単に頭下げんな。あっちに他に誰かいるか」
すぐに連絡着く奴、先程とは打って変わった柔和な声音で尋ねられ、矢立は目を瞬かせる。頭の中には本城滄の姿があった。
「います、」
「それじゃあそいつに、」
幡野は考える間を取ることがない。自らの反射神経と経験値だけで事の段取りを練り、決める。矢立に向けて短く指示を出し、取り急ぎの仕事は終えたと言った風に深く息を吐き出した。
「こういう事言ってたんだぜ。さっき、」
立ち上がろうと腰を浮かせた矢立とほとんど同時に幡野も腰を浮かせる。穏やかな声音で呟くように向け、同時に右手を伸ばしてきたかと思うと労るような、子供を褒めるような手付きで息子ほど年齢が離れた男の頭を撫でた。
「選べたじゃねえか。テメェで、」
自分で選べるうちに、選んだ方が良い。
突発的な事態でも、そうでない事態でも幡野はそうして生きてきたのだろうか。
自分も、そうあるべきなのだろうか─── 。
後ろへと撫で付けた矢立の黒髪から幡野の柔らかい指が離れていく。振り返り、ドアに向かう堂々とした背中を見つめる。その視線に気づいているのか否か、幡野がもう一度口を開いた。
「いつでもな、誰が相手でも根拠も無くても、顔だけ上げとけよ」
「......顔、ですか」
「下向いたら頭から飲まれるぞ、」
自分をこんな風に導き、腹から声を出して叱咤してくれる人間は数少ない。
そんな幡野にも、鳳勝会にも迷惑を掛けたくはない。
一礼して立ち上がり、携帯電話を取り出す。何か愉快なものを見つけた様な足取りで駆け出す幡野の後ろに着く形で部屋を出ると、そこに待っていたヒデに短く声を掛けつつ操作したスマートフォンを耳に当てた。
ともだちにシェアしよう!