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第3話
前日までの稽古で体は疲れきっていたが、今日漸く樹に会えると思うと優志の心は体の重さとは逆に天にも浮くような軽さだった。
8月の炎天下の中出て行くのはしんどかったが、何時から来てもいいと言われているので、午前中の早いうちから会って欲しいと申し入れをしていた。
朝の方が気温が低いから、というのが表向きの理由だが、樹と居られる時間を少しでも長く欲しいと思ったのが本当の理由だ。
電車に揺られ暫し冷房の恩恵を受け、電車から降りると再び夏の日差しを体中に浴び汗を垂らしながら樹の待つマンションへと足を速めた。
まだ10時前だというのにそろそろ30度に届こうかという熱気の中、なるべく日陰を選びながら歩く。手には昨日購入しておいた冷菓子を携えている。手土産に水羊羹を買ってきたのだ。
マンションが見え始めると、優志の足は自然と早くなった。まだ築年数の新しそうなデザイナーズマンション、その白い外壁が太陽の陽を浴び眩しい。
暗証番号も聞かされているし、合鍵も持ってはいるが夜遅い時間以外で在宅中の時はなるべく部屋を開けてもらうようにしていた。勝手に入って来ても良いと言われているが、まだ慣れずにいつも開けて貰ってばかりだ。
だから今日も部屋番号を押して樹を呼び出し扉を開けてもらい、マンションの中へと入って行った。
ロビー内は冷房が効いていて、快適な気温に火照っていた体がホッと息を付くようだ。奥にあるエレベーターに乗り込み、樹の部屋を目指す。5階で降り、廊下を歩く。
部屋の前まで行くと、ドアチャイムを押すよりも先に扉が開き樹が顔を出した。
「優志、暑かっただろ」
「うん、今日も暑くなりそうだよね」
玄関を抜けリビングに通される。家具の大半は以前使っていた物を前の部屋から持ってきている。見慣れたソファーに座ると、既に麦茶の入ったグラスが用意されていた。
「樹さん、これ、冷やしといて後で食べて」
「ありがとう、何だ?」
「うん、水羊羹、好きって言ってたでしょ?」
「ありがとう、じゃあ、後で食べような」
本当は今すぐにでも抱きしめて欲しかったが、汗がまだ引かない体は熱を持って暑い。それに汗臭くないだろうか、優志はそんな心配をしながらグラスを手に麦茶を飲んだ。
「飯は食ってきたのか?」
「うん、少し食べてきた……」
「昼はどうするか、まだ早いよな」
「樹さん、お腹空いてる?」
「いや、大丈夫だ、冷やし中華の材料ならあるからそれでいいか?」
「うん、オレ作るよ」
「優志」
「……ん?」
甘い呼びかけに、もしかしてキスしてくれるかなと期待すると、樹は楽しそうな笑顔を浮かべ口を開いた。それは優志が思ってもみなかった事だった。
「お前に見せたい物があるんだよ」
「……え……?」
「ちょっと待っててくれ」
遠退いた笑顔を残念に思いながら、立ち上がって去っていく樹の後姿を見つめる。一人になった所で小さく溜息が零れる、それを隠すようにグラスを手に取ると一気に煽った。
一分程待っていただろうか、寝室に行っていたらしい樹は両手に籐製の籠のような物を抱えて戻ってきた。
「……何?」
優志の問いに笑顔で答えた樹はソファーの上に籠を乗せた。なんだろう、という心持でその中を覗いた優志が小さな歓声を上げた。
「子猫だ……!」
「あぁ……今は寝ちゃってるんだけどな」
「かわいい~」
相当猫好きなのか、優志の顔は嬉しそうに綻ぶ。早速子猫の小さな頭に指を伸ばし、さわさわと撫でている。
「かわいいなぁ……いつから飼い出したの?」
「あー……一週間前位かな」
「へぇ……樹さん全然言ってくれなかったから……知ってたらおもちゃとか持ってきたのに……」
「驚かせようと思ったんだよ」
「……驚いたよ……」
口調は拗ねているが、その顔は子猫に夢中なままだ。かわいいとしきりに言いながら、起こさないようにゆっくりと体のラインを撫でる。柔かい腹をぷにぷにと指で押してはクスクスと笑っている。
「猫じゃらしみたいなやつはあるんだ、起きたら遊んでやれよ」
「うん、そうする、ねぇ、名前は何ていうの??」
「あぁ、ソラとウミ」
「へぇ……女の子?男の子?」
「空良(ソラ)が男で、海美(ウミ)が女、こっちな」
黒と白のブチが空良、もう片方の赤茶が海美と指で教える。すやすやと腹が上下する様を優志と樹は飽く事無く見つめていた。
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