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幸せな一日#3

 急に気分が悪くなったおれは、病院のトイレで戻してしまった。一気に気分が悪くなる。さっきまでムカムカでおさまっていたのに、一度吐くとさらに気分が悪くなり、続けて戻す。  トイレの扉の前で待っていた了介さんは、ふらふらと出てきたおれを見て苦しそうな顔になった。 「つわりか? ましになった?」 「まだ気分悪いけど、大丈夫です。帰りましょう」  笑顔をつくっても、顔色の悪さは筒抜けだったらしい。 「帰れるか?」と心配そうな了介さん。 「つわり、酷かったら入院もできるって聞いたぞ」 「大丈夫です、入院する人はもっと酷いですよ。ありがとう。帰りましょう」  笑って、口をゆすごうと手洗い器に近寄ったおれは、その上に取りつけられた鏡で了介さんの強張った、怖い顔と目が合った。 「征治を家に帰すのは心配だよ。おれのうちに来ないか?」  口から水を吹いて、驚く。同棲なんてしていない。家に来ないかって……。 「これからおれと住もう。そうしよう!」  ひらめいた、という表情の了介さん。顔が、ぱああっと明るくなっている。 「い、行ってもいいんですか……?」  おずおずと尋ねると、了介さんは何度もうなずいた。 「ああ。いっしょに住もう」  結婚の話から、同棲まで決まった。うれしい。大好きな了介さんといっしょに住める。つかの間、気分の悪さも吹っ飛んだ。太い木の幹みたいな腰にぎゅっと抱きつくと、了介さんも抱きしめ返してくれる。 「な、いっしょに帰ろうな、征子(せいこ)ちゃん」  了介さんはおれを甘やかしてくれるとき、ときどき「征子ちゃん」って呼んでくれる。 「帰る~!」  思いっきり甘えると、トイレに入ってきたおじさんがびっくりした顔をしていた。慌てて外に出る。  手を繋いで、顔を見合わせて、へへって笑った。  で、了介さんの車で了介さんの家に向かったおれたちだけど。  気分の悪さが酷くなって、吐きはしなかったけど、おれは車の中で死んでいた。車酔いっていうのか、そんな感じもあいまって、苦しい。  元々、吐き気が酷くなって病院にかかって、妊娠が発覚した。妊娠がわかったのはうれしいけど、気分の悪さもセットなんて。当分は苦しい日々だな……。  それでも、うれしい気持ちに変わりはない。男体妊夫をとり巻く差別の問題も、了介さんと二人っきりで車に乗ってたら、なんの関係もないことだ。  家に着く。了介さんの家は元町にあるマンションの一室だ。築浅ではないけど、居心地のいい場所で、おれは大好き。  広いリビングダイニングキッチンがあり、そこに置かれた三人掛けのベージュのソファに了介さんと座って、他愛ない話をしたりキスをする時間が好きだった。  リビングダイニングは今日も落ち着く場所だ。部屋の隅のバランスボールや腹筋ローラーも、壁に掛かった数字だけのカレンダーも、ソファに転がっている小さなジャンガリアンハムスターのぬいぐるみも、いつもどおり。今日からここがおれの家だ、という喜びと共にこみあげてくるもの。  そう、吐き気。 「了介さん、吐きそう……」 「トイレ、行こう。な」  了介さんに支えてもらいながらトイレに向かい、便器の中に盛大に吐く。昼飯もおにぎり一個だったのに、その分はもうないはずなのに……。気持ち悪い。 「おえ……え、きもちわる……」  よろよろと床にしゃがむと、了介さんがすかさず背中を撫でてくれる。 「もう寝るか? ベッド、行こう」 「でも、汚しちゃったら……」 「汚してもいいから。洗面器、置いておくからな。ほら、おいで」  また体を支えてもらい、いっしょに了介さんの寝室へ。慣れたその場所に、気持ちがほっとする。お布団にくるまると、そのほっとする思いはさらに強くなる。了介さんの匂い。シーツに顔を埋めた。  了介さんが冷房を入れてくれる。それから、扇風機もつけてくれた。 「すぐに涼しくなるからな。洗面器持ってくるから、横になってて」  体を伸ばし、楽な体勢を探す。気持ち悪いけど、なんだかほっとしてる。  了介さんが洗面器とタオルと、それからペットボトルのポカリを持ってきてくれた。ナイトテーブルに置いてくれる。 「征治、おれ、ちょっと出掛けてくる」  え……? おれも行きたい。  でも、行けるわけもなく。 「い、いってらっしゃい。おれに気にせず、ゆっくりしてきてくださいね」  嘘。ほんとは早く帰ってきてほしい。行ってすら、ほしくない。一人にしないでほしい。  でもそれはわがままだと思うから、おれは笑顔をつくる。 「気をつけて行ってきてね、了介さん」 「うん。すぐに戻るからな」  おれの頭を撫でて、了介さんは微笑んでくれた。

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