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記憶の朝#1
「征子、帰るの、ちょっと待ってくれ」
フロア・マネージャーの水城 さんに呼びとめられて、おれは更衣室に向かう足を止めた。
スーツをびしっと着こなして、すらりとした体つきの水城さんは、お店でもおれたち以上に目立っているときがある。水城さんにアタックするお客さんもいる。それを甘い笑顔でかわすこの人は、敏腕で名高い。どこにいても目立つし、華がある。
おれも隣を歩きたいと、淡い思いを抱いていた。
ただ、このときおれの前に現れた水城さんは……切れ長の二重の目と通った鼻筋、肉感的な唇という芸能人のように美しくオーラを纏ったその顔が、少し困惑していた。おれは腕に嵌めた華奢なゴールドのブレスレットをいじりながら、フロアに戻ってきた。
高級なソファが並び、花とアルコールの匂いが漂い、大きな鉢の観葉植物と足元のライトが妖しい影をつくっているこの場所。壁には大量のドンペリの瓶と、ギュスターヴ・モローの複製画が飾られている。流行りの洋楽が掛かり、中央にはダンスステージもある。黒と青、オレンジの光の世界。そこここに美しく、可愛らしい顔の女性たちがいて、お客さんとお酒を飲み、ダンスを披露し、楽しい夢を見させている。
水城さんが、おれの腕を引いた。耳元で、音楽的な声がそっとささやく。
「私立探偵が来てる。桑原 さんといっしょに」
「私立探偵? 桑原さんって、あのパン会社の社長さんの?」
おれのお得意さん。水城さんはそっとおれの前髪を直してくれた。甘い顔でにこっと笑って、「いい顔しろよ」と言ってくれる。
おれはうなずいて、緊張しつつ、フロアの奥、探偵と桑原さんの待つ事務所へ向かった。
二年前の、春のことだ。
事務所にはパソコンとデスクがあり、店内を映す監視カメラのモニターも設置されている。着替えが必要ないスタッフのロッカーも置かれていたので、狭く感じる。いつもなにかしらごみごみしていて、暗くて、煙草の匂いがきつい場所。華やかな表舞台の陰に隠れて、しんとしていて、常に殺気立っている。
その事務所の奥、衝立の向こうにソファとテーブルの応接セットがある。
そこに、探偵の天馬了介さんと、お客さんの桑原匠 さんが腰を下ろしていた。
天馬さんも水城さんと同じくびしっとスーツを着こなしていた。ただ、一七八センチの水城さんと比べて、体格がもう違う。厚みのある体と一八八センチの長身で、ソファが狭そうに見えた。
少し気圧されたけど、隣に水城さんがいてくれるからなんとか平気な顔をつくっていられる。そして天馬さんの笑顔にもほっとした。
「初めまして。もうお帰りのところを、申し訳ありません」
穏やかに謝った天馬さんに、怖い部分なんかどこにもなくて。目も優しくて、話しやすそうな人だと思った。
それが第一印象。
隣にいる桑原さんを見る。
中背で、たしか四十八歳。デキるビジネスマンというかんじの、凛々しい顔つきだ。鼻が角ばっていて、目立つ。鷲のような顔立ちだ。目も明るく煌めき、若々しい。才覚のきらめきがある、というかんじで、お話もいつも楽しい。でも、おれと話すときは仕事の話一辺倒ではなくて、けっこうプライベートな話もしてくれる。
奥さんとの、何気ないやりとり。愛犬の写真を見せてくれたり、観た映画の話とか。仕事の自慢をするお客さんも多い中、桑原さんの語る素朴なエピソードは、ありふれてはいるけれどなんだかそのぶん個人的で、かえって特別な感じもして、おれは話を聞かせてもらうことが好きだった。
天馬さんと同じように、桑原さんもスーツを着ている。木曜日の午前零時時過ぎ。仕事帰りなのだろうか? でも、探偵さんと、おれに話って?
動揺を感じているおれの気持ちを悟ったのか、桑原さんは「悪いね」と言った。いつもと変わりない、ちょっと飄々とした桑原さんだ。
「いえ、どうされたんですか? お仕事帰りですか?」
「ちょっとね」
桑原さんは曖昧に笑った。天馬さん(と、このころは呼んでいた)が、静かに割って入った。
「征子さんに、少しお話を伺いたいと思いまして。桑原さんの、ご家庭のご事情の件で」
「桑原さんのご家庭の?」
ソファに座るように水城さんに促され、桑原さんの向かいに腰を下ろす。黒いスカートの上で両手を握りあわせた。
「おれ、外に出てるぞ征子。なにかあったら呼んでくれ」
部屋の外に出ていく水城さん。一人取り残されて、不安になった。天馬さんはおれに向き直った。
「征子さんですね」
おれはうなずいた。桑原さんはなんだかぼーっとしている。いつもの鋭い眼差しはどこにもない。
「征子さんは」
天馬さんが続ける。
「桑原さんと親しいそうですね」
「ええ。お客様ですし、とてもよくしてくださるので」
無意識に、肩にかかる髪の毛を触った。
「男の娘と遊ぶクラブ」の<GONE WILD>にホステスとして勤めるおれは、この長身と三白眼のせいで、売れっ子ではない。まったくない。デカすぎて怖い、目つきが悪い、睨んでるのか、とお叱りの声もよくいただく。
とはいえ、中には入れ込んでくださる方もいて……嫌う方と贔屓にしてくださる方、その落差が激しい。桑原さんはその「入れ込んでくださる方」のトップを走ってくれている人だ。有難いことに。
よくおれにチップをくれるし、お酒も豪勢に飲んでくれる。でも、過剰なタッチはしない。おれを綺麗で、可愛いと言ってくれる。
いいお客さんだ。紳士的で、優しくて。
ただ、「いいお客さん」以上の感情は、おれにはない。
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