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記憶の朝#2

「征子ちゃんは、綺麗だな」  ソファに座る桑原さんが、ぽつりと言った。 「きみのことが好きだったんだよ。それが妻にバレてね」  え、とおれはつぶやいた。天馬さんが後を引き取る。 「奥様とのあいだで、離婚の協議がなされています」 「え……そ、そんな」  大ごとになってる。でも、でも桑原さんは、ここに来ているときはそんな様子一度も匂わせなかった。  桑原さんは力なく笑った。 「妻が天馬さんに、おれの尾行や監視を依頼してね。ここに通っていることがバレて。今日、天馬さんときみを交えての話し合いの結果によって、離婚をどうするか決めたい、というのが妻の意向だ」 「そうだったんですか。でも、わたし……」  桑原さんのことは「いいお客さん」だと思ってるけど、それ以上の感情はない。どのお客さんに対しても、そんな感情は抱いたことがない。 「おれ、気づいたんだよ」  桑原さんは突き抜けたように笑った。顔を少し、くしゃっとして。 「妻のこと、さほど愛してないかもしれない、ってね」 「え……?」 「それより、征子ちゃんといるほうがさ。楽しいし。征子ちゃんはどう?」 「あの、わたし、は……」  一気に、胸が苦しくなる。桑原さんの目は、「楽しいです」と言うことを期待している。でも、おれ、嘘はつけない。ここで嘘をついたらその嘘は一生ついてまわって、おれを苦しめることになる。つまり、おれは桑原さんと離れられないことになる。そう直感した。  無言でこっちを見てくるその目が、少し怖かった。 「えっと、わたしは……。たしかに、お話するのは楽しいです。でもそれは、お客さんとして、っていうか……」 「はっきり言っていいんだよ」と桑原さんが笑う。 「おれのこと、好きだよな?」  ぐ、とおれの喉が鳴った。目が、笑ってない。  怖かった。初めての彼氏に暴力を振るわれていたときのことを思いだした。そのときも、元カレは笑ってなかった。口だけ「にこっ」てして、「おれのこと愛してるよな?」とささやいた。煙草の火をおれの顔に近づけて。 「征子さん」  過去にトリップしたおれの耳に、天馬さんの声が聞こえてきた。天馬さんは少し身を乗りだし、おれの目を見つめて、軽くうなずく。 「正直にお気持ちを話してください。大丈夫です」  ほんとに? 怖い気持ちのまま、目を泳がせる。おれの目が、天馬さんの目と合った。その灰色の瞳に、なぜか気持ちが落ち着く。波間に漂っているとき、しっかりと腕をつかんでもらったように、おれの心は現在に戻ってくる。  桑原さんの顔を見て、おれは言った。 「お客さんとしては、好きです。桑原さんは、いいお客さんです。でも、おれにとっては、それだけです」  それからだ。おれがストーカー被害に遭いはじめたのは。 ○  妊娠が発覚して、四日後。  久々に吐き気のせいではなく、爽やかに目覚めることができたおれは、朝からある計画を練っていた。  了介さんが起きてくるのは七時ちょうど。六時十分すぎに目覚めたおれは、急げば間に合うと踏んだ。  歯磨きをし、顔を洗って髭を丹念に剃り、まず服を着替える。ひらひらの袖の、シフォン生地の黒いトップスと、黒いスカート。クラブの仕事を辞めて二年近く経つけど、腋も脚も今でも毛は処理している。了介さんが寝ているベッドの横で姿見に自分を映した。  強面三白眼、一八一センチのデカい男。このすっぴんのままじゃ、違和感半端ない。生まれつき可愛い顔立ちの男の人を羨み、妬む瞬間だけど、メイクをすればまだマシになる。  自分を励まし、メイク道具が詰まったポーチをつかんでリビングダイニングに向かった。 「あれ? 征子ちゃんがいる!」  起きてきて、おれの顔を見た了介さんは目を輝かせた。  おれは恥ずかしくて、へへっと笑う。  背中まである黒髪。ピンクベージュを基調にしたメイク。控えめな、でも目が大きく見える付け睫毛。三白眼は、メイクの力で少しマシになっている……はず。  初めてメイクをしてもらったときのメイクアップアーティストさんに、「征子ちゃんのイメージは、ファッションモデル。つまり、メイクを見せるんじゃなくて、服を見せるときの控えめな華やかさ。アイシャドウはブラウン、チークとリップはピンクベージュ。奇抜じゃなく、ナチュラルで、上品な正統派。知的で、さりげない色香を出す。カラーレスで、素材のよさを際立たせるのよ。だって村岡さんは顔立ちがとっても綺麗なんだもの」とアドバイスをもらった。  以来、自分でメイクするときも、ファッションモデルになりたいと思いつつメイクするようにしている。 「征子ちゃん」のできあがりだ。 「うわー、久しぶりだな。相変わらず綺麗だなあ、征子は」  照れくさそうに笑う了介さんに、おれの胸もきゅんとなる。 「へへ。今日は女装してみました。綺麗?」 「うん、とっても綺麗だ」  おれを抱き寄せる了介さん。 「しかも、おれのエプロンしてるし」 「へへ」  服がいまいち、と思ったおれは、思い切ってトップスを白のハイネック(袖はチュールのパフスリーブ)に、下をデニムのスキニーパンツに変更。そこに、了介さん愛用のネイビーに白いドットが散ったエプロンを身に着けている。 「新妻が朝からおれのエプロン付けて料理……。うわーっ、今日はいい日だ!」  そう言って伸びをしながら洗面所に向かう了介さんの背中を見て、にんまり笑うおれ。でも、そうだ。料理、頑張らないと。

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