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事件の顛末#3
桑原さんはスーツ姿だった。手に、刃渡りが長く大きなはさみを握っている。愛想のいい顔でにこっと笑って、
「やあ、征子ちゃん」
と言った。
ぞっとした。恐怖で体がすくむ。身動きできず、胃がひっくり返ったような、胸のすーすーするかんじだけを感じた。
おれと桑原さんは見つめあった。
桑原さんは、はさみを手におれの目を見つめて、
「征子ちゃん」
とささやいた。
「征子ちゃん?」
チンコ切って私と暮らそう。
手紙の一文が甦り、恐怖で発狂しそうになった。胃液が込みあげ、喉がひゅーひゅー鳴って、いつの間にか声が漏れていた。
「たすけて……」
「征子ちゃん?」
「た、助けて……助けてぇ……!」
悲鳴を上げて、玄関のほうに飛び出そうとする。後ろから腕をつかまれた。生ぬるい息が首筋に当たった。
「動くなよ、征子……。おれの言うことを聞くんだ」
鋭いはさみの先端が、脇腹に当たっている。怖くて怖くて、へたりこみそうだった。思わず空えずきして、畳の上に崩れ落ちた。
桑原さんがおれの脇の下に腕を入れて、羽交い絞めにしてくる。怖い。おれ……殺されるのか? 頭が真っ白になり、「ごめんなさい」と繰り返した。
「ごめ、ごめ、なさい、許して……、許してください……っ」
すすり泣くと、「許してるよ」と桑原さんは言った。
「おれはずーっと、許してるよ。なあ、征子」
そのときだ。
天馬さんが部屋の中に飛びこんできた。
桑原さんはおれを突き飛ばすと、はさみを構えた。
それからのことは、あまりよく覚えていない。気がつけば、天馬さんが桑原さんを投げ飛ばしていた。宙を舞う桑原さんの体。大きな音。日に焼けた襖に桑原さんがぶち当たって、襖が外れた。
そして天馬さんの脇腹には、はさみが深々と刺さっていた。
おれは呆然として、畳の上にしゃがんで肩を上下させている天馬さんのほうに這っていった。
「て、天馬さん……、は、はさみ……、はさみっ……」
「っ……!」
天馬さんは太く息を吐いて爆発的に立ちあがると、畳の上で身をよじる桑原さんに飛びかかっていった。その体を畳に押さえつけ、おれに向かって叫んだ。
「村岡さん、警察に電話して! 急いで!」
おれは動揺して動揺して、手が震えたけど、なんとか自分のスマホで警察に通報できた。そのあと、気づいて救急車も呼んだ。
桑原さんは押さえつけられたまま、潰された蛙みたいな恰好で、泣いていた。
「髪の毛が欲しかっただけなんだよぉ……」
天馬さんは重い岩のように、桑原さんの上に覆いかぶさっていた。
そして、桑原さんは逮捕され、天馬さんは隈原総合病院に搬送された。おれも付き添った。
天馬さんの唇は真っ白で、額が脂汗で濡れて、手が恐ろしく冷たかった。
でもおれを見て、「大丈夫だからな」と言った。むりして笑ってくれた。
その顔を見ていると、この人が死んでしまったら、おれはどうすればいいのだろうと思った。
おれの人生から、なにかが確かに欠ける、そんな気がした。
○
ベッドで眠る了介さんのほうに寝返りを打って、Tシャツの裾をめくる。
左側のおへその少し上あたりに、はさみで刺されたときの傷跡が見える。了介さんは手術のあと腸閉塞を起こし、それもとても大変だった。
指先で、わずかに盛り上がって色を変えている縫合痕を触っていると、「ん……」と声がした。
大きな手がおれの頭を撫でる。
「どうした征治、眠れないのか?」
眠そうな声。おれはTシャツを下ろして、「思いだしてただけ」と言った。
「了介さんがおれを助けてくれたこと。思いだしてたんです」
「ああ、あのときのことか」
了介さんは目を閉じたまま笑った。
「おれは、楽しい思い出だけ大事に持ってる主義だけどなー」
「たしかに、楽しい思い出じゃないけど。でも、大事な思い出です。今ここに了介さんがいてくれることが、こんなに凄いことなんだ、って思えるから」
「そうか? なあ征治、ごめんだけどおれ、寝ちゃうぞー」
「起こしてごめんなさい。おやすみなさい」
「ん、おやすみな」
すーすーと穏やかな寝息を立てはじめた了介さんの隣に、もう一度横になる。
でも、まだ。
おれと天馬さんが恋人同士になるのは、まだ先の話だ。
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