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第1話 一人ぼっちの図書室

 寒々しい。今は夏だというのに。  室内の外、廊下を走るバタバタという騒がしい音に目をすがめながら、佐倉伊織(さくらいおり)は独りきりの図書室の雰囲気をそう評した。司書教諭が不在で、ここ三日間は利用不可となっているため、誰一人としてここへ立ち入る者はいない。開いていたところで、利用する生徒は少ないというのに。    ましてや、わざわざ職員室で鍵を借りてまで利用する者などいるはずがない。  自分を除いては。  しかし、一人の司書教諭と数人の利用者がいないだけでここまで静かだとは。  いつもは灯されている蛍光灯を消しているせいか。人気(ひとけ)のない室内は、陰気で冷たい印象を伊織に抱かせた。  入校して以来、ここへは毎日のように通っている。  校内で唯一、居心地がいいと思える場所だった。クラス委員を決める際に、迷わず図書委員に立候補して正解だった。他に名乗りを上げる生徒もおらず、すんなりと決まったことには安堵するとともに、何故か微かな不満のようなものも込み上げてきた。一年生の時から図書委員を続けてもう一年が経過したが、あまりに利用者が少ない。どうやら、この学校の生徒は読書にあまり馴染みがないようだ。  おかげで司書教諭とも親しくなり、彼女が休みの時にもこうして使用できているわけだが。  勝手にこぼれ出たため息を疑問に思いながら、伊織は音もなく本を閉じた。  巷で話題のホラー小説と聞いて手に取ってみたが、自分には合わなかったようだ。二日かけて読破したというのに、消化不良を起こしたような愉快ではない気持ちになる。  次に読む本を棚から探し出す気にもなれず、彼はそのまま貸し出しカウンターに突っ伏した。面白いとは思えない文章をそれでも無理やり読んでいたせいか、残り二ページあたりから睡魔に襲われていた。つまらない授業を受けている時でさえノートはしっかり取るのに、合わないと感じた本を読んでいる時だけはどうしようもなくまぶたが重くなる。  こういうところは父親に似てきている。  彼もまた読書が好きで、休みの日は一日中家にこもって本を読んでいるような男だった。彼が読書中に居眠りをするのは、決まって面白くない本を読んでいる時であったのを覚えている。  小さい頃、居間で読書をしていた父親にちょっかいを出したことがある。てっきり怒られると覚悟しつつ起こした行動だったのだが、予想に反して父親は優しく伊織を抱き上げ自らの膝上にのせた。そして、まだ文字も読めない息子へその時読んでいた本の内容を語り出した。当時、父親はサスペンス小説にはまっていた。だから確か、語られた本の内容も子供に聞かせるには生々しいものだったのだろうと思う。「伊織におかしな影響を与えるからやめて」と台所にいた母が苦笑しながらこちらへ声をかけてきた。  脳裏に、遠く昔の懐かしい光景が浮かんで消える。  今思い返せば、とても温かい家庭だった。  夫婦は仲がよく、一人息子の伊織へ惜しみない愛情を注いでいた。  狭い家の中には、常に家族の笑顔があった。窮屈で、裕福ではなくとも、絶えず希望の光に満ちていた。  明かりが突如として(つい)えてしまったのは、伊織が中学に上がって間もない頃のことだった。  いつの間にか閉じられていたまぶたの裏に、今度は紅蓮がちらついた。  とっさに目を開く。記憶というものは容赦がない。一つだけいいことを思い出せば、芋づる式に要らないものまで引きずり出されてくる。そういう屁理屈を捨てきれない点、自分は決して明るいとは言えない性格に成長してきてしまっているなと感じる。  過去の嫌な記憶を呼び起こすと同時に、現在置かれている環境にまで考えが及ぶのは、いくらなんでも暗すぎる。けれど放課後を思うと、憂うつにならずにはいられなかった。  両親を亡くして、今年で四年になる。  その年月は、伊織が母方の親戚の家へ身を置くようになってからとたいして変わらなかった。  伊織の祖父母は早くに他界し、両親は親戚とは長らく疎遠にしていた。だからいくら自分の親戚だとはいえ、誰一人として見知った相手などいないということを伊織は両親の葬儀で知った。  彼らは親族である両親の死を悼むより先に、一人残された息子をどうするかという話し合いを始めた。  伊織を見る目は、どれも冷たかった。何処の家に引き取られようとも似たような結果が待ち受けているのだろうと、その時に悟った。誰しも、見ず知らずの子供の手を自ら進んで取ろうとはしない。たとえ血の繋がりがあったとしても関係なかった。    とある家に引き取られてからの一年間は、地獄と言い表すしかないような日々を過ごした。  特につらかったのは食事の時だ。一つの家に住む者たちが一つのテーブルに集まっているというのに、伊織の存在だけは見て見ぬふりをされた。料理は出されるものの、会話が発生しても参加することは許されなかった。話しかけても無視を決め込まれる時すらあった。出されたものは必ず完食したが、美味いと感じたことは一度もなかった。  高校へは両親の残した遺産と保険金で進学した。どちらも微々たる額だったが、進学を辞めさせられなかったのはせめてもの救いだった。  一年生になって間もなく、伊織はアルバイトを始めた。中学生の時はやりたくても学校側が認めていなかったためできなかった。高校へ入ったのも、就職する時に不利にならないようにという理由からだった。志望校はくじを作って適当に決めた。  今日は木曜日。バイト先の喫茶店は定休日だ。  放課後、まっすぐ帰宅しなければいけないと思えば気持ちが暗くもなる。学校で授業を受けている間とバイトに勤しんでいる間は、嫌なことも忘れられる。勉強は好きな方だし、バイト先の店長や従業員がいい人だからなおさら没頭できるのかもしれなかった。    授業とバイトがない日には、自分には居場所がない。  いや、元から学校内にも自分の居場所などない。図書室のようにましだと思える場所はあっても、的確と思える場所は存在しない。  何処にいようとも、独り。  それならそれで気楽でいいさと割り切った。  放課後に待ち受ける憂うつさも、眠気には敵いそうにない。  昼休みが終わるまで、あと三十分はある。  次に読みたい作品はもう決めてある。チャイムが鳴って目覚めたとして、棚から本を取り出し、貸し出し手続きを済ませてから教室に向かうとなれば五時限目の開始に間に合うか……。  意識が遠のく寸前。もう二度と会うことのできない両親がこちらへ笑いかけてくれている光景を伊織は見かけた。  夢の断片は、温かく、切ないものだった。

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