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第2話 進路調査票

 「――おい。……おーい」  誰かに、呼びかけられている。若い男の声だ。  まだ重い頭を渋々、起こす。寝ぼけ眼はかすんでいて、目の前の自分の腕さえぼやけて見えた。  伊織を浅い眠りから目覚めさせた張本人は、カウンターの脇に立っていた。  「あ、起きた。気持ちよさそうに寝てたとこ悪いんだけどさ、お前の名前、教えてくんない?」  「……、……は?」  言われている意味がよく分からなかった。  起こしたことを悪く思っている、という一言はかろうじて理解できた。口調はごく軽いもので、とても謝罪しているようには聞こえなかったが。  どうやら、名前を聞かれているらしいと理解するまでに少し時間がかかった。  が、何故そんなことをしなければならないのか。それは全く理解不能だ。  目の前に立つ男は、制服を着ていた。この学校の生徒らしい。  何か返答をしてやる前に、相手をじっと観察してみる。  伊織と同じ制服を着ているが、緑色をしたタイはだらしなく緩められている。半袖から覗く肌の色は、日に焼けているらしく浅黒い。同年代にしてはガタイもよく、一瞥しただけで体育会系だろうと分かる。短い髪は茶色に染められていた。個々人の髪色は特に規則で定められてはいないため、金髪や時には赤く染めている者までいる。だから特段、珍しいことでもなかった。  素性も知らない男子生徒の顔は、やはり腕と同じく日に焼けていた。  窓から入ってくるわずかな光を反射した瞳は、妙に輝きを放ちながら伊織を見下ろしていた。興味津々といった具合だ。  「……人に名前を聞く時は、まず自分から名乗るものじゃないのか」  相手から目をそらしながらぶっきらぼうに言ってやった。いつまでもじっと見下ろされていると、落ち着かなくなってくる。  また、嫌な記憶がよみがえりそうになってきた。  「あ、それマンガとかでよく見るやつな。じゃあ俺から名乗るけど」  茶髪の男子生徒は、顔に人懐っこい笑みを浮かべて続けた。彼が後ろ手に一枚の紙を持っていることにそこで気がつく。  「俺は江森(えもり)。二年A組で保健委員担当。部活は野球部で、趣味は――」  「もういい、どうでもいい。で、俺に何か用なの? 図書室は今、本の貸し出しはできないんだけど」  「図書室には用はないさ。お前、佐倉伊織か?」  どきりとした。何故、俺の名前を知っているのか。  伊織がうなずくかたずねるかするより先に、江森と名乗った男子生徒が理由を説明し始める。  「いやな、何日か前に進路調査票ってやつ渡されただろ? それの期限が今日だったんだけど、朝に提出したら昼休みに職員室まで呼び出し食らってさ。仕方なく行ったら、書き直せって用紙をつき返されて。そん時に、C組の大村(おおむら)先生に言われたんだ。『うちのクラスにも再提出の生徒がいるから、ついでにそいつに渡してくれ』って。んで、コレを頼まれたんだけど」  コレ、と言いながら江森は持っていた紙を伊織にも見えるよう掲げた。  そこには「進路調査票」と明記されている。上の欄に〝佐倉伊織〟と手書きで名前が記されていた。彼が今朝、提出したものに間違いなかった。  受け取ろうと手を伸ばしかけた時、江森が再び口を開いた。  「ったく、大村もひどいよなー。生徒をパシリみたいにしやがって」  「……教師は何かと忙しいんだ。だからしょうがないんじゃないのか。再提出を命じられるような書き方をする生徒の方にも非はある」  「言っとくけどそれ、お前も一緒だからな」  言葉に詰まる。その通りなのだから言い返しようがなかった。  江森は差し出しかけた用紙を引っ込め、しげしげと文字の書かれている面を眺めた。  「にしても、名前とクラスと出席番号しか書かないってのもどうよ。ほぼ白紙ってことじゃん」  「……うるせぇ。仕方ないだろ。まだ何も、決まってないんだから」  むっとしたことを隠さずに言い返す。言葉の後半は、尻すぼみになった。  正面から江森の視線を感じた。痛いとさえ思った。お前には関係ないだろ、と余計な一言をつけ足してしまいそうになるが、なんとかこらえる。  関係ない。そんな分かり切ったことを、わざわざ口に出す必要なんてない。  調査票を受け取って届けてくれた礼を言い、早いところ、こいつを追い出してしまおう。そしてまた、独りきりの図書室で気ままに過ごせばいい。  「なんだ。それじゃ、俺とおんなじだな」  予想外だった。  思わず、伊織は弾かれたように顔を上げた。  目が合うと、江森はにかっと笑いかけてきた。近所によく出没するいたずらっ子のような笑みだと思った。やんちゃで、無邪気で、怖いことなんて何もないとでもいうような。  「実は俺もさ、ほぼ白紙で出したんだ。一応〝進学〟のとこには印つけたんだけど、志望校とか何も考えてなかったし。まあ、だから呼び出し食らったってわけ。……そういえば大村、お前のことも呼び出したけど全く来る気配ないって言ってたな。だから俺に託したらしい」  「お前、どうして俺の居場所が分かったんだ。まさか校内の全部を見てまわったってわけじゃないよな?」  「当然だろ。お前のクラスに行って、適当なやつ捕まえて行きそうなとこは何処かって聞いたんだよ。そうしたら、多分ここにいるっていう有力情報をゲットしたからまっすぐ向かったってわけだ。図書室は使えないって聞いてたから、本当にいるかどうか半信半疑だったけど」  本当にいてくれて助かったーと笑いながら、江森は用紙を伊織へ手渡した。受け取ると、少しだけ紙に温もりを感じた。  「……ありがとう。悪かったな、面倒なことに巻き込んで」  「別にいいよ。こうしてすんなり渡せたんだし」  肩をすくめた後、江森は「にしてもこの部屋、あっちぃなー」と言いながら、カウンターとは反対側に位置する窓際の方へ歩いて行く。図書室の出入り口の壁にかけられている室温計を見てみると、二十八度のあたりで針が止まっていた。普通の人間ならば暑いと感じる温度のはずなのに、言われるまで伊織には実感がなかった。  カラカラと、何かを開閉するような音が聞こえる。  「窓くらい開けろよ。室内だって充分に熱中症になるってテレビでやってたぞ」  「ああ」  「あと、電気もつけたら? こんな暗い中でよく本なんか読めるな」  呆れとも感心とも取れぬ口調で言ってから、江森は次に電気のスイッチの元へ移動する。カチッと音を立ててスイッチを押すと、天井の蛍光灯がついた。満足そうにうなずく江森を横目で見ながら、余計なことをするなと伊織は思っていた。わざと電気を消したままにしていると何故分からないのか。  明かりの眩しさに顔をしかめていると、江森が「あっ」と短く声を上げた。今度は何をする気なのかと、その動向に注意を払う。  「そういえば、前から読みたいと思ってたやつがあるんだけど、ここに置いてっかなぁ」  止める間もなく、江森は室内の本棚を物色し始めた。迷いのない足取りで「か行」と書かれた棚の前へ向かったということは、探している本の作者はか行で始まる名字らしい。    体育会系でも、本は読むのか――。  偏見にも似た感想を、伊織は抱いた。  「お。あったあった。なあ、ついでにこの本、借りてってもいいかー?」  「ついさっき言っただろ。今、本の貸し出しは出来ないって。明日の午後からは司書の小木(おぎ)さんも戻ってくるから、借りるならその時に――」  「でもお前、図書委員なんだよな? そこに座ってるってことはさ」  伊織はまた言葉に詰まった。しくじった。いつもそうしているからつい、癖のように真っ先にこの席へ着いていたのだ。  「……まあ、そうだけど」  「ならいいだろ? 勝手に借りてくんじゃないんだし」  バツが悪そうに呟く伊織を前にしても、江森はなお食い下がった。そうして再びカウンターまで歩みを進めると、一冊の文庫本を差し出してくる。表紙には物々しい字体で『手錠』と書かれていた。カバーの装丁とタイトル名から刑事ものかと伊織は推測する。  「……カードにクラスと名前、書いて」  渋々、本を受け取り貸し出しの手続きを始める。  本に挟まれているカードに借りる者のクラスと氏名を書いてもらい、クラスごとに分けられている箱の中に収められた各個人のカードにも借りた本の名前を書いてもらう、ただそれだけの単純な作業だ。図書委員はそれらをちゃんと明記しているか確認し、貸し出し日と返却予定日の欄に日付を書き加える役目を担っている。  「2-A」と書かれた箱の中から江森のカードを見つけ、取り出す。  貸し出し記録を見てみると、この四か月間で一度しか本を借りていなかった。そこに書かれた書名から察するに、前回借りたのは恋愛小説らしかった。  目の前で大人しくカードに記入をしている男には到底、似合わないジャンルだ。けれど、彼には意外にもロマンチストなところがあるのかもしれない。とは思いつつも、伊織はあまりの似合わなさに首をひねりたくなった。意外に思う気持ちは拭いきれなかったが、とにかく早く手続きを済ませたくて江森のカードに本の名前と貸し出し日、返却予定日を書いてやることにした。    「ほい。書いたぞ」  「ああ。必要事項、今お前のカードに書いてやってるから」  「さすが図書委員。手慣れてるな。もしかして、一年の時からずっと?」  日付を記入しながら、「悪いかよ」と剣呑な声を出す。向こうとしては軽い世間話のつもりだったに違いない。だが、受け取る側としてはなんだか馬鹿にされているように聞こえてしまった。  たいしたクラブ活動もせずに、授業以外の時間をほとんど室内で読書して過ごしている自分と、日焼けするほど外で活動している江森とでは、まるで見る景色が違う。  外にいる者と、内に閉じこもっている者とじゃ会話さえ成立しないと思えるような、疎外感。クラスの誰かと接する際、伊織は毎回のようにそれを感じていた。  最初の内は歩み寄ろうと努力した。  だが無理だった。気づいた時にはもう、独り取り残されていた。やがて歩み寄ろうという気さえ起こらなくなった。  特別な用がなかったとしても気軽に話しかける。友達やクラスメイト相手にはできて当然のその行動が、いつの間にかできなくなっていた。否、しようとさえしない。周りはそれを敏感に察知する。だから、なおさら孤立していく。  いたい場所なんて、何処にもない。  分かりきったことを呟く心の声を無視しながら、伊織はカウンターの前に突っ立っている江森の目前に『手錠』を置いた。  「返却期限は二週間以内です。厳守して下さい」  「きびしーな。つか、なんで急に敬語なわけ?」  江森の問いかけも無視し、伊織は先ほど読み終えた本の返却手続きを始める。これ以上のやり取りは不要だと、彼は態度で示した。つもりだった、はずが。  「なあ、休み時間もう少しあるし、ちょっとここで読んでてもいいか?」  「……」  眉間にしわが寄るのが分かった。  江森は、相手の気持ちを察するということをしないようだ。  こんなことなら、頑として本を貸し出さなければよかった。そうすれば今頃は独りきりの静かな昼休みを取り戻せていたかもしれない。  後悔すれど、遅かった。  江森は伊織が返答しないことを一種の了承だと捉えたらしく、「サンキュー」と言いながら並べられている椅子の一つを引いた。椅子の足がぎぎぎぎと、不快な音を立てる。  さっそくページをめくる江森を横目に、伊織はそっとため息をついた。  追い出そうにも、できなくなってしまった。諦めるしかなさそうだと判断し、本を手に立ち上がる。ごく自然な動作で本棚へ歩み寄り、手持ちの本を元あった場所へと戻した。ついでに次に読もうと思っていた一冊を棚から抜き出し、カウンターに戻る。  「――なあ、ってなんだっけ?」  再び貸し出し手続きをしていると、江森が話しかけてきた。  妙に片言な部分は、伊織の頭の中では瞬時に〝索条痕〟と変換された。  「……縄とかロープでつけられた痕のことだろ」  「ああ、そっか。あんがと」  無視してやればよかったと気がついたのは答えを返した後だった。  相変わらずの軽い口調で伊織に礼を言うと、江森はまた手元の本へ視線を落とす。何やらぶつぶつと呟きながら読み進めているが、表情は真剣そのものだ。  「警察手帳の本物って、見たことあるか? あれって、もし失くしたらどうなるんだろうなー」  新しく借りた小説を読み始めて間もなく、何気ない口調で江森が言った。  後半は独り言のようにも思えたが、前半は明らかに問いかけだった。誰に向けられているのかは、考えるまでもなかった。  伊織は今度こそ、無視を決め込もうとした。目の前の本へ全意識を集中させようとする。けれど、何故か一文字も頭に入って来はしなかった。  「佐倉。聞いてる?」  「……知らないけど、何かしらの罰はあるんじゃないのか。懲戒処分とか」  「罰金じゃ済まないか。まあ、警官にとってそれだけ大事なものってことだよな」  一人で勝手に納得したらしい江森は、続きを読み始めた。わざわざ答えてやったことを後悔する。名字を呼ばれてしまっては、無視するわけにもいかなかったのだ。そうしたところで、きっと何度もしつこく声をかけてくるに違いないという漠然とした予感があった。  三度目はない。もし次があっても絶対に無視してやる。  固く心に誓った伊織だったが、それきり江森は口を開かなかった。  読書を続ける、ふりをしながら、その時が来るのを待ち構えているというのに。これではまるで、かまってもらえるのをこちらの方から待っているみたいではないか。  無性に腹が立った。その理由が分からない自分自身に、ますます苛立つ。  「なあ、アリバイってさぁ」  「しら――」  知らねぇよ。思いきり突き放した口調で言ってやろうとした声は、チャイムの音に掻き消された。  「やっべ。次体育だった、着がえねーと……!」  繰り返される八つの音が鳴り終わらない内に、江森が勢いよく立ち上がった。ガタガタと引かれ、机の下に押し戻される椅子の騒がしい音を呆気に取られながら伊織は聞いた。  「あっ。二週間以内、だったよな? それまでに返しに来るから。じゃあ」  またな、と言い残し江森は風のように颯爽と廊下を駆けて行った。  伊織一人が取り残された図書室は、また元の静けさに包まれた。  「……騒がしいやつ」  自らも立ち上がりながら、呟く。  口元がほころんでいるのが、自分でも不思議でならなかった。  独りきりじゃないのも、たまには悪くない。そう思うと苦笑がなおさら色濃く伊織の顔に広がった。

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