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第3話 動機

 二年A組、野球部の江森。この響きになんとなくおぼえがあった。  そんなことを思い出したのは放課後、グラウンドの前を通りかかった時だった。  土煙の上がる中、いくつかの体育会系の部活が練習に励んでいる。生徒たちでごった返している広いグラウンドの奥、金網で隔てられたそこに白いユニフォームに身を包んだ野球部員の姿が見えた。  他の生徒の邪魔にならないようにまわり道をしながら移動する。  歩きながら、この学校は学問よりもスポーツに力を入れているのだと思い出した。  なんせ適当に決めた進路だったため、候補に挙げた学校のそれぞれの特徴など伊織にとってはどうでもよく思い出す機会もなかったのだ。  殊更、野球の強豪校なことで有名であるという事実もついでに思い出した。  本当か嘘か、過去に甲子園大会でいい所まで行ったと校長が自慢げに話していた姿をかろうじて記憶していた。  カキンと、清々しい金属音がすぐ近くで聞こえる。  金網の向こうでは今、野球部員たちがバッティング練習をしていた。一人がボールを放り、それをバットが逃さず捉える。野球部の顧問らしき男が時々、鋭い声で何かを言うが野球の知識に乏しい伊織にはよく分からないものだった。  バッドを振っている部員の中に、江森の姿を見つけた。  一心不乱、という言葉が似合うくらい彼は少しも休まずボールを打ち返している。頬を伝い落ちていく汗が、日光を反射して光っていた。汗をかいているのはまわりの男子生徒らも同じだったが、伊織には江森が最も汗を飛び散らせているように見えた。  「ちょっと、。江森お前、俺に何時間ボール投げさせる気? 疲れを知らないの? 俺はただボール放ってるだけでも疲れてんだけど」  「はあ? まだそんなにやってねぇだろ」  「時間の感覚おかしいのかよ。いーから交代しろ。いくら四番まかされてるからって、力みすぎんなよ。故障したら今度の大会どうすんの」  「そん時は、で声かれるまでヤジ飛ばしてやる」  「いや、応援しろよ。普通に」  冗談を言い、仲間と笑い合っている江森は楽しそうだった。図書室で見たよりか、何倍も。  四番という一言で納得する。以前、クラスで唯一言葉を交わす男子生徒と世間話をしていて、プロ野球選手の話題になった時に話していた。「A組に、二年生で四番をまかされた江森っていう天才がいるらしい」と。何の興味もなかったから聞き流したはずが、記憶の片隅にかろうじて引っかかっていたらしい。  普段は他人へ関心を抱いたりなどしない。数少ない友人とはたまに話すが、伊織にとってそれは空き時間の暇つぶしや社交辞令に過ぎなかった。  一度、小耳に挟んだだけのことを覚えていて、うわさの本人をこうして眺めている。この暑い中、わざわざ人ごみの中を通って来てまで。  突然、言い知れない焦燥と恐怖に襲われた。  伊織は踵を返し、早足でその場から離れた。鼓動が激しく脈打っているから、途中からは駆け足になっていたのかもしれなかった。  「何、やってんだ」  校門を出たところで、伊織はやっと立ち止まった。すっかり息が上がっていた。肩を上下させて呼吸を整える。酸欠になったせいか、胸が苦しい。片手で胸の中心を押さえた。自分の体温が、驚くほど熱く思えた。  上がった息が正常に戻る前に、足は勝手に前へ進み出した。  まるで、逃げるように。  たった今起こしたいくつもの行動の意味が、自分でも何一つ理解できなかった。とにかく、頭を冷やして冷静になりたかった。  地下鉄の駅へ向かう途中にあった自動販売機で、ミネラルウォーターを買った。  一気に三分の一ほど中身を飲むと、やっと気持ちが落ち着いてきた。街のざわめきもちゃんと聞こえる。見失いかけた自分へ戻って来られたことに安堵の吐息を漏らす。  落ち着きはしたものの、まだ釈然としなかった。  自分でも何をしたかったのか、分からない。たった数十分だけ同じ教室で過ごしただけの男に、何故こんなにも興味を持ち、もう一度姿を見ようとしたのか。ペットボトルの水を飲み干すまで考えても、明確な理由が思いつかなかった。  だから伊織は、何もなかったことにした。  今日、昼休みはずっと独りきりで図書室で過ごした。クラスメイト以外とは、誰とも口をきいていない。そう思うことにした。  思い込みでもしないと、いつまでも同じことを考え続けてしまう。  そんな気がした。

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