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第4話 再会と誘い
伊織が次に江森を見かけたのは、八月の終盤だった。移動教室で音楽室へ向かう廊下で、すれ違った。それが彼だと気がついたのは、完全にすれ違ってからだった。
思わず振り返って見た江森は、左の腕に包帯を巻いていた。怪我でもしたのだろうか。手の平から手首にかけて巻かれた包帯の白色が、なんだか痛々しかった。
野球部が甲子園大会の二戦目で敗退したこと、四番で出場した江森が怪我をして帰って来たことを、伊織は風のうわさで知った。包帯で覆われていた位置を思い返すに、負傷したのは手首だろうとぼんやりと考えた。ひどい怪我でなければいいと本気で心配している自分が、やっぱり怖かった。
九月の半ばを過ぎると、残暑も和らぎ清々しい季候の日が続いた。
伊織は相変わらず、昼休みは毎日、図書室へ通っていた。委員の仕事も毎日のようにこなしていたが、江森の借りた本は一向に返却されなかった。二週間を過ぎても本が返されないことはよくある。委員に属している者としては、ちゃんと期限を守って欲しいと文句を言いたかったが、それだけのためにA組へ出向く気は起こらなかった。
五時限目は移動教室だった。いちいち教室へ戻るのも面倒で、伊織は次の授業で使う教科書や筆箱を手に図書室へ向かっていた。
「――お。久し振りだな」
背後からそう声をかけられ、肩に手を置かれた。
驚いてビクッと身体を反応させた衝撃で、持っていた筆箱を落とす。口を開けたままにしてあったせいで、中身が少しだけ飛び出て床に散らばってしまった。
「あー、悪い悪い。びっくりさせたか」
謝っているのに、悪いとは思っていないような口調。
江森は苦笑しながら床に落ちた消しゴムやペンを拾い始めた。持ち主である自分も拾わなければと思うが、どうしたことか金縛りにでもあったかのように身体が動かない。視線は、しゃがみ込んでいる江森の後ろ姿に釘づけになっていた。
手首にはもう白い包帯は見当たらなかった。怪我はよくなったのだろうか。
「ほい。多分これで全部だと思う。……佐倉?」
「え。あ……、ああ。ありがとう」
「俺のせいで落としたんだから、礼はいらねぇよ」
無邪気に笑ってみせた江森から、伊織は目をそらした。彼と初めて出会った時に見た光景が、頭の中によみがえりそうになる。
「……怪我、もう治ったのか」
「ん、違うクラスなのによく知ってんな」
「ろ、廊下で、手首に包帯巻いてるお前を見かけたんだよ。移動教室の時に」
「そうなのか。軽めの捻挫だったから、二週間ですっかりよくなった。今は部活に復帰できて一安心してたとこ」
「……そうか。よかった」
安堵から、思わず微笑んで言ってしまっていた。
すぐにはっとする。どうして、「よかった」などと口走ってしまったのか。
「あ、いや。じゃあ、俺は図書室に用があるから……」
「委員の仕事? 毎日だとしたら大変だな。俺も一緒に行っていいか?」
耳を疑った。丸くなった瞳を、今度は躊躇もなく江森へ向ける。
「先月借りた本、いい加減返さなきゃと思ってさ。返却期限、全く守れなくてごめんな」
手に持っていた小説を伊織に見せながら江森は言った。今回は少しだけ申し訳なさそうにしているように見え、すんなりと許してしまいそうになった。が、規則は規則だと心の中で言い聞かせてため息混じりにこう返す。
「期限を守らない奴はこの学校に大勢いる。だからもう気にするのはあきらめたよ。けど、次はなるべく守ってくれ。言っとくが、借りパクするのもだめだからな」
「それは分かってる。あっさり許してくれるなんて、佐倉は優しいんだな」
「なっ……」
顔面が熱を帯びていくのが分かった。鼓動が早鐘を打ち始める。
「……俺は別に、優しくなんか……ない」
歩き出しながら、伊織は江森がいるのとは反対の方へ顔をそむけた。
「ん? 照れてんのか? 佐倉って照れ屋?」
隣りをついてくる江森を見ずに「うるさいっ」と言い放つ。まだ顔は熱いままだった。小さく開かれた窓から入ってくる涼しい風は、この熱を冷ましてはくれなかった。
図書室までの道のりは、特に会話を交わさなかった。
返却手続きをする際に少しだけ話し、その後は各々、本棚に並べられた本を眺めたり、司書と会話をしたり、読書をしたりと落ち着いた昼休みを過ごした。この日の図書室も利用者は少なかった。
江森が次に読み出したのは、ミステリー小説だった。
またあれやこれやと用語についてたずねられるのではないかと危惧したが、前回のようにはならなかった。
その代わり、昼休みが終わる五分前に江森の方から話しかけてきた。
「佐倉、お前って野球に興味ある?」
即座に「ない」と答えた。江森はそれを予想していたらしく、短く笑い声を上げた。
「だよな。見るからに、スポーツには興味なさそうだもん」
「どうせ俺は運動神経が悪いインドア派さ」
「そこまでは言ってないだろ。――で、質問なんだけどさ、今日の放課後ってなんか予定ある? ひまなら、一緒にバッティングセンター行かね?」
本をつかむ手に力が入った。くしゃりと、親指の下で紙が音を立てる。
本は好きだし、大切だ。いつもの伊織ならば、真っ先にページがよれてしまっていないか確認しただろう。
だが、今はそれよりも早く、江森の顔を見上げていた。
「な。なんで俺が、お前と……?」
「部活に復帰できたのはいいんだけど、まだなんか本調子じゃなくってさ。秋の大会も一段落着いたことだし、今日は部活はサボってバッティングセンターで練習しようかなと思って」
「サボってって……、ちゃんと部活に出て練習すればいいだろ」
「そうなんだけどさぁ。ほら、今って三年生は部活に参加しなくなって一年と二年だけだろ? そうなると、二年の俺らは一年に色々と指導しなきゃいけなくなるんだよ。それがとにかく、面倒くさい。夏の大会終わってしばらくは怪我のせいでまともに練習に参加してなかったけど、治ったら一年の奴らがバッティング教えろってうるさくてさ。四番も楽じゃないよ」
「自慢とか、聞くだけ無駄なんだけど」
「違うって。とにかく、今日はサボりたい気分なの。どうせなら、誰かと一緒に街に出て遊びたいなって思ったんだ。それで、こうして誘ってるんだけど」
どうして俺なんだ。浮かんだ疑問は当然、相手にぶつけた。
「誘おうにも、他の奴らはみんな部活があるからな。帰宅部なのはって考えて、真っ先に思いついたのが佐倉だったからさ」
「……なんで俺が帰宅部だって知ってんの」
「え、知らないの? お前、クラスの一部の女子には密かに人気だぞ。色白で、きれいな顔してて、今やってる恋愛ドラマに出てる俳優みたいだって。帰宅部らしいって情報は、女子が話してるのを聞いて入手した。あいつら情報通で、たまにすげぇびっくりする」
江森の言う「びっくりする」は、多分、たいしたことのないものだろうと思った。少なくとも、今の伊織よりも驚いているはずはない。
女子から人気を集めているらしいという話よりも、伊織にとっては江森が自分のことを少しでも知っていて、少なからずの関心を抱いている様子であることの方がはるかに信じがたかった。それを尻込みもせずに態度へ出すところも真似できそうになかったが、これはただ単に己の方が不器用なだけなのだと伊織は自覚している。
「で、どう? もし佐倉も放課後はひまなんだったら、俺に付き合ってくれない?」
「…………」
視線を手元に落として、伊織はしばし考え込んだ。
動揺はしている。急な出来事に、先ほどからまた心臓の鳴るスピードが上がっていた。けれども、不思議とすぐに答えは出て、それをいつもの態度を崩さずに伝えることができた。
「いい、けど。でも俺、バッティングセンターなんか行ったことないから、使い方とかよく分からない」
「その辺は俺にまかせろ。行き慣れてるとこだから、作法は知ってるよ」
じゃあ、決まりだな。と笑みを見せる江森から、伊織は自然と目をそらしていた。
あまりに眩しい笑顔に、目が痛くなりそうだと思った。
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