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第5話 スイング
カキン。バットがボールを捉える澄んだ音がする。手にじんわりと残る衝撃を、今は清々しいとさえ感じた。
昼休みに誘いを受けてから約三時間後、伊織は江森とともにバッティングセンターへおとずれていた。江森の行きつけだというそこは、学校から二駅だけ隣りにあった。地下鉄に乗ると、あっという間に着いてしまう近距離だ。
バイト先へは、放課後になって間もなく連絡をし休みをもらった。理由は、体調不良。嘘をつくのは久し振りだったが、罪悪感はあまりなかった。
「佐倉って飲み込み早いなー。もうしっかりバットに球、当てられるようになってきてんじゃん」
緑色のネットの向こう側から、江森が称賛の言葉をかけてくる。
少なくとも十球はまともにバッドで捉えられずに空振りした。八十キロの球でさえ、素人の伊織には打ち返すのが難しい。
けれど、褒められて悪い気はしなかった。
「次、百キロ行こうぜ百キロ」
「まだ八十キロも上手く打てないのに、無理だって」
「やってみなくちゃ分かんないだろー。案外、速い球の方が向いてるってこともあるかもしんないじゃん」
最初は俺がお手本を見せるからと、江森はネットの向こう側へ入っていく。
彼の腕前は、なかなかのものだった。八十キロはほんの肩慣らしといった具合で、百キロでさえ軽々と打ち返してみせた。機械から放たれた白球は全てが打ち返され、前方へ高く、きれいな弧を描いて飛んでいった。
「こんなもんかな。よし、次は佐倉の番な」
江森が、持っていたバットを差し出してくる。仕方なしに受け取って、伊織はネットをくぐった。
結果は全球、空振りに終わった。
ボールが当たりはしなくても、バッドを振りまわしているだけで息が上がる。体育の授業以外の運動は全くしてこなかったから、当然と言えばそうなのだろう。
「うーん。佐倉の打ち方、悪くないんだけどもうちょっと改善できそうなんだよな。もう少しだけ腰を落として、あとほんの気持ちだけ力を抜いて振ってみて」
バットを杖代わりにして休んでいると、江森からそんな指示を出された。
やはり仕方なしに渋々、伊織は言われた通りの姿勢でバットを振る。が、それを見ても江森は納得できないというように唸った。
「なんか違うなぁ。……ちょっと待って」
江森がネットの向こう側からこちらへ入ってくる。
伊織は何故か無性に、逃げたくなった。けれど逃げ場などなかった。
「言葉で説明するのって、難しいんだよな。バット構えて立ってみて」
言いなりになる。
すると、背後から江森の手が伸びてきて自分の腕に重なるように触れてきた。
身体が強張る。心なしか、呼吸が苦しい。
「バットと身体の位置は……そう、こんくらい。脇は締めすぎないように注意な。あとはもう少しだけ腰を落とせば、って佐倉。硬くなりすぎ、肩の力抜けよ」
「え、あ……ああ」
後輩に教えるのは面倒だという割りに、江森は教育熱心なようだった。野球の経験がなく、そしてこれからも実践に挑むことはないと分かりきっている伊織にでさえここまで真剣になるくらいだ。
彼の後輩が、少しだけうらやましく思えた。
「じゃ、今教えた感じで打ってみて」
投球のスタートボタンを押し、江森は場外へ出て行った。
赤くなった顔を見られないよう前を向いたままで伊織はうなずいた。
二球目が、バットに当たった。八十キロを打った時よりも強い衝撃が腕に残る。
「佐倉、その調子」
後ろから聞こえた江森の声は、楽しそうだった。
「……疲れた」
休憩スペースの椅子に座り、うなだれる。全身に重だるい疲労感がのしかかっている。きっと明日は、身体のあちこちが筋肉痛で悲鳴を上げるだろうなとぼんやり考えた。
「お疲れさん。八十キロを打ち始めた頃よりは、だいぶ上達したな」
隣りに座った江森は、伊織にスポーツドリンクを差し出してきた。心では受け取るべきか迷ったが、手は自然とペットボトルに伸びていた。一時間は身体を動かしていた。そのせいでひどく喉が渇いていたのだ。
「……江森の教え方が上手かったおかげだよ。一年にもちゃんと教えたら、きっと全員バッティングが上手くなると思う」
「はは。そうやっておだてて、俺をちゃんと部活に参加させる気だろ」
「自分が得た技術を後輩に教えるのが、先輩としての役目だろ。面倒くさがらないで、ちゃんと教えてあげたら」
「面倒にも思うよ。あいつら、基本はすっ飛ばして生意気に難しいことからやりたがるんだから。野球は基礎が大事なんだっつーの。入部したての頃に監督からあれほど指導されたのにまだ分かってない奴が多いんだよな」
「……熱血だな、江森は」
小さく返しながら、笑みがこぼれた。
直後、隣りでペットボトルをあおっていた江森が急にせわしなく動いた。何事かと視線を向けると、彼は丸められた瞳を伊織に向けていた。
こんなにも近くで目が合うなんて。また身体が強張る。
「な、何っ」
「いや……、佐倉が笑ったから」
「は? 俺だって笑うよ、人間なんだから」
「そう、だけど。今まで全然笑わなかったじゃん。だからびっくりした」
「まるで飼い犬が口をきいたかのように驚かれてもなぁ」
「そっちは驚くっていうより、むしろビビるわ」
江森が声を上げて笑った。それにつられて、伊織も笑みを浮かべる。
心の底から、楽しいと感じた。
こんな風に誰かと笑い合う時間を、楽しいと思う。誰もが日々、当たり前に過ごしてはいずれ忘れていく何気ないワンシーン。
伊織はそれを久し振りに体験し、そしていつまでもおぼえていたいと思った。
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