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第6話 夢の時間

 ただいま、と言ってもおかえりと返す者はいなかった。  鍵を通学カバンの中にしまい、伊織は真っ先に二階へ続く階段へ歩を進めた。養父は昼間は働きに出ていて、遅くまで戻らない日も多い。養母は最近になって近くのホームセンターでパートを始めた。きっと自分と顔を合わせる時間を少しでも減らしたいからだろうと、伊織は察した。  決まって夕方には帰宅している養母だが、今日はまだ帰ってきていないようだ。  養父母からは引き取られて間もなく合鍵を渡された。さも仕方なしに、といった態度だったのを覚えている。絶対に無くすなと語気を強めた言い方が今でも耳に残っていた。  自室として与えられている物置部屋へ入ると、カバンをベッドの上に放り着がえ一式を持って階下へ降りる。  秋らしい季節になってきて外を歩いていても涼しいが、先ほど運動して汗をかいたせいで肌がべたついていた。浴槽には湯が張られる前だった。少し肌寒い気もしたが、伊織はシャワーで済ませることにした。  頭を洗いながら、今日一日の様子を回想した。  そのほとんどが江森のことだった。突然の再開には驚くとともに、内心、舞い上がっていた。廊下で声をかけられた時は、まさか彼から遊びに誘われるとは想像もしていなかったが。  楽しそうにしていた江森の姿を思い出すと、自然と口元が緩む。  一緒の時間を過ごし笑い合えたことが、何より嬉しかった。ずっとこうしていたいとさえ思った。触れ合える距離でなくとも、近くにいて話ができて、たまに笑顔が見られる。そんなひと時が永遠に続くのなら、どんなにか幸せだろう。  夢見心地になりながら身体を洗い始める。  腕に触れた瞬間、昼間に見たものが伊織の頭の中を支配した。  いや、見ただけではない。正確には、見て、聞いて、そして感じたものだ。  今、目にしている己の腕に、江森の手が重なる。もちろん錯覚であり、幻だ。けれども記憶はあまりに鮮明だった。  あの時触れた大きな手の平の感触。肌が持っていた熱。  背後から聞こえた江森の声。  まるで、抱きしめられているみたいだった。  うっとりと思い返していると、身体の一部分が妙に熱を持ち始めた。我に返った時にはもう、欲望は形となってあらわれていた。  「っ、なんでっ……」  風呂場に反響した声は困惑していたが、そこには微かな切望も滲んでいた。  伊織は、この時になってようやく理解した。江森へ抱いていた淡い関心の正体を。いや、本当はもっと前から知っていた。けれど気づかないふりをしていた。  自覚してしまうのが、何かとてつもなく恐ろしいことのように感じられた。  佐倉もこういうこと、するんだな――。  脳内で勝手に映像が流れ始める。聞こえたのは確かに江森の声だった。  だが、本物じゃない。偽物だ。ただの幻想。こうなったらいいのにという願望も混じった、自分が作り出した産物。  そんなものにさえ、伊織はぶるりと身を震わせた。  あとはもう、止まらなかった。  無意識に発する吐息は熱く、抑えようとしても度々、浴室内に響いた。途中からはそれにも悠長にかまっていられなくなっていく。目の前の欲望を満たすことに必死で、他には何も考えられなかった。  あの手の平にもっと触れられたい。自分とは比べものにならないほどに太くたくましい腕に、抱きしめられたい。  望みを頭の中で()にし、音にする。  夢の中で好きな男に抱かれながら、伊織は一人、風呂場で果てた。  後には身を切るような寂しさと、虚無感だけが残った。

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