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第7話 精一杯の嘘

 「へえ。佐倉、アルバイトしてるのか」  眠る前に、伊織はバッティングセンターで江森と交わした会話を思い出していた。  そういえば、二人が初めて顔を合わせるきっかけとなった進路調査票は、その後どのように記入して提出したのか。そのような話から、やがて話題は進路のことへ移っていった。    江森は結局、進学の欄に印をつけた後、志望校は適当な学校名を書いたと笑って言った。当然、本人は本気で書いたわけではなく、その場しのぎとして行ったことらしい。  一方、伊織はとりあえず就職の欄に印をつけた。  進学という考えなど、初めからなかった。したくても、できないことは分かっていた。江森にどうして進学しないんだと聞かれ、少し考えてから伊織は「家にお金がないから」と答えた。嘘ではない。養父母との暮らしは恵まれている方だったが、伊織が使える金などこの家には一円もなかった。  そんなことを、口に出さずとも考えていたせいか、アルバイトをしている旨を何の気なしに江森に話してしまった。  「えらいな。じゃあ、バイトしてもらった金は貯めてんのか?」  「うん。って言っても、口座とか持ってないから、部屋の一角に隠してあるってだけなんだけど」  「隠すって……、家族に盗まれでもすんのか。どんな家だよ」  「…………」  家族。そんなもの、今の自分にはない。  四年間、衣食住を与えられているだけ、ありがたいとは思っている。そこにほんのわずかな親しみも、愛情も、こもってはいないとしても。  あるとすれば、疎ましいという感情くらいのものだろう。  養父母とは、引き取られた初日から必要最低限の会話しか交わしていない。  彼らの一人息子とは、養父母以上に話すこともあった。が、その内容にも、温かさなどまるでなかった。  暗い部屋の中、密やかに話しかけてくる男の声。無遠慮に触れてくる、手。  「佐倉」  苗字を呼ばれ、我に返る。隣りで江森が心配そうにこちらを見ていた。  家の中では決して向けられることのない優しい眼差し。彼はそれを、出逢って間もないはずの伊織にさえ向けてくれた。  「どうした? ひょっとして俺、なんか言っちゃまずいこと言った……?」  「……いや。なんでもない。ちょっと疲れただけだから」  心配してくれたことが、素直に嬉しかった。  同時にこれ以上、江森に心配をかけたくないという矛盾した気持ちも湧き起こった。どちらの方がより大きいのか考えて、結局は後者を取ることにした。  「盗むだなんて、俺の家族はそんなことはしないよ」  伊織は精一杯の嘘をついた。誰のためでもなく、自分のために、存在するはずのないをでっち上げた。  「そっか。そりゃそうだよな。家族だもんな。で、何処でバイトしてんの?」  「……聞いてどうするんだよ。何、江森が店の常連になってくれるの?」  「ってことは、飲食関係とか?」  「そう……だけど」  「ビンゴか。でもなぁ……、常連になるのはさすがに難しいわ。俺も貧乏だからさ。部活が忙しくない時期に短期でバイトやろうかなって、今真剣に考えてるとこ」  「ここのバッティングセンターで雇ってもらえたりしないかな」  「無理無理。こんなとこ、従業員雇えるほども稼げてないって」  思い切り苦笑しながら大声で言ったのが悪かったらしい。料金所のカウンターの方から、年配の男のわざとらしい咳払いが聞こえてきた。「じょ、冗談っすよ!」とあわててカウンターの方へ声を張り上げる江森を見て、伊織は声を出して笑った。  「でもまあ、なるべく好きなとこで働きたいかな。佐倉はどんな店で働いてんの? あ、別に場所まで言わなくてもいいから、店の雰囲気とか教えてよ」  「喫茶店。そこで皿洗いとか清掃とかやってる。店内は静かで落ち着けるし、いつもクラシックとかジャズとか洒落た音楽がかかってるから居心地はいい」  「へー、いいバイト先だな。なぁ、手が足りてないとかない? なんだったら俺も、」  「間に合ってるよ。個人経営の店だから、あんまり人雇えないみたいだし」  「なんだ、そっか。それは残念だ」    さして残念そうもなく、江森は肩をすくめた。  バイト先の手が足りなかったところで、江森と同じ店で働くなどごめんだった。半日を過ごすだけでも心臓が持たないだろう。  それに、江森には喫茶店という場所が似合うとはとても思えなかった。  男らしい見た目の彼には、肉体労働をする仕事の方が似合いそうだ。きっとかっこいいのだろうと、額に汗を光らせて動きまわる江森の姿を想像しながら伊織は思った。  「佐倉のバイトって、週休二日制?」  「いや、休みは店が定休日の木曜日だけだよ」  「え、一日だけ?! よく身体もつな、細っこいのに」  「余計なお世話だ」  空になったペットボトルを、伊織はゴミ箱めがけて投げた。見事に外れ、ペットボトルは乾いた音を立てて床に転がった。  「木曜日か……」  重い腰を上げてペットボトルを拾い上げる伊織の背後で、何やら江森が神妙な声で呟いている。  「じゃあさ。来週の木曜、また一緒にここへ来ねぇ?」  カコンと、何かが落下する音がした。  伊織は即座に江森を振り返った。そこには相変わらず、いたずらっ子の笑顔がある。きっと、彼には怖いものなど何もないのだろう。容易くそう思わせる笑顔。  「来ねぇ、って。俺が、江森と……?」  「他に誰がいんの。そうに決まってんじゃん」  分かりきったことを聞いてしまい苦々しい気持ちになった。  けれど、思わず確認せずにはいられないほど、伊織にとっては信じがたい言葉だったのだ。  顔がまた熱を持つ。  不思議なことに今度は頬や耳ではなく、目頭が熱かった。  「あー、いや。別に無理にとは言わないよ。せっかくの休みだもんな、佐倉もちゃんと休んでおきたいよな」  「いいの、か……?」  「へ?」  「また、……江森と一緒にここに来ても、いいの?」  うつむいて、泣くのだけは何とかこらえた。頬筋に力が入り、痛い。無表情を保つのでさえやっとだった。  逃げ出したい、江森の前から。  けれど、逃げ出すよりもまず、問いかけに対する答えを聞きたかった。  「うん、いい……んだけど? っていうか、俺の方から問いかけたのにまた問いが返ってくるってどういうこと」  「ご、ごめん。ちょっと……信じられなかったっていうか」  「俺ってそんなに冗談ばっかり言うような人間じゃないけどなぁ。――で、佐倉の答え、まだ聞いてないんだけど」  「ああ……。俺でよければ、いいよ」  「よっし。これでまた来週、一日は練習サボれるぜ」  ガッツポーズをする江森の隣りへ戻り、伊織は「サボるのはだめだろ」とたしなめた。呆れた風を装いながら、内心では歓喜していた。  その時の心情を思い返しながら、伊織はベッドから身を起こして机の上に置かれた目覚まし時計に目をやった。この家へ来る以前から使っていたもので買ってから十五年は経っているはずだが、まだ壊れずに動き続けている。  時計の針は夜中の一時をまわったところだった。  日付は変わって、今日は土曜日だ。昼前からバイトのシフトが入っている。起きて朝食を食べたらすぐに家を出て、喫茶店の近くにある本屋ででも時間をつぶそうと漠然と考える。  野球の本でも立ち読みしようか。  江森と約束した日まで、まだ五日はある。  分かってはいても、気持ちが高ぶって今夜は眠れそうになかった。

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