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第8話 落ちる

 待ちわびていることがあると、時間の流れが嫌に遅く感じられる。  伊織は土日をバイトに費やし、平日は普段通り学校で授業を受けて昼休みを図書室で過ごした。何も変わらない生活のようにまわりからは見えていただろうが、彼の心情は大きく変化しつつあった。  火曜日の夜。バイトから帰る途中で書店に立ち寄り、本を一冊買った。  高校野球を題材にした青春小説だ。土曜日にひまつぶしで立ち寄った本屋で目について、気になっていたものだった。できることなら出費をしたくはなかったが、図書室で探しても見当たらなかったので仕方がなかった。まさか立ち読みで一冊読破するわけにもいかない。  スポーツにはこれまで何一つ関心を示したことはなかったが、存外、読み始めてみると面白く野球に興味が出てきた。これまで目にすることも少なかった専門用語を読んでいると、少しだけ野球の知識が身についたような気がした。  江森と同じ境地へ達することはできないが、彼が好きな野球のことを少しでも知れて嬉しかった。  「なあ、佐倉って彼女いる?」  約束の木曜日。江森は昼休みに図書室へやって来た。先週おとずれた時に借りていったミステリー小説が自分にはあまり合わなかったからと返却しに来たのだ。  問いかけられたのは、あまりに唐突で、あまりに脈絡の感じられないものだった。  「……いない、けど」  好きな人ならいる。そんな余計な一言をつい、つけ加えてしまいそうになった。友達とさえ言えない関係だが、江森ならば無遠慮に詮索してくるに違いない。  「そうなんだ、意外。きれいな顔と声してるから、女子からモテそうなのに」  「別に、女の子からモテたいとも思わないし」  「声かけられたりしねぇの?」  「しない。というか、クラスメイトともあまりしゃべんない」  「大人し過ぎんだろ。もっと前に出てみたら」  当たり障りのない返答をしながら、伊織は別のことを考えていた。  きれいな顔と声してる――。  そこだけを切り取ったように、江森の声が頭の内で反響していた。しつこい耳鳴りのように、しばらく消えてくれなかった。  誰かに褒められて、これほど落ち着かない気持ちになったことはなかった。  好きな人から褒められるとまた格別だということを伊織は知った。  「やっぱ俺、佐倉とは正反対だなー。もうちょっと落ち着きなよって、彼女からもよく言われる」  「えっ……」  周りの音が、聞こえなくなった。    足元が崩れ落ちるような錯覚。一瞬にして全身の体温が奪われていくような、妙な感覚に支配される。  ぐらぐらと視界が揺れた。  まるで壊れかけて不安定に揺れるつり橋の上を歩いているようだ。一歩でも足を踏み外せば最後、暗く深い谷底へと真っ逆さまに落ちていく。  顔を上げることが、できなかった。  相手の様子を窺う、そんな簡単なことが、今はできない。  「……、彼女、いたんだ」  「これが生意気なやつでさぁ。六月くらいだったかな、廊下で話してたらさ突然、俺の落ち着きのなさを指摘してきて。さらには廊下を歩いてた一人を指さして言うんだぜ。『ほら、あのC組の佐倉って男子を見習いなよ。ああいうのが男子高校生の(かがみ)だと思うのよね』って。自分の彼氏を他人と比べるなんて、ひどいよなー。それでもお前は俺の彼女かっつーの」  心底、呆れたような声で江森が続けた。彼にしてみれば、惚気《のろけ》話をしているつもりなどなかったのだろう。だが、それは伊織を追い詰めるには充分すぎるくらいに、鋭く、重みを含んだものだった。  心の何処かでは、薄々だけれど感じていた。  そうなのだ。いない方がおかしい。  優しくて、無邪気に明るくて、いつも自分の夢にまっすぐで。こんなにも素敵なのだから。その彼に、異性が寄りつかないわけがない。  同性である自分でさえ、どうしようもなく惹かれてしまうくらいなのだから。  でも何故。よりにもよって今日この日に、それを知ることになってしまったのか。  江森のせいだと思った。毎日、何をしていても彼のことを考えてしまうのは。そして今、胸が締めつけられているように苦しくて、苦し過ぎて、涙が溢れそうになっているのは。  「あっ、いや! 佐倉のことを悪く言ってんじゃないからなっ。気を悪くしたなら謝る。ごめん」  微かに肩が震えていたのを見て、江森は伊織が憤っていると早とちりしたようだ。  何も言わずに、首を横に振る。言葉にすると、声が震えてしまいそうだった。だが、それだけでは伝わらなかったらしく江森は「え。今のって許してくれたの、それともまだ怒ってる?」と困惑を口にした。  「怒ってないし、気を悪くもしてないよ」  今にも泣き出しそうな心境だというのに、気づけば妙に冷静な口調で答えていた。  傷ついた時でさえそれをまわりに悟らせまいと振る舞う己の器用さが、伊織は大嫌いだった。この時は、今すぐにこの世から消えてしまいたいとすら思った。  大げさに胸を撫で下ろしている江森の横顔が、かすんで見えた。

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