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第9話 ホームラン

  「ねえ。ホームランって、打ったことあるの?」  幼い子供をつれた母親が、子供の小さな手に自分の手を重ねてバッドの振り方を教えている。七十キロのバッターボックスの様子を眺めながら、伊織は隣りに座る江森へ問いかけた。  今回、江森は金属バットを持参していた。高校に入学した際、入学祝いとして親戚からもらったものだと、つい先ほど聞かされたばかりだった。  「それはここでの話? それとも試合での話?」  「ここでって意味で聞いたつもりだったけど……。試合で打ったこともあるのか?」  「そりゃあ、何本かはな。これでも四番ですからねぇ」  「……そういえば、そうだったな」  「忘れてんのかよっ。我が高校の野球部員の中では一番有名人だと思ってるけど」  そして一番モテる。布でバットを拭きながら江森はにやりと笑ってつけ足した。自分で言うなよと、伊織は彼の横顔を思いきり睨みつけてやった。  江森に彼女がいると知り、午後からの授業も頭に入らないほどしばらく惚けてしまっていた。あんなに四六時中、彼のことを考えていたというのに、相手がいると知った途端、伊織は江森と接するのが嫌になった。いっそのこと、この日の約束もすっぽかしてしまおうかとさえ考えたくらいだ。それでも今、江森とこうしてここにいて平然としていられる自分自身が、なおさらみじめで嫌な奴に思えた。  これで最後だと決めていた。  江森とはもう二度と、外で逢わない。できれば校内でも顔を合わせたくなかったが、同じ学校に通っている手前それは難しいだろうと早々にあきらめた。その代わり、江森の方から話しかけてきてもいつも通りか、いつも以上に素っ気なく接しようと固く心に誓った。  もう、傷つくのはごめんだった。  せめて今だけ、日が暮れて江森と別れるまでの間だけは楽しみたい。嫌なことなど全て忘れて、好きな人と過ごす貴重な時間を満喫したい。  気兼ねなく江森と会話できるのもこれが最後だと思い、伊織は彼に色々なことをたずねた。  「じゃあ、このバッティングセンターでホームランを打ったことも、もちろんあるってわけだな」  「あるよ。ほら、あそこの的に当てるんだ」  江森はネットの向こう側、バッターボックスの前方を指さした。  ピッチングマシンが置いてある側、ネットが張られた壁の高い位置に「ホームラン」と書かれた標的が吊るされていた。江森の話では、的にボールを当てると何か景品がもらえるのだそうだ。  「景品って、どんなのもらえるの?」  「たいそうなものはないけど……、缶ジュース一、二本とか、次来た時に使える回数券とかだな。常連になってたくさん打ったら図書カードとか、バットとかそれなりにいいものもらえるよ。あと写真撮ってもらって、壁に張り出される」  「江森は、年に何本くらい打ったことあるんだ?」  「いった時で、三十本かな。そん時は割といい値のバットもらえて、嬉しかったっけ」  今も大事にとってあるんだぜと、江森は自慢げに笑ってみせた。そんな彼が、やはり伊織にはまばゆく見えた。  「よしっ。手入れも終わったし、やるかー。佐倉は何キロ行く?」  「……俺はまた、八十キロからやり直すよ」  「そっか。んじゃ、こないだ俺が教えたこと思い出しながら打ってみろ。おまえなら少し通えばホームランも打てるようになると思う」  「そんなの、夢のまた夢だよ」  「夢じゃないって。佐倉ならできるさ」  笑いかけられ、伊織は江森から目をそらした。頬が熱くなってくる。彼に言われると、なんだか本当にできる気がしてくるから不思議だ。  「……俺、江森がホームラン打つとこ、見てみたい」  ネット越しの背中に、呟く。  周りが騒がしい上に普段より小さな声だったが、江森はこちらを振り返った。伊織はうつむいた顔を上げなかった。見なくても、目の裏に江森の拍子抜けした顔が浮かぶようだった。  「……、……分かった。じゃあ今日はホームラン狙うわ」  江森はいつだって、伊織の予想とは異なった反応を返してきた。  それがいい意味でも、悪い意味でも。そのあたりも、江森の数ある魅力の内の一つに違いなかった。  意外から丸く開かれた瞳に、微笑を浮かべた同い年の男の顔が映る。  恋焦がれた人の優しい微笑みを前にして、昼休みが終わる直前の図書室ではこらえたはずの涙が、何故か今になって再び込み上げてきそうだった。

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