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第10話 残り二球

 楽しい時はあっという間に過ぎた。  カウンター上部にかけられた時計が、七時過ぎを示していた。およそ三時間近くは店にいる計算になる。    家には少しだけ遅くなると断りを入れておいた。受話器の向こうからは、素っ気ない二つ返事が聞こえた。もう聞き慣れたものだった。  「江森。そろそろ帰った方がいいんじゃないか? 制服姿であまり遅くまで遊んでたら、店の人に注意されるかも」  「まだ、あともうちょっとだけ」  合間に三十分程度の休憩をしただけで、江森はそれ以外バッターボックスから動かなかった。いくら通っていて回数券を何枚も持っているとはいえ、出費はかさんでいく。伊織はこれまでに二度は江森に声をかけた。それでも頑としてバッドを振り続けるばかりで、埒が明かなかった。    野球部員で体力はあるものの、江森はバッティングをやり始めた頃と比べて明らかに疲れていた。店内は涼しいというのに汗だくで、心なしか息も上がっているようだ。  「……ごめん江森。もう、いいよ」  「なんで佐倉が謝ん、のっ」  球を打ち返しながら江森が応答する。  「俺が、ホームラン打つとこ見てみたいなんて言ったから、引き下がれなくなったんだろ。でも、もういいから」  「よくない。俺はまだ満足してない」  「江森は優しいから、だから俺の期待に応えようとしてくれて」  「そんなんじゃないよ。俺はただ、自分のやりたいようにしてるだけ」  バットを構え直しながらやや早口で言った時、息が弾んでいた。  ほぼ毎日、日が暮れるまで部活の練習に打ち込んで、ただでさえ疲れているというのに。伊織とバッティングセンターへおとずれたのも、本来は部活をサボる目的からだったはずだ。これではサボるどころか、さらに自分を追い込んでしまっている。  俺のせいだ、と伊織は思った。  江森をここまでむきにさせたのも、彼には相手がいると知った時に耐えられないくらいに胸が苦しくなったのも、全て自分のせい。  それだけではない。  両親が死んだのも、冷たい家庭に引き取られたのも、自分が招いた結果なのだ。不幸な過去は、変えることなどできない。  だからせめて、目の前のことだけは変えなければ。  緑色のネットをつかみ、(くぐ)り抜ける。外から見ていた時よりも、江森の息遣いが間近に聞こえた。  伊織はバットを持つ江森の手に触れた。  自分の手よりも硬くて、大きかった。  「もういいよ、江森」  「なっ、入ってくるな! 危な――」  怒声に気を取られていた瞬間。ふいに、強い力で腕を引っ張られた。  ボスッという音が、背後でした。次いで、白い軟式のボールが地面に跳ね返って小さく弾むのを目の端に見た。  「この馬鹿っ、ピッチングマシンが動いてる時にど真ん中に立つとか、怪我したいのかよ……!?」  「え……、ああ、そうか。ごめん」  「いくら軟式でも、百キロは出てるんだぞ。当たったらどうなるか分かるだろっ」  早口でまくし立てる江森の声を、伊織は半ば上の空で聞いていた。  まだつかまれたままの腕に、微かな痛みを感じた。だがそれ以上に、これまでにないほど江森と距離が近いことの方が、伊織にはよほど耐えがたかった。  少し背伸びすれば、相手の唇に容易く自分の唇を重ねられるくらいに、近い。  とても江森の顔を見上げる勇気などはなく、伊織は彼の肩の辺りへ視線を落としていた。白いシャツをまとった江森の肩は、外側へ緩やかに下がっている。きれいななで肩に触れてみたいとさえ思った己は、危機感というものがすっかり薄れてしまっているのだろう。  たとえ硬式のボールが頭に当たって死んだとしても、悔いはないだろうと思った。  いっそ今ここで、江森の傍で息絶えられるのなら、その方がしあわせかもしれないとすら考えた。  「おい佐倉、聞いてんのか」  「……ごめん。俺はただ、江森を止めないとって思って、そこまで気がまわらなかった」  近くで、大きなため息を聞いた。江森のなで肩がさらに下がるのを伊織は見た。  呆れられたのだろうか。それとも、失望させたか。どちらでも構わない。相手に何と思われようと言われようと、関係ない。  もう俺は、江森の言葉や態度にいちいち落胆したりしない――。  「分かったよ。あと十球打ってみて、だめだったら今日はあきらめる。だめだったらその代わり、また来週つき合えよな。こうなったら、意地でも佐倉にホームラン打つとこ見せねぇと俺の気が済まない」  伊織は何も答えず、またうなずくこともしなかった。  次は、もうないよ。心の内でそう呟いていた。  「じゃ、ラスト十球。佐倉は外、出てて。もう二度とピッチングマシンが稼働してる時にバッターボックスに入るような真似、すんなよ? 今度は本当に怪我すんぞ」  「……うん」  大人しくネットをくぐる伊織を確認した後で、江森は投球をスタートさせた。  すぐに五球が打ち返された。だがそのいずれも高くは飛ぶものの、的に当たりはしなかった。  伊織は期待せずに様子を見守った。江森を信じていないわけではない。常日頃から、何に対しても期待など抱かない性質(たち)になってしまったのだ。だから進路調査票を配られた時も、一応は自分の将来を想像してみたものの、そこに何の期待も希望も湧いてなどこなかった。  進路が未定という点は自分と同じはずなのに、適当な未来を思い描いて笑っていられる江森を、伊織は不思議に感じた。  そうして、やはり江森とは住む世界が違うのだろうと思い至った。  彼には野球がある。才能もある。夢だってあるだろう。伊織には持っていないものを、たくさん持っている。どれだけ憧れたとしても、違う世界に一人取り残されている伊織には、手が届かない存在。先ほどあれだけの近距離にいたのに。少し腕を伸ばせばその顔に、その手に触れられたはずなのに。  でもきっと、どうやったって彼の心には触れられない。  そんなの分かりきっていた。だから、期待するだけ無駄なのだと心に言い聞かせる。何よりも脆くて崩れやすいと知っている自分自身の心を守るためだった。  「ああ、くそっ。いい加減にしろよ、俺っ……!」  忌々し気に江森が呟いた直後。  彼の振ったバットがしっかりと白球を捉えた。球は今まで以上に、高く高く飛んでいく。  ガンッ。  何か硬いもの同士がぶつかる音がしたかと思うと、遠くから音楽のようなものが聞こえてきた。  「当たった……」  呆然と、伊織は呟いた。その瞬間は、両方の目でしっかりと見ていた。  「九球目……、あっぶねぇ。あと一球で終わってた」  江森は喜ぶどころか、責任感から解放されて脱力していた。彼がいかにこのバッティングセンターへ通い詰めていてホームランを打ち慣れているかが分かる。  「ホームラン打った時って、あんな音が鳴るんだな……」  「って! 今の見て最初の感想がそれかよっ!」  勢いよくこちらへ顔を向けて突っ込んだ江森に、伊織はたまらず噴き出した。

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