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第11話 大嫌いと大好き
「今ので今年、二十球目のホームランだな。君、この中から好きな景品を選んで」
カウンター近くの壁に貼られた紙を指さして、店員の男性が穏やかな口調で江森へ言った。通っているということは、彼らは互いに見知った関係なのだろう。
伊織は景品のリストを眺めた。「二十球」と書かれた横に、三種類の景品名が載っている。三千円分の地域商品券、同額の図書カード、それからこのバッティングセンターで使える回数券とスポーツタオルのセットのようだ。
江森が選ぶなら回数券が妥当だろうかと、ぼんやりと思う。
「なあ。もし佐倉なら、どれを選ぶ?」
「……俺?」
何故そんなことを聞くのかと目を瞬く。
出会って間もないから仕方ないのだろうが、伊織は時々、江森の起こす言動の意味がよく分からない。
単純に、思い浮かんだ疑問をぶつけると、「たとえばの話」という短い答えが返ってきた。たとえを聞いたところでどうするのだろうと、伊織はますます首をひねりたくなった。
「特に、欲しいものはないけど」
「おい。店の人の前でよく言えるな、それ」
「だって俺がホームランを打ったわけじゃないから」
「じゃあ、佐倉がホームラン打ったらどれをもらう?」
「……俺はホームランなんて打てないって」
「だから! たとえばの話だってば!」
どうしてそこまで江森がたとえにこだわるのか、理解できなかった。
伊織はちゃんとした答えは返さずに「早く選んだら」と急かした。つい素っ気ない声が出てしまったのは、これでもうすぐ江森と別れなければいけないと実感し、寂しくなったからだ。
未練は残したくなかった。だから別れ際は精一杯、心を殺すつもりでいた。
好きだなんて言わない。江森のことは忘れる。最初から出会わなかったものと思って、気持ちを切り替えろ。
心が哀しみに支配されない内にと、強く言い聞かせる。
「君の友達は、君と違ってクールだな」
「おじさん、俺と違っては余計」
大げさにため息をついてみせた後、江森は「んじゃ、図書カード下さい」と店員に言った。小さな紙の封筒のようなものに入れられたカードを受け取ると礼を言い、伊織の肩を拳で軽く叩く。
「帰ろうか」
「……、……うん」
答えた声は、自分でも分かるほどに暗く沈んでいた。
「あー……。さすがにろくな休憩も取らないで打ちっぱなしは疲れたわ」
バッティングセンターを後にしてすぐ、江森が首と腕を大きくまわしながら嘆息した。どちらともゴキゴキと鳴るのが隣りを歩く伊織にも分かった。
外はとっくに日が暮れ、夜になっていた。
暗い分、街の灯りが目に眩しく、キラキラと輝いている。まるで隣りの男が放つ輝きに似ているようだと思った。
「で、俺のホームランを見てどうだった」
「どうって?」
「え、なんかあるだろ。本当に打てるんだーとか、さすが江森だなとか。まさか、さっきのアレで終わりなわけないよな?」
「的にボールが当たった時の音? 初めて聞いたよ」
「人にホームランねだっといて、抱く感想がそれなわけ!? もっと何かないのかよっ?!」
また笑い出す伊織を見て、江森は「あんなに頑張って損したー」と肩を落とす。あまりにも残念そうな様子が、伊織の笑いのツボをさらに刺激した。そんなに笑うなよと江森に怒られても、まだ笑い続けた。
こんなにもたくさん笑ったのは、久し振りだった。
楽しい気持ちにさせてくれた江森へ何かしてやりたくて、つい本当の感想を伝えてしまった。
「冗談だよ。今日の江森、すごく……かっこよかった」
声には感情が込められていた。江森が好きだという気持ちを思いきり込めた。
言葉ではっきり伝えられないなら、態度で示すしかない。元々、伊織は自分の考えや思っていることを他人へ伝えるのが苦手であった。転んで怪我をした時、痛くても正直に「痛い」と口にするのでさえ憚 った。痛い痛いと喚き散らしながら泣くことのできる子供の素直さを、いつの頃からか失っていた。それに伴うように、どんどん臆病になっていった。周りの意見に合わせる方が楽だということも覚えてしまった。それでいいと開き直って生きながら、何か大切なものが自分には欠けていると思い出す度、怖くなった。
この想いを江森に知られるのも怖い。
けれど、気づいて欲しかった。今言った言葉は本心から出たものだと。そして、それを言わせたのは恋心なのだと、伊織は気づいて欲しかった。
到底、無理なことだとは、分かっていたのに。
「……ふーん。かっこよかった、かぁ」
「男に言われても、嬉しくないよな。……ごめん」
「いや、悪くないぜ。いい褒め言葉をもらった。これで俺の努力も報われたよ。あと俺の財布もな」
笑って言った後で、江森は「あ。そうだ」と何かを思い出したように立ち止まった。彼の行動を疑問に思い、足を止めた伊織の目の前に何か白いものが差し出される。
先ほど江森が、景品でもらった図書カードだった。
「これ、佐倉にやる。こないだと今日、つき合ってくれた礼」
「……は? もらえないよ、こんないいもの」
「遠慮すんなって。こう見えてもさ俺、佐倉には感謝してるんだぜ。いつもは一人で練習しに来るんだけど、集中できる分なんか物足りなくて。だからなんとなく佐倉を誘ってみたんだ。丁度よく、ひまそうにしてくれてたから」
「都合のいい奴、みたいに言わないでくれよ」
「だって実際、今日はバイトもないからひまだったんだろ? もしも俺が誘わなかったら何してた?」
「……まっすぐ家に帰って、勉強するか読書してたと思う」
「そういうのを世間一般的には〝ひまする〟って言うんだろ。でも俺は別にそれを悪いとは思ってない。佐倉がひましてくれてたおかげで、俺は二日間、思いきり楽しめたから」
言葉通りに、江森は楽し気な笑顔を浮かべていた。
そのままの表情で「ありがとな、佐倉」と言われた時、鼓動が騒ぎ出した。それと同時に、胸の内がざわめき出した。ただ、どういたしましてとでも答えておけばよかったものを、一つの可能性に気づいた伊織はそれをたずねずにはいられなかった。
「……もしかして、さっき景品を選ぶ時、俺にたとえ話をしてきたのって、このためだったのか……? 最初から、俺に渡す気で」
「まあな。見事に失敗したけど。でも、聞かなくてもよかったなってすぐに後悔したよ。佐倉ならどれを選ぶかなんて、ちょっと考えれば分かることだもんな。毎日、図書室に通って本を読んでるんだから、本が好きに決まってるじゃん」
「江森の言う通り……だけど、だからってこれはもらえない」
「頑固だなぁ、佐倉は。いいから受け取れよ。人がくれてやるって言うものは素直にもらっとくものだぜ」
江森は伊織が着ているシャツの胸ポケットへ、強引に封筒を押し込んだ。伊織が途中で手で制したために、上の方は半分ほど飛び出ている。
突き返そうか迷っていると、優しい声が耳に届いた。
「それで好きな本買えよ。バイトして金貯めてるってことは、読みたい本があっても買わずに我慢してるんだろ」
「なんで……、話してないのになんで分かるんだ」
「分かるよ。だってお前、家族の話してた時、嘘ついてたから」
「……ついてない」
「それも嘘。佐倉ん家 、あまり親子の仲がよくないだろ。俺には分かる。だから貯めた金は親に取られないように隠してるんだよな」
「違う」
「進路だって、本当は大学に行きたいのに、親と不仲だからってあきらめてるんじゃないの」
「違うよ、そんなんじゃない」
「嘘ついてもすぐに分かるって」
「お前に何が分かるって言うんだよ……!」
はっとしたのは、怒鳴ってからだった。
脇を通り去って行く通行人が、何事かとこちらを見ている気配がした。が、止まらなかった。
「俺のことなんて、何にも知らないくせに。分かるわけないよ、江森には。俺の気持ちなんて理解できるわけない」
「佐倉……?」
「俺がどんな思いで今日、お前と街に来たのか。どんな思いで、お前がホームラン打つとこを見たいって言ったのか。それを言ったところで、きっと江森には意味が分からないよ。俺と江森は、住んでる世界が違うから」
「何、言ってんだよ。おい佐倉、ちょっと落ち着け、……」
江森の声が突然、しなくなった。
視界が滲む。目の前に立つ江森の姿と街並みが、絵の具を混ぜたみたいにぐちゃぐちゃになる。目が針で差したように、痛い。
熱を持った頬の上を、何か冷たいものが滑り落ちていく。
大嫌いだ。江森なんて。
「うおっ。ど、どうしたんだよ佐倉! え、俺なんか泣かせるようなことお前に言ったか。ご、ごめん!」
あわてふためく江森の声がする。彼は、伊織が泣き出したのは自分のせいだと思い込んでいるらしかった。彼の優しさに救われていたはずなのに、今は何故か、はらわたが煮えくり返るほどに腹立たしかった。
嘘だよ。大好きだよ、江森が。どうしようもなく、好き。
衝動的に伸ばした手は、男の胸ぐらをつかんでいた。手の平にシャツの硬い感触。後先考えずに、強く引っ張る。最後まで引き終える直前に、背伸びをすることを忘れなかった。
重ねた唇は、驚くほどに熱かった。
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