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第12話 嘘

 チッチッ……と、時計の秒針が発生させる微かな音。浅い眠りから覚醒するにはその程度のもので充分だった。重い身を起こして時刻を確認すると、まだ五時半だった。片側を段ボールで遮られた窓からは、日光が弱く入り込んでいる。  開いたまぶたは、いつも以上に重たかった。  帰って来てから泣き疲れて眠るまでの間、実に二時間は泣くことに費やしたと思う。目尻と鼻が、とめどなく溢れる涙と鼻水を拭い続けたせいでヒリヒリと痛んだ。  江森にフラれた。  事実上、そういうことになるのだろうが、最後まで想いを告げることはなかった。  拒絶されたと言い表す方が正しいような気がする。伊織が起こした行動を、江森は受け入れなかった。受け入れられるはずもないと最初から分かっていたけども。  意識を取り戻したばかりでぼんやりとしている頭は、勝手に回想を始めた。  誰かとキスをしたのは、初めてだった。  やわらかくて、温かくて、ほんの少しだけ苦い。ファーストキスへ伊織が抱いた感想は、そのようなものだった。  余韻を楽しむひまはなかった。  江森の手に強い力で突き飛ばされた後、伊織は数秒間、動くことができなかった。  大方、予想した通りの結果になった。いつも予想を裏切ってくる江森に「勝った」とすら思った。こうなるだろうと分かってはいたけれど、やはりショックは大きかった。伊織は、自分自身の感情の予測まではできていなかった。  その時は、不思議と涙は止まっていた。  「何、してんだよ。え……意味分かんねぇ。何、どういうこと」  困惑した問いかけには、まともに答えてやれなかった。口の中がカラカラに乾いていた。目だけはそらさずに、まっすぐ相手の男を見つめていた。  ここで全て、終わらせる。江森への想いを断ち切らなければ。  「ただの嫌がらせ。見透かすようなこと言われて、腹が立ったから。それだけ」  「は? 嫌がらせって、今のが? また嘘ついてるだろ、お前」  「さっきから俺を嘘つき呼ばわりしやがって、何が〝俺には分かる〟だよ。ただの野球バカなくせに。四番のくせに、ホームラン打つまで時間かかり過ぎだし。江森って、本当は野球あんまり上手くないんじゃないの? たまたま四番に選ばれたから、粋がってるだけなんだ」  「あのな! ホームランなんてそうポンポン簡単に打てるものじゃないんだよ。一つの試合で一本打てるかどうかの割合なんだぞ。だからさっきのアレは奇跡に近いんだって。佐倉もさっきは〝かっこよかった〟って、言ってくれただろ」  あれは嘘だったのかよ。その一言には胸が痛んだ。  だが、やめるわけにはいかなかった。  「ああ、嘘だよ。あんなの嘘に決まってる。本当は俺、迷惑してたんだ。お前に誘われた時に断りきれなくて、それを今でも後悔してる。ほんと、面倒なことに巻き込まれたよ」  「どうしたんだよ佐倉、お前だってついさっきまであんなに楽しそうにしてたじゃないか。あれも嘘だって言うのか? 演技だったって、そう言うのかよ」  「そうだよ。一応は、江森を気遣おうと思ってさ。優しいだろ俺。いい奴だろ」  言葉の後半、声が震えた。  ぐいっと、強引に胸ぐらをつかまれ引っ張られる。またキスをするというわけではなかった。そんな甘い出来事は、この時の二人の間には、もう二度と起きようがないものだった。  荒い息遣いが聞こえる。  猫が威嚇をする時のような。とびかかってめちゃくちゃに傷つけたいのを必死でこらえている。そんな画が浮かんだ。我慢せずに殴れよと思った。いっそ、殴ってくれと懇願すらした。強い拳を受けたら、気持ちも晴れてすっきりするかもしれないと思った。そうすれば江森も怒りを発散できて、双方のためになる。  しかし、だめだった。  期待した出来事は、いつまでも起こりそうになかった。江森は怒りの滲んだ眼差しを伊織に向けるばかりで、手を挙げようとはしなかった。理性が彼を押さえつけているらしかった。  伊織は伊織で、まだ江森のことが好きだった。  憤慨している彼を目の前にしても、好きだった。真一文字に結ばれているその唇に、もう一度口づけたかった。抱きしめて、触れて、身体中を噛み痕でいっぱいにしたい。同じことを江森からもされたい。  願望はついに、何一つ実現しなかった。江森はすがめた目を伊織からそらし、シャツから手を離した。  「……ごめん」  謝られた途端、とてつもなくみじめな気持ちになった。  何一つ悪いことなどしていないのに反省したような表情を浮かべているその顔を、無性に殴りたくなった。何処まで優しいんだよと、笑い飛ばせたならどんなによかっただろう。  「佐倉にとってはすごく、迷惑だったんだな。なのに俺、何にも気がつかずに一人ではしゃいで……、バカみたいだ」  いや、実際バカだけど。自嘲気味に笑って江森が言う。  違う。そうじゃないよ。  江森は誰より野球が上手くて、誰より一生懸命で、誰より優しいよ。  まだ出会って日は浅いけど、それくらいなら俺も知ってるよ。  江森の素敵なところはまだたくさんある。数えきれないくらい。  そしてその全部が、俺は好きだよ。  いつまでも好きだよ。  こらえていた気持ちが溢れ出そうになる。大好きな人を傷つけてしまったと自覚し、つい本当のことを言って謝りたくなった。今ならまだ間に合う。優しい江森は、きっと笑って許してくれる。俺のせいじゃなかったのかーと言って、安心してくれる。  引き返す、という選択肢を、伊織は選ばなかった。  「……じゃあ」  小さく告げた声は、やっぱり震えてしまった。  せめて泣き顔だけはこれ以上、見せたくない。だから全速力で走った。ろくに前を見ずに走ったせいで、何度か通行人にぶつかった。その内、二度は怒鳴られた。  息が続かなくなって立ち止まった瞬間、こらえていた涙が一気に溢れ出す。  伊織はその場にうずくまって、声を殺して泣いた。  それから、どうやって家へ帰って来たのかおぼえていなかった。  ただいつも通りに美味くもない晩飯を食べ、風呂にも入らずに自室へ引っ込んだ。  ベッドに寝転がって天井を見上げたら、視界が滲んだ。道端で、水たまりができそうなほど泣いたというのに、まだ涙は枯れていなかった。いっそのこと枯らしてやろうと思い泣き続けたら、いつの間にか眠っていた。  もう、江森には会えない。  恋人にはおろか、友達にもなれない。  自分から望んでそうした。友達として接し、本当の気持ちを隠したまま過ごすくらいならば、派手にフラれようと思った。  鮮烈な記憶を残し、江森を失恋相手として認識すれば、この気持ちも()める。  そう信じて疑わなかった。  やっとはっきりしてきた視界が、何故かぼやけた。    枯れたと思った涙が、また出てきた。なかったことにしたはずの江森への想いも、徐々に熱を帯び始めた。  「嫌い。江森なんか、大嫌い」  口にしたところで、何も変わらなかった。  枕に顔をうずめ、伊織は何度もしゃくり上げた。  窓から差し込む光が段々と強くなっていくのが背後に見え、朝が来たのだと思うとただ憎らしかった。

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