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第13話 昼休みの終わり

   江森との一件があった翌日、伊織は学校とバイトを休んだ。双方には、ただ「体調不良」とだけ理由をつけた。今度は嘘ではなく、本当に具合が悪かった。何時間も泣き続けたせいなのか、一日中ひどい頭痛に悩まされる羽目になった。  土日はバイト先に顔を出し、月曜からはまた元通り学校へ通った。  正直、いつ江森とばったり出くわすかと思えば、気が気ではなかった。話しかけられても無視する気でいた。移動教室の時や昼休みに廊下を歩いている時など、毎日を警戒して過ごしたが、声をかけられることはおろか、江森の姿を見かけることもなかった。まるで本当に、彼とは一度も会ったこともなく存在すら認識していなかったあの頃に戻ったようだった。これでよかったのだと言い聞かせ自分自身を納得させようとしたが、心の中にぽっかりと大きな穴が開いてしまったような気がしてならなかった。  胸に喪失感を抱えたまま、季節は過ぎた。  十一月に入ると、周りの景色が秋から冬へと一気に様変わりした。前月から制服も冬服になり、体育の授業を外で受けるのが辛くなってきた。  もうすぐこの街にも初雪が降るだろう。  図書室の窓の外に見える枯れ木を眺めながら、伊織は思った。ここへの出入りは相変わらず続けていた。最も、十月の半ば頃までは委員の仕事がある日以外は通うのを控えていた。いつかのように、また廊下の途中で江森に会うかもしれないと思うと、教室から出るのさえ怖かった。  「何を見てるの?」  司書の小木が声をかけてきた。ぼんやりとしている伊織の様子が気にかかったらしい。三十代くらいの若い女性だ。いわゆる本の虫で、手が空いている時には常に読書をしているような人だった。  顔には笑みが浮かんでいた。屈託のない、あか抜けた笑顔。  人懐こそうに細められた瞳が、江森のものに似ていた。  伊織は彼女から目をそらしながら、「外の様子を。寒そうだなと思って」とだけ答えた。小木は窓の方を一瞥した後、共感したという風にうなずいた。  「そうね。もう十一月だものね。時が過ぎるのは早いわ。こないだまでセミが鳴いて、太陽がギラギラしてたのに。今年も残すところあと二か月足らずなんて、信じられないわ」  暑かった、今年の夏の風景を思い描く。  その中に、一際明るい光に照らされた白いユニフォームの後ろ姿をちらりと見かけたような気がした。  あの輝きがこちらを振り向いて微笑みかけてくれることも、もうない。  「今年の夏は、やたら暑かったですね」  手元の本に目を落としながら、そんな感想を伊織はこぼした。  昼休みが終わる数分前に、図書室を後にして教室に引き返す。次の授業は視聴覚室で受けることになっていた。五時限目が移動教室の際にはいつも教材道具を持ったまま図書室へ向かう伊織だったが、この日はうっかりしていた。読書しながら次の授業のことを思い出せたのは、潜在意識が働いたからだろうか。  最上階から、一階までの階段を下る。  東側に位置する階段は午後からは日も差さず薄暗い印象を生徒たちに与えるようだ。女子生徒の幽霊が出るという、根も葉もないうわさもある。そのせいなのか、伊織とすれ違う生徒の数は極端に少なかった。  授業の開始まで余裕をもって過ごすのも、たまにはいいものだ。  移動教室の時、自分の教室を出るのはいつも周囲の空席が目立ち始めてきた頃合いを見てからなので、チャイムが鳴り終わる直前に到着することも多い。  図書室を後にするのを早めてよかったと、改めて思う。  最後の一段に差しかかろうという時、ふと、目の前に薄く影が差した。  「視聴覚室に行くのか」  呼びかけられ、ビクッと身をすくませる。聞いたことのある声。  夢ででもいいから聞きたいと思ったけれど、夏の終わりからとうとう今まで聞くことのなかった声。  相手が誰なのかは、顔を上げるまでもなく判別できた。  「待って」  降りてきた階段を駆け上がろうとした伊織の腕は、制止する声とともにつかまれた。身体が前のめりに傾く。振りほどいて無理やり足を上げようとしたら、小脇に抱えていた筆箱が滑って落ちた。中身が、派手な音とともにそこら辺に散らばった。  「……筆箱の口を開けたままにする癖、直したら」  非難するような言い方ではなく、ため息混じりの優しい口調だった。  江森は落ちた筆記用具を、一つ一つ拾い上げて筆箱の中に入れていった。腕を離されたのを幸いとして逃げ出せばよかったと気がついたのは、彼が全ての落とし物を拾ってからだった。  「ほいよ。口は閉めてやったぞ」  「…………」  差し出された筆箱を、何も言わずに受け取る。  無言のまま脇をすり抜けようとしたが、江森がそれを許すはずがなかった。骨ばった大きな手に、今度は手首をつかまれる。  その手に身体中を触られてめちゃくちゃにされたいと一度は考えた。    叶いはしないと分かっていた。けれど彼に触れられる度、考えてしまう。ただ姿を一目見るだけでときめいていたあの時も。今だって。  「……何。チャイムが鳴りそうだから、急いでるんだけど」  「少しだけでいい。俺の話、聞いて」  「離して。お前と話すことなんて、俺にはない」  「……嘘つき」  ぼそりと囁かれた一言。耳にした途端、頭にカッと血が上った。伊織はたまらず、大きく身をよじった。同時につかまれたままの右手を素早く振り上げる。  ぱしっ。水風船が落下して割れるような音が、廊下に反響した。  我に返ったのは、手の甲にじんわりとした痛みが広がってきてからだった。  生まれて初めて、人に手を挙げた。  振り上げたままの状態で硬直している伊織の腕には、まだ他人の温もりがあった。不意打ちを食らったはずの江森は微動だにしなかった。体育会系の頑丈さ故か、一歩身を引く動作すら見せなかった。  およそ二か月振りに、伊織は江森の顔を真正面から見上げた。  驚きはしたらしく、わずかに目を(みは)っていた。日焼けの薄くなった右の頬が、うっすらと赤くなっている。  無性に、泣きたくなった。  「ごめ……っ。俺、お前を傷つけるつもりはなくて、」  「分かってる」  江森は、なんともないとでもいうように肩をすくめて微笑んで見せた。つかまれていた腕が解放される。ほっとしたのと同時に、張り詰めていた気持ちが緩んでいく。まだ彼の体温に触れていたいと思った瞬間、今まで見ないふりをし続けていた熱が復活してきた。  一度でも限界まで高まった気持ちを無理やりなかったことにするなど、所詮、無理だったのか。  「こんな、時間ないような時にごめん。でも俺、あれからずっと気になって仕方がなかったんだ。気になって気になって、お前に話しかけて問いただしたいのをずっと我慢してた。ついさっきまでは我慢できてたんだ。……でもさ、もう限界」  ああ。なんだ。俺と一緒で、江森も我慢してたのか――。  それじゃ、俺とおんなじだな。初めて会った時にかけられた一言を思い出していた。  「なあ、佐倉。ちょっとだけ、俺につき合ってよ」  逃げようという気は起こらなかった。

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