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最終話 旅立ちは二人で
黄金色の街並みが通り過ぎてゆく。
冬の天気にしては珍しいほどの快晴だ。今日だけで路上の雪が全て溶けてしまうのではと思えるほど、日差しが強い。車窓越しからでも近づきつつある春の足音が聞こえてくるようだ。
いい天気になってよかった。
予報では、この一週間は比較的、落ち着いた天候が続く見込みだという。二月は連日のように雪が降り、吹雪になる日も多かった。三月に入ってからも大気が不安定で悪天候が続き、交通機関に遅延や欠航が発生する日もあった。
昨日行われた卒業式も生憎 の天気で、式の開始を遅らせる事態になるほどだった。つい二十四時間前の視界不良が嘘のようだ。この様子では、今日のフライトは予定通りだろう。
ぽかぽかとした陽光に、あくびがこぼれる。
「眠たい?」
ちらりと隣りを見上げ、うなずく。
昨晩はなかなか眠れなかった。期待と緊張がひっきりなしにやって来るせいで、まどろみかけては覚醒するのを繰り返す羽目になった。やっと眠りについたのは、二時をまわった頃だった。
四時間ほどの睡眠時間では、さすがに意識も朦朧としている。窓の外を眺めているだけでも、自然と首が傾いていく。
「着くまでもう少しかかるから、それまで寝てたら」
「……うん、そうする」
重い頭を、すぐ傍にある肩へ寄せる。硬いが、どんな枕よりも熟睡できそうだ。
温もりに頬をすり寄せると、頭頂部を撫でられた。壊れものを扱うような手つきに頬が緩む。
あと一時間もすれば飛行機の中だ。
あの真っ青な空を飛び、東京へ行く。大好きな人と一緒に。
一月の終わりに、伊織は初めて飛行機に乗って東京へ発った。
江森の叔母も同行してくれた。江森が東京へ飛び立った後、伊織は彼女に自分も上京する旨を話した。
「江森とは親友同士ではなく、恋人同士なんです」
切り出すと、叔母は面食らっていた。
当然の反応だと思った。だから「なんとなくだけど、気づいてた」という微笑みながらの一言には、目を瞠った。
「正人のこと、よろしくね」
話し合いの最後、叔母はいつもの明るい笑顔とともに伊織へ言った。
初めて理解者ができたのだと思うと、嬉しかった。その晩、江森へ電話をして事情を話すと、彼は笑い始めた。そんなことだろうと思った。笑い声の途中で呟きを聞いた。スマホを手にしたまま伊織も笑った。二人で気が済むまで笑い合った。
伊織は、養父母にも東京行きのことを話した。
恋人の存在まで伝えるべきか迷ったが、包み隠さず話すことにした。両者とも驚いていた。今まで素気のない態度しか見せなかった養母が憂慮の言葉をかけてきた時には、伊織も驚かされた。
あれこれとたずねられた結果、二人は肯定も否定もしてこなかった。
東京へ行ったらちゃんと働き口を見つけること。一年に一度は故郷へ帰って来て、両親の仏壇に手を合わせること。
この二つを条件として提示してきただけだった。
必ず守ると約束し、五年間住まわせてもらった礼を手紙にしたためて、伊織は今朝、仮住まいを後にしてきた。決して楽しい暮らしではなかったけれど、最後まで追い出すという選択をしなかった養父母には感謝していた。遠くの大学へ進学したきり顔も見せない息子とも、これからは良好な関係を築けるようになればいいのにと思った。
彼のことはまだ赦 せない。二度と逢う気もない。
しかし、いつかは赦せるようになりたかった。された仕打ちは、まだ傷痕となって残っている。だが、それはこれから癒せばいい。ゆっくりと、時間をかけて癒していく。いずれは痕すら見えなくなるくらいに。
つらかった分、哀しかった分、たくさん幸せになる。正人と。
閉じたまぶたの裏に、両親の姿が浮かんだ。こちらを心配そうに振り返っていた二人は微かな笑みを過らせると、前を向いて歩き出した。二人で寄り添うようにして、伊織の元から離れていく。もう二度と、戻っては来ない。
手を振って見送る。いつの間にか、隣りに江森がいた。
下ろしている方の手を握られた。大きくて優しい、その温もりに身を委ねる。
恋人の肩を枕に見る夢は、少しだけ切なくて、けれど希望に満ちていた。
「荷物、ここにのせていいよ」
バスを降りて空港へ歩き出す直前、江森がキャリーケースの上を指さして言った。
重いからいいと遠慮しても、しつこく声をかけてきたので伊織はあきらめた。じゃあと、持っていたボストンバッグを高く持ち上げ江森のキャリーケースの上へのせる。
「重っ……! 何入ってんだよ、中。俺の荷物より重くない?」
「何って、生活用品ばかりだよ。荷造りしてたら、おばさんが色々とくれたんだ。日持ちするレトルト食品とか乾物とか、食べものは結構もらった」
「重量オーバーしないだろうな……」
「さあ。どうだろう」
「東京に着く前から不安になってきたんだけど……」
じゃあ行くのやめようか。笑って問いかけると、軽い蹴りが飛んできた。運動が不得意の伊織にも難なくかわせるものだ。江森の動向は、少しずつ予想できるようになっていた。そのことを伊織は純粋に嬉しいと感じた。
数年前に増築工事がなされたばかりのターミナルビルは、人でごった返していた。商業施設も充実しているため、仕事でおとずれた者より家族連れなど観光客の姿が目立つ。
生まれてから一度も来たことのなかった場所へ、この短期間で二度もおとずれることになるとは。
一度目に来た時は、巨大な建物を見上げただけで童心へ返ったようにわくわくした。中へ入ってからも目新しい光景ばかりで、危うく江森の叔母に置いて行かれかけたものだ。
「初めて羽田に行った時、人の多さに目がまわりそうになった。叔母さんは、なんだかすごく生き生きしてて、心強かった」
「ああ。おばちゃん、若い時は東京に住んでたからな。だから物件探しとか、手続きとか、手慣れてただろ」
「そうなんだ。どうりで東京のこと、よく知ってるわけだな」
「俺もあっちに行く前、色々と教えてもらった。電車の路線のこととか、美味いラーメン屋の情報まで。ってことで、時間があったら一緒にその店行こうな」
「野球選手に休みなんかあるの……?」
伊織は東京の隅、都心からは離れた位置にある住宅地に小さな部屋を借りた。初期費用は、アルバイトで貯めた金でなんとか足りた。引っ越しと言っても、持ってきたのはボストンバッグ一つだけで、必要な家具や家電は今後、買いそろえなければならない。確か余りがあったはずと、江森が実家から伊織の入居先へ布団一式を送るように手配してくれた。部屋へ到着したら、夕方あたりに大きな段ボール箱が届くはずだ。
面倒を見てくれた江森の叔母には、落ち着いたら改めて礼をしようと考えていた。物件探しを手伝ってもらったり、連帯保証人を名乗り出てくれたりと、何処までも心の広い彼女には感謝が絶えない。
働き口のことなど、まだ不安なことも多い。
それでも、なんとかなるような気がしてならないのは、恋人の気楽さに影響を受けたせいだろうか。
「こっち。ここからなら飛行機見られるよ」
大きな窓の前で江森が手招きしている。
彼の隣りに立って外を見る。一機の機体が、建物から少し離れた位置でフライトを待っていた。空の青色に白い機体がよく映えている。
「こないだ乗った時、天気が悪くてすごく揺れたんだよな……」
「酔った?」
「酔う、というか、落ちるかと思った」
「落ちるかよ。俺は悪天候の日にもう二回も乗ってるけど、生きてるだろ」
「実家からここまで出てくる時は乗らなかったの?」
「そん時は電車だった。なんせ近くに空港もないような田舎町だったからな。初めてこの街を歩いた時は、人の多さにびっくりしたよ。ちなみに東京に行った時もリアクションは同じだった。あっちは、ここよりもさらに騒がしいけどな」
苦笑する江森をしばし見つめ、伊織は彼の故郷を想った。
一度だけ「これが実家」と言って江森に写真を見せてもらった。山と畑に囲まれた一軒家。その前に立つ家族の姿を遠目に写したものだった。写真は夏に撮られたものだったが、伊織はそこに雪虫の姿を連想した。
冬はあたり一面の銀世界。春になれば桜や野花が咲き、かぐわしい香りを放つ。艶やかな花弁が新緑の中で風に吹かれて誇らしげに揺れる。
どれほど素敵な光景なのだろう。
「行ってみたいな。正人のふるさと」
何処までも続く青い空を眺めながら呟く。この向こうに、彼の故郷はある。東京よりは近いのだろう。けれど、自分にはまだ遠く感じられる場所。
「俺も伊織に見せたい。だからつれて行くよ、今度きっと」
「うん。楽しみにしてる」
「いつかはアメリカにもつれて行くからな。そうしたらさ、結婚しよう」
突拍子もなかった。
伊織は声を出すこともできずに、江森の顔を凝視した。彼はまだ窓の外を見ていた。屈託のない笑みばかりが留まることの多いそこには、ほんのわずかな緩みも隙もなかった。甲子園でバッターボックスに立っていた時よりも、よほど真剣な表情をしているように思えるほどだ。
「は……? け、結婚って……、男同士でそんなこと、できるわけないだろ」
「それができるんだよ、あっちではさ。さすが自由の国って感じだよな」
「い、いやいや! もし本当にできるんだとしても、まず行けると思えないし」
「え、伊織が神社で願ってくれたんじゃん。俺がメジャーリーグで活躍するようにって。あの時から俺と伊織はアメリカへ行くって決まってるも同然だろ」
「お前、どんだけ神頼みにかけてんだよ。神様に頼めば何でも叶うって思ってるなら、大間違いだからな」
「そこまでは思ってないけど……、好きな人の願い事って特別だろ。伊織の願い事聞いた時、絶対に俺が叶えてやりたいって思ったんだ。どれくらいかかるかは分からない。でもさ、何年かかったとしても、きっと実現してみせるから。もちろん、俺の願い事も一緒に」
声に、言葉に秘められた力強さに、江森の本心を見た。
単なる戯言 ではない。本気なのだ。彼の瞳は遥か先の未来を見据えていた。かつて伊織が想像することさえしなかった未来だ。
江森が思い描くそこには、伊織もいる。
何年後、何十年後か知れない景色の中にも、確かに。たった今こうしているように、隣りに並んで空を見上げている。お互いに考えていることは違っても、同じ場所にいて、同じ時を過ごしている。
どんな明日が待っていようと、二人は決して離れずに一つの道を歩き続ける。
長く続く道だとは思えなかった。
だが伊織は、馬鹿にすることも笑い飛ばすこともしなかった。恋人の顔を見つめることだけに専念した。
瞳は光り輝いていた。
そこにはわずかな憂慮も躊躇いもありはしない。あるのは、伊織へのまっすぐな愛と将来への期待ばかりだった。
どんな世界が見えているのだろう。
映り込んだ光景を取り出して、眺めてみたい。できることなら、自分の姿ごと永遠に保存しておきたい。いくつ年月が過ぎても、忘れないように。
いつまでもおぼえていられるように。
「ねえ。有言実行した時も、俺について来てくれる?」
いたずらっ子の微笑みがたずねてくる。
指先で頬をつついてやりたくなった。
「ついて行くよ。俺は、正人とだったら何処へでも行けるから」
少しだけ背伸びをして、自ら江森の唇に口づける。短いキスを済ませた後、彼は照れたように笑った。日に焼けた顔は、出逢った頃より大人びていた。
君が隣りにいてくれたら、そこが何処であろうと俺の居場所になる――。
夢物語だとしても、後悔はしない。
これから先、たくさんの困難に見舞われてつまずきっぱなしでも、この気持ちを思い出せば立ち上がれる。何度だって、また前に進める。
進んだ先に、大切な人の姿を見つけられたなら、最高だ。
繋いだ手に、江森の鼓動を感じた。
日向は陰ることなく、長い人生を同じ歩幅で歩んで行く二人を包んでいた。
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