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第35話 幸せに

 「目と鼻、真っ赤になってる」  歩きながら伊織の顔を覗き込み、江森が笑う。ベッドの上で身体を触り合う時に見せる丁寧な手つきで、伊織のマフラーを整えた。  「ちょっと泣き過ぎた。嬉しいのと怖いのがごっちゃになって、止まらなくなっちゃった」    愛おしさに満ちた眼差し。真正面から受け止め、伊織は微笑みを返した。神社の境内で大泣きしてから少し経つが、まだ目元がヒリヒリした。頬筋が筋肉痛になりそうなほど痛かった。  「誘ってくれたこと、本当に……嬉しかった。ありがとう」  「どういたしまして。というかお互いさま。俺からも礼、言わせて。俺のこと好きになってくれたのもそうだし、東京までついて来てくれることも、本当に嬉しい。ありがとな」  嬉しいのもお互いさまだ。こらえきれずに笑みを見せ、隣りを行く江森の腕に自分の腕を絡める。周りの視線など気にならなくなっていた。  雪の降り積もった住宅街を歩き、十字路を右へ曲がる。  小さな公園を通り過ぎた先にある大きな建物。築二十年以上のアパートだ。白い壁と、病院を思わせる飾り気のない外観は変わらない。五年前よりも少しだけ古ぼけた姿で伊織の前に建っている。  「前に住んでたアパート。赤ちゃんの時から両親が死ぬまで、ずっとここに住んでた」  懐かしいな。口の中で呟けば、江森がそうだろうなとうなずいた。  「どの部屋に住んでたんだ?」  「えっと……、五階の、真ん中あたりの――」  アパートの階上を見上げ、視界の中にあるドアを指先でなぞっていく。いくつも並んだ深緑色の一つが、勢いよく開け放たれた。  「はやく、はやくっ。もうオレ、めっちゃはらへった!」  「オレもー! ごちそう、はやくたべたいっ」  「おこさまランチー!」  部屋の中から子供が二人飛び出してきて、玄関の前で無邪気に騒ぎ立てている。  どちらも男の子だ。彼らに急かされて、困ったように笑いながら父親が外に出てきた。続いて、腕に小さな女の子を抱いた母親が姿を現した。冬まかないをして、これから何処かへ出かけるのだろう。  「エレベーターまで、きょーそー」  「あ! ずるいぞおまえー」  滑るから走るなとたしなめられても、男の子たちは聞く耳を持たなかった。  言うことを聞かない息子たちに、父と母は苦笑している。昔を思い出すようだ。伊織は下ろした手を上着のポケットに突っ込んだ。  「今はあの人たちが住んでるのか。五人家族には、狭そうだな」  「ああ、あの部屋か。へえ、伊織はあそこにいたんだ」  いたのだ、確かに。記憶はおぼろげになってしまっているけれど、残っている。  忘れることはないのだろう。両親と過ごした遠く懐かしい日々も、失くした時の哀しみも、命が尽きるその瞬間までおぼえている。アパートが取り壊されてなくなっても、きっと思い出せる。その場所には自分も存在していて、幸せな時間が流れていたということを。  アパートの中から子供たちが飛び出してきた。さっきの男の子たちだ。  彼らは外に出るなり道路の脇に積み上げられた雪を手に取り、手袋をつけた手でぎゅっぎゅっと押し固め始めた。即座に、雪合戦が始まる。  「こらー、他の人に当たったらどうするの。やめなさいっ」  「まあ。二人とも、今日も元気がいいわねぇ」  少し遅れて子供たちの両親が出てくる。  彼らの後に続くようにして、プラスチック製のスコップを持った女性が姿を現した。聞き覚えのある声だった。  「じゃあ真瀬(ませ)さん、行ってきます」  「雪かき、よろしくお願いします」  「まかせて頂戴。気をつけて行ってらっしゃいね」  全身を雪まみれにした男の子たちが、両親を急かしながら走っていく。途中で何度も立ち止まり二人がちゃんとついて来ているか確認する様は、見ていて微笑ましい。  「あれは、子育てに手を焼きそうだな……。俺、考えただけでも憂うつ。親御さんに同情しそうになる」  「へえ。正人は子供の世話とか上手そうだと思ってたけど、そうじゃないのか」  「伊織それ、絶対見かけで判断しただろ。俺が子供っぽいと思って」  「見た目はどんどん大人びていくのにな。中身はいつまで経っても成長してくれないんだから、困ったもんだよ」  「いいんだよ、それも俺の魅力なんだから」  「魅力というより、欠点、じゃないのか……?」  「……ほんっと、伊織って時々ものすごくはっきり言うよな……」  「伊織くん……?」  先ほどの子供たちを真似て、江森が雪玉を作ろうとする。  そういうとこが子供っぽいんだ。笑いながら指摘していると、女性の声で名前を呼ばれた。名字ではなく、下の名前を。  呼びかけの主は、たった今スコップを手にアパートから出てきたあの女性だった。  「あなた、もしかして佐倉伊織くんじゃないの……? 前にここへ住んでた」  「え。あ、はい。そうですけど」  「私よ、私……! 管理人の真瀬!」  「真瀬さん……。あっ」  あの時の。呟くと、彼女は内容を把握しない内からうんうんと大きくうなずいた。  真瀬は、伊織が両親とともにアパートで暮らしていた時も管理人をしていた女性だ。おしゃべり好きで、親しみやすい女性という印象を受けたのを伊織は微かに思い出した。  住人が出かける場面へ遭遇すると、何処へ出かけるのかと毎回のようにたずねていたこともおぼえていた。彼女のその癖のおかげで、両親の出先で火災が発生したことをいち早く知ることができた。生徒の親が火災に巻き込まれているかもしれないと、伊織が通っていた中学校へ一報を入れたのは、彼女なのだ。  あの知らせがなければ、伊織はいつまでも帰って来ない両親を部屋で待ち続けていたかもしれない。  「久し振りねぇ。元気にしてた?」  「はい。おかげ様で」  「細っこいわよ、身体。ちゃんとご飯、食べさせてもらってるの?」  「ええ、食べてますよ」  ついこないだ江森から言われたものと同じ表現を耳にした。  そういえば、ここに住んでいた時もよく細っこいと言われていたっけ――。  懐かしさが込み上げ、伊織は自然と笑みを浮かべた。  「そう。元気そうで何よりだわ。ここを出て行った時、あなたまだ中学生だったから心配だったのよ。お節介って言われるかもしれないけれど、幼いあなたが本当に気がかりで……」  「その節は、お世話になりました。真瀬さんが知らせてくれなかったら、どうなってたか」  「その話は、もういいのよ。それより伊織くんはもう、高校生になったのよね?」  「はい。再来月、卒業します」  「ちゃんと進学できたのね……! よかったわぁ。卒業後はどうするか、もう決めてあるの?」  伊織は隣りに立つ男の顔を見上げた。  目が合う。どうかしたかと、視線でたずねられたような気がした。  彼に向けた微笑みを、伊織はそのまま真瀬にも見せた。  「東京に行きます。こいつと一緒に」  軽く腕を引いても、江森の身体はびくともしなかった。相変わらず、頑丈にできた奴だと皮肉とも称賛とも取れるような気持ちになる。  「こいつ、こう見えてもプロ野球選手になるんですよ。高校を卒業したらすぐ、プロの球団に入るんです。東京にある球団で、一人じゃ心許ないから一緒に行かないかって言うので、仕方なくついて行きます」  「プロ野球選手……!」  「ちょっと待てよ。一人じゃ心許ないとか、言った記憶ないんだけど」  「口で言わなくても、思いきり態度に出してただろ」  「だ、出してねぇし! 一人でだって行けるし!」  「そうか。じゃあ、やっぱりついて行くのはやめようかな」  「嘘です。一人、寂しいです。お願いだからついて来て」  「どうしようかな」  想いが通じ合っても、やはり何処か素直になりきれない部分は残っている。  これから変えていく。東京へ行って、恋人の活躍を近くで見守りながら、変えていく。些細なことを何でも分かち合えるように。いずれは、言葉にしなくてもお互いの考えを理解できるように。  まだおとずれない未来のことを思うだけでも、こんなに楽しい。  「よかった」  江森のペースに巻き込まれている最中、静かな声が耳に届く。  とん。軽く、右腕に触れられた。  温かい。ほんのりと花の匂いを嗅いだ気がした。  「幸せになるのね、これからたくさん」  「……はい。必ず」  必ず。短い一言の中に、ありったけの力強さと希望を込めた。  幸せになろう。両親の分まで、自分が。  「頑張ってね」  うなずく。江森が肩に肘をのせてきた。ずしりと重く、だけど不思議と鬱陶しさは感じなかった。  「まさか、活躍する前からサイン頼まれるとはなぁ」  いつになく明るい笑い声。隣りを歩く江森は嬉しそうだ。  「まだ試合に出てもないのにな。真瀬さんも、正人の叔母さんも気が早いよね」  「それだけ、期待されてるってことなんだろうけどな。まあ、気負いせずにこつこつやってくしかないかなぁ。サインの練習」  「野球もちゃんと練習しろよ」  伊織は冗談だと承知の上で突っ込んだ。そうしないと、江森が子供のようにむくれることを知っている。時々、図体ばかり大きくなって心の成長が伴っていないのではないかという気さえする。彼の純真さも伊織にはないもので、出会った頃は、それすら眩しく見えた。  江森は今でも眩しい。その輝きは衰えることなく、これからどんどん強くなっていくのだろう。  光源には、いつしか伊織も取り込まれていた。逃れようともがいたこともあった。それでも目をそらさずにここまでやって来られたのは、江森のおかげだ。弱い部分すらも認め、まっすぐに見つめ返して受け止めてくれたから。大きく腕を広げて抱きしめてくれたから、伊織は今ここにいる。  「卒業したら東京に行くこと、帰ったらおじさんとおばさんにも話すよ」  「話して、何か言われたりしないかな。無理に話すことないぞ」  「大丈夫。少しだけ、打ち解けられたんだ。あの人たちと」  「そっか。それ聞いて安心した。明後日、俺が東京行ったら伊織は話し相手がいなくて寂しいんじゃないかって思ってたけど、大丈夫そうだな」  「まあ……、寂しいだろうけど、なんとか乗り切るよ。東京に行く準備もあるから、忙しくなるだろうし。もしかしたら、寂しいって思うひまもないかも」  「ええー、少しは寂しがって欲しいけどなぁ」  寂しいのはお前の方じゃないのか。茶化そうとした時、江森の腹の虫が盛大に鳴いた。腕に着けたオレンジ色に目をやると、隣りで江森も同じ仕草をしていた。先に気がついた伊織が笑うと、江森は顔を上げて怪訝な眼差しを向けてきた。  「昼飯、何処かで食べようか。何食べたい?」  「うーん……、肉が食べたい。ハンバーガーとか」  近くにファストフード店など、あっただろうか。  五年前の地図を頭の中に思い描いていると、江森が腕を引っ張ってくる。そうと決まれば早く行こう、ということらしい。  気が早い奴は、ここにもう一人いた。  店に到着しない内から注文内容を決めてしまう男に、伊織は苦笑した。

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