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第34話 本当は

 街に冬がおとずれた。  十二月の初めに、江森は東京へ行った。契約書へサインをすることは、行く前から既に決めていたようだ。伊織は入団会見の様子を動画サイトで見た。ユニフォームを着た江森は、いつもよりさらに男前だった。  東京へ発つ数日前、一緒に行ってみないかと誘われた。だが伊織は断った。店が正月休みに入るまではアルバイトのシフトが入っているし、勉強もおろそかにできない。高校を卒業した後の予定はまだ決まっていない。十月に応募した二社目からも落とされた。それきり、伊織はろくに就職活動をしていない。今のアルバイト先にいられる内に、なるべく多く金を稼いでおきたかった。また江森がすねるのではと危惧したが、彼は「残念」と笑って意外にもあっさりと身を引いた。自分で断りを入れたのに、伊織は何故か物足りなさを感じた。  江森が帰ってくる日、伊織は先に彼の部屋をおとずれていた。夏と同様、鍵はポストの中に貼りつけてあった。恋人が、出発した時の倍以上にも荷物を増やして帰って来たのを見て、伊織は苦笑した。  「おばちゃんと美郷と、あと実家の奴らから色々と頼まれてさ。金が足りなくなりそうで、ヒヤヒヤした。あ、もちろん伊織へのおみやげもあるぞ」  東京みやげとしてもらったのは、手袋だった。  定番のお菓子などではなく何故、これを選んだのか。たずねると「だって伊織、持ってないだろ?」というごく簡単な答えが返ってきた。  「マフラーはしてるけど、両手はいつもそのままで寒そうだったからさ。伊織は寒がりだし、細っこいからすぐ風邪ひきそうで心配」  「だから、細っこいは余計だって」  「だって本当に細いじゃん。まあとにかく、食べものよりは実用的だし、よかったら使ってよ」  「……うん。ありがとう」  両手を入れてみると、大きさはぴったりだった。温もりに目を細めていると、それを江森が満足そうに笑って眺めていた。  みやげの手袋はすぐに活躍した。  この年は大雪になる日がやけに多く、各地で雪害が相次いで起こった。クリスマスの晩、江森の住むアパートがある地域一帯が停電し、明かりのない中で一夜を明かすというトラブルに伊織も巻き込まれた。  真っ暗でも問題ないと微笑んで、江森は暗闇の中でも器用に伊織を愛した。  「三が日が終わったら、球団の寮に入るんだ」  狭いベッドの上。片腕で伊織の身体を抱きしめたまま、江森は淡々とした口調で話し始めた。  「正月もろくに休まずに寮に入って、すぐトレーニング開始なんだって。野球選手ってやっぱり忙しいんだな。去年までは部活をサボる余裕もあったのに、プロの世界に行くとそれも通用しない。厳しい世界だよなぁ」  さも実感したような口振りで言っておきながら、彼はのんきに苦笑していた。未知の領域へも、物怖じせずに足を踏み出し始めているところを見ると、やはり江森は怖いもの知らずらしい。  彼らしさに思わず笑みをこぼす。  内心、伊織は耳をふさぎたかった。  もうすぐ江森と離れ離れになってしまう。じわじわと迫りくる寂しさを、自覚するのが怖かった。  「伊織は? 卒業したら、どうするつもりなの?」  何気なくなされた問いにすら胸が苦しくなった。  「……何も、決めてない」  びっしりと予定の書きこまれたスケジュール帳の前に、ろくに使われず白紙ばかりの己の手帳をさらすようなものだった。夢への階段を順調に上り始めた恋人のことを素直に喜んでやれない自分が、情けなかった。  「……そうか」  闇の中から、神妙な声がした。  手探りで首元を甘噛みする。江森は「くすぐったい」と笑い、身をよじった。その後、お返しとして身体中に口づけられ、痕を残された。  年が明けて二日目。雪がちらつく中、二人は神社へ初詣に出かけた。  前年に行った神社はよそうと真っ先に江森が提案した。何処か行きたいところはないかと言うので、伊織が以前住んでいた街にある神社まで足を伸ばすことになった。  郊外の住宅街にひっそりと建てられた赤い鳥居。肩を並べてくぐり、本殿へ伸びた階段を上る。  人影はまばらだった。元旦ならばもう少し賑わっているのだろうが、もともとお参りにおとずれる人が少ない神社であることも伊織は知っていた。  「街の中にある神社なんて、初めて来た」  小さな境内を江森は物珍しげに眺めた。彼の故郷には、山の上に大きな神社があった他は住宅地の外れに簡素な社がいくつか点在していただけなのだという。それでも地元の人たちの信仰心は(あつ)く、毎日通っている住民も少なくなかった。ちなみに俺もよく祖父母にお稲荷さんへつれて行かれた、と江森が懐かしそうに笑う。  「ここって、伊織がよく来てたとこなんだろ?」  「うん。正人みたいに頻繁ではなかったけど、時々は」  両親との思い出の場所だった。毎年、地域の夏祭りが催される時期と初詣には欠かさず足を運んだ。三人で境内を歩く時間は、とても安らかで落ち着けるものだった。  彼らを亡くし、引っ越してからはすっかり足が遠のいていた。  神社からばかりではなく、街そのものからだ。生まれ育ち馴染みのあるこの街には、あまりにも思い出が多すぎた。それら一つ一つから目をそらさずに歩くことなど、両親を亡くして間もない伊織には酷に思えた。  五年の月日は、心の傷を多少なりとも癒したようだ。思い入れのある鳥居を目にした時も、懐かしさを感じるだけで哀しい気持ちにはならなかった。  一人きりではなく、恋人と一緒だからなおさら平気なのかもしれなかった。  ガラガラと音を立てて鈴を鳴らし、二人同時に柏手を打つ。  願い事を済ませて隣りを見ると、江森はまだ祈っていた。真剣な顔で、何を想っているのか。  「どんなことお願いしたんだ?」  引いたおみくじの内容が悪く、落胆しながら結びつけている江森に聞く。  「伊織が教えてくれたら、教えてあげる」  「俺のは……、別に、大した願いじゃないよ」  「そうなの? 俺に叶えてあげられそうなこと?」  うなずき返し、伊織は「っていうか、お前にしか叶えられないこと」とぼそりとつけ加えた。  「それじゃあ、肝心の俺が聞かないと意味ないんじゃ……」  「いいんだよ、お前は知らなくても。高確率で叶うって信じてるし」  「ええー、逆にものすごく気になる。お願い、教えて伊織」  「……、……正人が、将来メジャーリーグで活躍しますように」  突然、ガバッと肩に腕をまわされ、髪をわしゃわしゃ撫でまわされた。急に何をするんだ。非難の目で見上げると、唇を落とされた。思わず手をやった右の頬は、熱っぽかった。  願っている間中、これでもかというくらいに強く念じていた。自分のことを差し置いて、真っ先に思いついた願いだった。  どんなに離れた場所にいようとも、俺は正人を応援する。    それだけはずっと変わらない。  「俺は、いつまでも伊織と一緒にいられますようにって願った。高確率どころか、絶対に叶うって信じてる」  「信じるって、何を根拠に……」  吐き捨てるように呟き、伊織はうつむいた。  明後日には、江森は東京へ行ってしまう。  まだ雪が降りやまず、溶け出しすらしない内に。そうすれば、伊織はまた独りきりだ。頼れる相手もいないこの街で独り、生きていかなければならない。  無理やり東京までついて行くことはできる。  伊織には居場所がない。仮住まいを出てしまえば、他に行く当てもない。同じ部屋では暮らせなくとも、東京に住んでいれば江森に逢える機会も増える。  前向きに検討してもなお実行に移せなかったのは、まだ心の何処かに迷いがあったせいだ。同性とつき合っていることが知れたら、せっかく手に入れた江森の夢が崩壊してしまうかもしれない。  自分の存在のせいで、愛している人の人生を狂わせてしまったら。考えれば考えるほど、伊織は身動きが取れなくなっていった。  心からの願いは、神様にもさらけ出せない。  俺のこの願いは叶わなくてもいい。  なんてことを思っているって知ったら、正人は怒るだろうか――。  「これ見て」  上着の内ポケットから、江森が何かを取り出し見せてきた。四つ折りにたたまれたコピー用紙だった。紙の上部にとある航空会社のマークが描かれている。真ん中のあたりには「予約が完了しました」と太い文字で書いてあった。  「……飛行機?」  「そう。飛行機の予約って、結構前からできるもんなんだな。二か月も先の便なのに、今から予約できるってネットで知ってびっくりした。で、まだ早いかなとは思ったけど、予約しちゃった。卒業式にはこっちに戻って来て、終わったら東京にとんぼ返りだしさ。早いに越したことはないよな」  楽しげな声に目を伏せる。航空券を早期予約するほど、江森はこれからの生活を楽しみにしているのだ。  空港まで見送りに行く気力はあるだろうか。  彼の姿が見えなくなる瞬間まで、涙をこらえて、笑っていられるだろうか。  口の中に苦いものが込み上げてきた。  離れ離れになってしまうくらいなら、いっそ別れてしまおうかと思った。そうすれば、しばらくの間は毎日のように哀しみに襲われるだろうが、楽になれる気がした。狂おしいほどに逢いたい気持ちを抱えたままで過ごすよりは、全て忘れて生きる方がよっぽど身軽になれる。  あまりにも意気地のない考え方だ。自嘲するよりも先に伊織は自分自身に苛立った。何処にいようとも江森を応援するのだと、ついさっき決意を新たにしたばかりではないか。  せめて、明日まで。江森と一緒に過ごせる時間を満喫しよう。たくさん話し、たくさん触れて、たくさん笑おう。  独り、東京に行く江森へ、心配をかけないように。  そして何より、自分が後悔しないために。  「席は二人分、予約してある」  一瞬、何を言われたのか分からなかった。  「……二人分……?」  足元に向けていた視線を上げる。  江森は笑っていた。  伊織に想いを告げ初めて口づける瞬間に見せた、やわらかい微笑み。瞳は揺るぎなく、目の前の伊織だけを映していた。  「卒業式が終わったら、一緒に行かないか。東京」  きゅっ。地面で雪が鳴いた。  視界がぼやける。雪景色の白色が目にしみた。  答えなど、簡単に出せるものではなかった。  「……一緒に行っても、逢える時間なんて一握りだよ」  「いい。一時間でも、三十分でも逢えるなら、それでいい。夢が叶ったのは嬉しいけどさ、それで好きな人とずっと逢えなくなるなんて、耐えられない。多分、野球で結果を出せないのと同じくらい、きつい。去年の甲子園の時に痛いほど分かった」  「選手になったら、女の人からたくさん声かけられるよ。正人なら美人にだってモテるに決まってる。それでも、俺のこと必要……? やっぱ可愛い女の子とつき合う方がいいやって、思い知るかもよ」  「伊織だって、女じゃないけど美人だろ。それに可愛い。笑い声も、怒ってる顔も、ちょっと泣き虫なところも、俺はぜんぶ好きだよ。こんなに好きな奴のこと、必要ないって思うわけないだろ」  「大活躍して、有名になって、そんな時につき合ってるのが男だってばれるかもしれないんだぞ」  「その時は、みんなの前で堂々と伊織のこと紹介すればいい」  周りから何を言われようとも、気にしない。一度決めたことは決して曲げず、やれるところまで貫き通す。江森はそういう男だった。伊織は誰よりもそれをよく知っていた。  出逢った時から何も変わらない。江森は今も自分の気持ちに正直だ。  自分を殺してばかりの伊織は、どんな時でも自由に振る舞うことのできる江森がうらやましかった。控えめに生きることしか知らない伊織は、自分にはないものを持っている彼に惹かれた。男だろうが女だろうが関係なく、ただ引き寄せられるように。  あるいは、江森も同じだったのだろうか。  「我がままだってことは分かってる。俺が誘ったせいで、お前が苦労するかもしれないって考えたら怖い。去年の夏までは怖いものなんて何もないと思ってた。伊織と出逢って、好きになってから、急に周りは怖いものだらけなんだって気づいた。けど、気づけたおかげで正面から向き合えたし、怖さは半減したんだ。ぜんぶ、伊織のおかげだよ。お前に出逢えてなかったら俺、知るべきことを知らずに大人になって行った気がする。急に思い知る時が来て、一人で怯える羽目になってたかもしれない。伊織が俺のこと、救ってくれたんだ」  「救うって、俺は何もしてない。東京までついて行ったって、何の役にも立てない。それどころか足手まといになるかもしれない。そうしたらまた、正人を傷つける」  痛みには慣れている。自分はいくら傷ついてもよかった。だけど江森が自分のせいで傷つく姿を見るのは、耐えられない。  「もう、嫌なんだよ。俺のせいで傷つく人がいたり、誰かがいなくなるのは。だからっ、」  「伊織」  名を呼ばれた。直後、強く引き寄せられた。  「一緒に行こう」  江森の決意は揺るがなかった。  「傷ついてもいいよ。そこからきっと、何か学べることがあるはずだから。傷ついても、周りからどんなふうに見られてもいい。それでも俺は、伊織と一緒にいたい」  我がままでごめん。耳元で苦笑が聞こえた。あどけなさの残る、無邪気な声だと思った。  今だけだ。神様にも言えなかった願い事も、今だけなら正直に言える。  本当はずっと待っていた。  一緒に行こう。その一言を、伊織は江森から言って欲しかったのだ。いつまでも迷ってばかりで頼りなく立ち尽くすばかりの背中を、ただ押して欲しかった。あとは自分から彼の手を引いて走り出すだけ。二人一緒ならば、何処までも走っていけそうな気がした。  「……行く」  迷いや不安をかなぐり捨て、伊織は声をしぼりだした。  「正人と一緒に……行きたい」  「うん。行こう」  それきり、何一つまともに言葉にならなかった。出てくるのは涙と嗚咽ばかりで。  幼子へ戻ったように、伊織は江森の腕の中で泣きじゃくった。  「もう。本当に泣き虫だな、伊織は」  何処かで聞いたことのあるような台詞。    からかいの言葉は、想像していたより何倍も優しく温かかった。

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